臆病者

 見間違いじゃないだろう。あんな立派な撫で肩、この街でもあいつしかいない。ファミレスの制服着てるってことはここで働いてるのかな。さりげなく横を通って確認する。別のテーブルで注文をとっている横顔を見て確信した。その場では声をかけず、自分たちのテーブルにドリンクを置いてからもう一度撫で肩の元に戻った。注文を聞き終わって厨房に戻ろうとしている撫で肩の肩をつかむ。
「店員さん」
 撫で肩は驚いたのか、少し跳ね上がった。慌てて振り向く。
「はい! どうされましたか、お客さ、ま……」
 俺だと気づいて、撫で肩はほっとしたのか顔をくしゃっとさせて笑った。笑うと情けなく下がる眉が特徴的で、俺は撫で肩の笑った顔を見るのが結構好きだった。
「なぁんや、おまえかよ! びっくりさせんなよなあ。何、食べに来たん?」
「まあな、おまえこそここでバイトしてたの? 知らなかった」
「ん、そうなんよ。まあゆっくりしてってや、話はまた今度な、俺さっき注文とったとこやからはよ行かんと」
「冷たいな。あのヘンな撫で肩のやつの接客態度が悪いって店長にクレームつけるぞ」
「何言い出すんやおまえ、勘弁してやもう」
 もちろん冗談なことはわかっているので撫で肩は笑ってその場を離れていった。俺もテーブルに戻る。黄色がだらしなく足を投げ出して、おぞましい色に濁ったドリンクをストローですすっていた。見てるだけで食欲が失せる。黄色は俺を見た。
「どこ行ってたんだよ?」
「撫で肩がいたからちょっと喋ってきた」
「撫で肩が?」とマッシロが反応した。
「マジ? 食べに来てんの?」と黄色も目を丸くする。
「いや、違う。なんかここでバイトしてるっぽい」
「へー知らなかったな。どうする、とりあえずクレームつけとく? 水が冷たいとかそういう理由で」
「とりあえずでそんなクレームつけられたら可哀想だろ」
 黄色と同レベルの思考回路だったことに若干落ち込みながらオレンジジュースを飲んだ。俺はストローを使うのがあんまり好きじゃない。マッシロはもう飲みほしていた。煙草がないので手元が寂しいのか、おしぼりで手遊びしている。
「お待たせいたしました」
 そこにようやく料理が来た。運んできたのは撫で肩だった。相手が俺らだとわかった撫で肩はまた笑顔になった。営業スマイルでないことがわかる。爽やかな笑顔ってこういうのを言うんだろうなあ。
「あっ、このメンツで食べに来てたんか」
「すみませーん責任者呼んでくださーい、この店員お客様にタメ口きいてきます、どういう教育してんですか、敬語も使えないなんて」
「ワアア黄色ごめんごめんやめてくれや、そんなマジで呼ばんでくれ大声出さんといて」
 黄色の場合はたとえ冗談でもとりあえずマジで呼ぶから危ない。隣のテーブルで食べていたカップルが怪訝な目でこっちを見て、すぐに見なかったふりをした。黄色は撫で肩をねめつける。
「やめてくださいお願いします、だろ? まったく立場をわきまえろよな、あとさあ、なんでマッシロの料理が先なの? 俺が頼んだやつは?」
「いやあの、それは単に順番の問題で……」
「どうなってんだやってらんねーよこのファミレスよお!!」
「黄色さん、あ、黄色様、申し訳ございません、謝りますんでマジ騒がないでくださいそろそろ本当に店長出てきそうなんで」
 何も悪くない撫で肩がペコペコ頭を下げている。いい加減可哀想なので俺は「とりあえず料理置いたら? 腕疲れるだろ」と促した。撫で肩は持っていた唐揚げ定食をテーブルに置いて、そそくさと厨房へ戻っていった。マッシロはヘラヘラ笑った。
「撫で肩相変わらず面白いなあ」
