臆病者

 理由がなくても生きてはいられる。でも誰かが死ぬと、人はその理由を探す。
 結局俺たちは葬式を途中で抜けてしまった。俺は母の葬式を含めて、人生の中で何度か葬式を経験しているが最後まで出られたためしがない。葬式を途中で抜けたことに明確な理由があるわけじゃない。いや、理由はある。あるけれど、言葉にできるようなものじゃないし、きっと言葉で説明しようとしてもうまくいかないと思う。口から生まれた黄色でも難しいだろう。理由というのは時々そういうものなのだ。
 オレンジジュースを勢いつけて飲みほした。溶け残った氷がカラランとコップの中にぶつかって涼しげな音を立てる。おかわりが欲しいけどドリンクバーまで行く時間さえ惜しく思えた。
 何もこんな日に死ぬことないよなあ、と俺はあいつの死を知ったときまずそう思った。
 あいつの死を俺に教えてくれたのはたまたま本屋で会った中学の同級生だった。俺は相手の名字もうろ覚えだったが、その彼があいつと同じ学校に通っているらしく、そのとき話題に上がったのだった。なあ知ってるか、あいつ列車に轢かれて死んだんだよ、と。彼にもあいつの死に対して悲しみや戸惑いはあるのだろうが、退屈な街で起こった非日常な出来事を他人に伝えられることに興奮も感じているようだった。他人が知らないことを自分は知っているという優越感が目の奥に見て取れた。
 夏の花が好きな人間は夏に死ぬんだよ、とあいつはいつか言っていた。それは太宰か誰かの小説の一節だった気がした。今思えばあいつは太宰好きだったんだなと思う。あいつは夏の花が好きだったんだろうか。あいつについては知らないことばかりだった。今になってそれがひどく惜しく感じられた。いいやつだったんだ、本当に。
 なあ、なんでおまえ今日死んだの?
 本屋で同級生と別れた後ぽつりと呟いてみた。返事はない。その日は俺の十七歳の誕生日。あいつの命日にもなった。やれやれ、これで俺は夏が来て自分の誕生日になるたびにあいつのことを思い出すことになるだろう。六月十三日。無意味の日。
 シーザーサラダは量のわりに値段が高い。でもこのファミレスのドレッシングが美味しいのでここに来るとついこれを頼んでしまう。そしていつも食べてからこの量でこの値段はひでえなあと思う。今日もあっという間になくなってしまい、同じことを思った。トマトの汁がしたたる。黄色は口元や手の指をいくら汚しても着てる服は決して汚さない。今はミートソースにまみれた指でかたそうなパンをちぎって口の中に押し込んでいる。マッシロは常識じゃ考えられないくらいお椀を傾けて味噌汁を飲んでいた。
 あいつの遺影はカメラじゃなくどこか別のところを見ていた。中学校の卒業アルバムの写真も少しだけ視線がずれていた気がする。人と話すときはちゃんと目を見て話していたくせに、ヘンなの。
 鶏肉の少ない親子丼をかきこみながらあいつの記憶を手繰り寄せる。このファミレスの親子丼は肉は少ないけどタレがかかってる卵が美味しい。
 俺とあいつは別に仲良しだったわけじゃなかった。休みの日に一緒にどっか出かけたり、漫画とか貸し借りしてたわけでもない。同じクラスなのに会話しない日の方が多かったくらいだ。それなのになぜだろう、俺たちは互いに対して、好意にも似たシンパシーを感じていた。親近感、なのだろうか。しかし、いったい、俺たちのどこに共通点があったんだろう。
 中学卒業以来一度も会ってなかったのに、あいつは唐突に俺の家まで会いに来たのだ。それが三日くらい前のこと。夕立が降った日の夕方で、あたりは雨のにおいで満たされていて蒸し暑かった。「久しぶりだな、二年ぶりくらいか?」と俺は驚いた。久しぶりどころかあいつが家に来るのは初めてだった。家の場所をわざわざ調べてまで何の用だろうと思ったら、中学時代に借りっぱなしだった数学のノートを返しに来たとのことだった。貸してたかどうかも俺は覚えてなかった。ぶっちゃけ今更そんなもんいらないのに律儀なやつだなあと思った。ノートを返してもらったあと、そのまま玄関先で辺りが暗くなるまで他愛もない話をした。何の話をしたかあまり覚えてない。共通の知り合いが今どうしてるかとか、その程度の話だったと思う。久しぶりに会う級友と話すのは、緊張感とある種の気まずさがあるものなのに、あいつに対してはそういうものを一切感じなかった。人との会話が楽しかったのも久しぶりだった。あいつは聞き上手で、下手な茶々を入れないし無駄なことを言わない。こっちが言いたいことをちゃんとわかって汲み取ってくれる稀有な人間だった。そういう能力って、重要なわりに意外と持ってるやつは少ないもんなんだよな。
 そこまで思い出してふと悲しくなった。そう、あいつはいいやつだった。どうしていいやつから死んじゃうんだろう。
 その話の最後の方で、俺はあいつの進路さえ知らないことに気づいたので尋ねてみた。
「おまえ今どうしてるんだ?」
 あいつは薄く微笑んで答えた。真冬の空の三日月みたいな笑顔だった。俺は思わずはっとした。
「生きてるんだよ」
 もし俺の聞き間違いだったら、息してるんだよ、と言った可能性もある。いずれにせよそういう言葉遊びみたいな返答はあいつにしては珍しかったので俺はちょっと不思議に思った。これが黄色あたりならいつものことなので相手にするのも面倒で閉口するだけなんだけど。行ってる高校の名前を知られたくないのかなと解釈して俺はそれ以上追及しなかった。こんな笑い方もするやつだったんだなと思った。
 少し様子がおかしくなったのはそのあたりだった。
「俺にとってこの街は砂漠だよ」
 喩だけどね、と笑う。急にどうしたんだと思って俺は気のない相槌を打った。気にした様子もなくあいつは続ける。ヘンだった。独り言みたいに、歌うように。語る。
「渇くんだ。渇く。足りない足りない足りない。何もない。足りないんだ。……おまえだって渇いてるだろ?」
「……俺は、別に」
「いいや俺にはわかるよ、おまえも不満なんだろ、苛立ってんの。何もかも納得いかないって顔して生きてるよ、自分で気づいてんのか知らんけどさ、でもおまえが気づいてなくても、いや気づいてないふりをしてるにしろ、俺は気づいてる。俺だってそうだからね、同類だからわかるよ、おまえだって思ってたはずだよ、俺とおまえ似てるって。渇きを知ってる人間は他人の渇きにも敏感なんだよ、わかるだろ?なあおまえならわかるだろう?」