 黄色も性格悪くニヤニヤ笑っている。
「はは、本当。あいつ面白ぇよな、真面目なんだもん。ついからかっちゃう」
「そういうやつなんだよ」
 俺はざっくりフォローしておいた。撫で肩は真面目で面倒見がよくおまけに爽やかイケメン君なのでクラスの中心人物で、からかいがいがあるために結構いじられキャラでもある。だからこういう光景は日常茶飯事といえば日常茶飯事だった。
 マッシロはいただきますも言わずにもう食べ始めている。黄色が恨めしそうに見ている。たぶん、俺も恨めしそうな顔になっている。料理が揃うのを待って、同時にいただきますで食べ始めるような習慣は俺たちにはない。黄色はマッシロの唐揚げを睨みながら呟いた。
「撫で肩があと十秒以内に俺の料理持ってこなかったら俺はマジで責任者を呼ぶぜ……店長が通報したくなるくらい暴れまわってやる」
「俺もそんな気分だよ。ただしおまえがそんなことしたら俺は間違いなく他人の振りをするだろうけどな」
「おまえはそういうやつだよ」
 憎々しげにカウントを始めた黄色のところに、撫で肩が早足で料理を運んできた。間に合った。危機を回避できたことなど露知らない撫で肩は手際よく料理を並べていく。テーブルの上は一気に騒々しくなった。全部の料理を運び終わって、注文と合っているか確認すると撫で肩は安堵したように伝票を置いた。鉄板お熱くなっておりますのでお気をつけください。
「はい、じゃあごゆっくりどうぞ」
 声には疲れが滲んでいた。同情するよ。黄色はフォークを勢いよくスパゲティに突き刺した。俺も食べようと箸に手を伸ばした。早く胃袋に何か入れたい。そのとき撫で肩が不思議そうに尋ねてきた。
「それにしてもおまえらさ、なんで日曜なのに全員制服着てんの?マッシロにいたってはネクタイしてるし」
 俺が答える前に、黄色が口いっぱいにスパゲティを頬張ったままなんでもないように答えた。
「おえあおうひひあえりなぼ」 「え?」  黄色が口の中のものを飲み込んでからもう一度言う。 「俺ら葬式帰りなの」
「葬式?」
 飛び出した非日常的な単語に、撫で肩の大きい目がさらに大きく丸く見開かれた。眉根が寄る。
「……誰の?」
 黄色がふたたびスパゲティを食べるのに一生懸命になってしまったので俺が後を引き継いだ。
「んー、俺らの中学時代の友達」
 友達。
「ほら、こないだ踏切で高校生が轢かれて死んだろ? あれで死んだやつがそうなんだよ。あいつの葬式だったの」
 撫で肩はますます眉を下げて神妙な顔つきになった。一歩下がって胸に手を当てる。
「このたびはご愁傷様でした。お悔やみ申し上げます」
 自分の知り合いが死んだわけでもなかろうに、悲しそうだった。ほっといたら泣くんじゃないかとさえ思った。撫で肩は、見たこともなければ名前も知らない人間の死を悼むことができる。俺たちの知り合いだって理由だけで。マッシロも黄色も、一瞬咀嚼をやめて撫で肩を見た。見られていることに気づいたのか、撫で肩は神妙な表情を緩めた。
「そんな事情があったんか。でもおまえら、葬式帰りにファミレス寄ってこんなに食うってすげえ神経やなあ」
 さっきの黄色と似たような感想。決して皮肉ではなく、単純に感心しているっぽい。撫で肩は気のいいやつだから口には出さないものの、轢死して肉片と化した死体を想像してしまい、目の前のハンバーグにオエッとなっていることはわかった。そして、うまくいっているとは言えないにしても、それを表情に出すまいとしていることもわかる。俺たちの食欲まで損ねないように気遣ってくれてるわけだ。撫で肩は素直なやつだが、言わなくてもいいことは言わずにいることができる。それは結構難しいことで、俺は彼のそういう賢さが好きだ。感心する撫で肩に対して、自分でも考えていなかった言葉がするっと出てきた。