 わからねぇよ。

 あいつは表情を変えなかった。どこか人間離れしたような、超然とした笑顔のままだった。なんちゃって冗談だぴょんとか言ってくれるのを待っていたが、あいつはその件についてはそれ以上触れず、新しくできたラーメン屋のつけ麺がおいしかったんだとかまた世間話に戻った。表情も元に戻った。俺は少しほっとした。なんていうか、そのときのあいつの笑顔っていうのは……そう、言うなれば完成されすぎていたんだ。高校二年生ができるような、いや、していいような笑顔じゃなかった。大人びたという言葉じゃ足りない笑顔。息をのむほど美しいのに見ていた俺をひどく落ち着かなくさせた。たぶん自分の未完成さを思い知らされている気がするからだろう。そういう笑顔だった。世の中にはそういった種類の笑顔が存在しているが、少なくともあいつはそういう笑い方をするべきじゃないんだ。  マッシロが最初に食べきった。ドリンクバーのおかわりをしにいこうとしているが、通路側に座っている黄色が邪魔で通れない。黄色はどいてよーと言うマッシロの声を聞こえないふりをして、ハンバーグのつけあわせのポテトを全部まとめて口に入れて完食した。俺ももうすぐ食べ終わる。尋常じゃないペースだ。こんだけ食べてもデザートのチョコレートパフェに対する食欲が全然衰えてない。唇を舐めた。
 あいつとはまたしばらく話をしていたが、俺は風呂をわかそうとする途中だったことを思い出して、じゃあそろそろ、とその場を切り上げた。あいつは頷いて、またな、と言って帰った。俺もうん、またな、と言った。ひらひら手を振る姿が俺の見た最後のあいつだった。正確に言えば人間のかたちをしたあいつってことだけど。
 どいてよ黄色と文句を言うマッシロを無視したまま黄色はメニューからデザートを選び始める。俺はテーブルの下で黄色の足を蹴っ飛ばした。いってええと呻いた黄色の口から潰れたポテトが飛び出してマッシロがけらけら笑った。睨んでくる黄色の視線をスルーして、もう底が見えている親子丼を食べ進める。ペース配分をミスってご飯ばっかり残ってる。
 あいつが帰った後、俺は返してもらったノートを何気なくぱらぱらとめくって見てみた。右下が折れた表紙にはお茶の染みがある。確かに俺のノートだった。やる気のない字で書かれたいい加減な数式が並んでいる。途中で解くのをやめてたり、見当違いなところをマーカーで囲んでいたりした。こんなもんが何の参考になったんだろう。あいつは俺の倍くらいは成績がよかったはずなのに……と、最後のページで手が止まった。

 僕は勿論死にたくない。しかし生きているのも苦痛である。

 目で三度なぞった後、口に出して読んでみた。俺はこれを知っている、太宰治の遺書の中の一節だ。俺は他人の遺書を読むのが好きだった時期があって、そのときに読んだから覚えていた。やや右上がりの細っこいこの字は俺の字じゃない。おそらくあいつの筆跡だ。あいつは何を思ってこの一文を書いたんだろう。何を思って俺のノートにこれを書き、わざわざ今になって俺に返しに来たんだろう。俺はあいつの超然とした笑顔のことを思い、何もない砂漠のことを思い、夏に咲く花のことを思った。
 翌日あいつは列車に轢かれて跡形もなくなって死んだ。十六歳だった。

 そして俺は十七歳になった。