「まあ、俺らは生きてるわけだしな」
 あいつは死んだけど、俺らは生きてる。生きてるんだから食べなくちゃいけないし食べなくちゃ生きていけない。それだけのことだった。それに格別に空腹なんだ。こんなときに空腹になるってのがおかしいのかもしれないけど。それに俺は葬式で一粒の涙さえ出なかった。
「そっか、そうよな。じゃ、また学校でな」
 撫で肩はそう言って立ち去った。
「ふ、撫で肩やっぱ面白」
 黄色はそれだけ言ってまた食べるのに没頭し始めた。行儀も何も気にせず、音を立てて麺を吸い込む。黄色は口いっぱいに頬張って食べる癖がある。口の周りをミートソースでベタベタにして、もうスパゲッティを大方たいらげていた。マッシロも唐揚げをある種暴力的な勢いで貪っていた。すべてにおいてマイペースなマッシロがここまで真剣に食事する姿はなかなか見れるものじゃない。マッシロも俺と同じ感覚を味わったのかもしれない。葬式に出ることによって、腹の中の何かが空っぽになる感覚。もしかしたら、黄色も。いやこいつは神経図太いし普段から食事風景はこんな感じだからよくわからない。とにかく、傍から見れば俺たちは早食い競争でもしてるみたいに見えたことだろう。俺もようやくハンバーグに箸をつける。俺はハンバーグは箸で食べる派なのだ。ハンバーグを割ると、ジュワ、ととろけたチーズが溢れてきて熱された鉄板の上ではじける。まだ熱いそれを口に運びながら、死んだあいつのことを考える。列車に轢かれて飛び散り、粉々の肉片になってしまったあいつのことを考える。そんなことを想像しながらでもハンバーグはおいしいし、あいつが死んでも世界は廻っている。あいつは死んだ。俺たちは生きている。
 口の端から垂れる肉汁を拭いながら、葬式で見かけたあいつの両親のことも考えた。あいつの父親らしき男は疲れ切った顔をしていたし、母親らしき人は真っ赤に泣き腫らした目で終始うつむきがちだった。ふたりともここ数日で急激に老けこんだみたいな顔だった。母親は疲弊した顔で俺たちに向かってなんとか笑ってみせ、来てくれてありがとうと言った。俺たちが誰なのかわかってなかったろうが、高校の制服を見てとりあえず同級生だと思ったらしい。黄色は流暢にお悔やみの挨拶を述べた。黄色はその気になればとても礼儀正しくなれるし、自分に対して好印象を抱かせる方法を百通りくらい知っている。泣いている人を見ると自分も泣いてしまうマッシロの目は少し潤んでいた。俺は黙っていた。
 葬式が始まる前、事故死なのか自殺なのかはわからないままなのだと母親が親戚か近所の人か相手に話しているのが聞こえた。不運な事故だったんでしょう、と相手は母親を慰めていた。あんないい子が自殺する理由なんてどこにもないじゃありませんかと。
 ハンバーグを飲み込む。熱い塊が喉元を通り過ぎていく。お冷やを流し込んで、次の一口。俺はこのメンツの中ではかなり行儀がいい。ちゃんと三十回噛むし。
 誰も何も喋らずに食べることに夢中になっていた。ただ、食べていた。店内には、店を出た瞬間思い出せなくなるような退屈な曲がかかっているし、他の客の話し声や笑い声はここまで届くし、黄色のフォークがガチャガチャと皿にぶつかる音を立てて騒々しいのだけど、俺らのテーブルには奇妙な静けさがあった。食べる。その一念に全員が集中していた。そんなふうにしたところで、満たされるのは空腹感だけということもたぶん、知っていたけど。