<PM 18:25 猫背・黄色・マッシロ>

 ハツの見間違いではなく、入ってきたのは学校帰りの青野だった。青野はそのまままっすぐ両替機の方に向かってくる。ハツは立ち去るべきか迷ったが、どうしていいかわからず、とりあえずそこにいた。青野はまったく周りを見ていないのか、紙幣を両替機に入れる段階になってようやく突っ立っているハツに気づいたようだった。意外そうな顔をして「ハツじゃん。一人か?」と声をかけてきた。松葉杖に向けて熱をはらんだ視線が向けられたが、慌てたようにすぐそらされた。ハツがうなずくと「そっか」とだけ返ってきた。ジャラジャラジャラ、と小銭の落ちてくる音が二人を隔てる。ケガしてんのに、とか、女の子一人で、とか、あんまり遅くなるなよ、とか、兄が言いそうなそういった話はまるでなかった。よく考えたら学校の外でまともに話すのは初めてだ。美術部という共通の居場所がなければ、つながりも話題も自分たちの間にはなく、青野にとって美術部員ですらないハツ個人はそこまで興味をひく対象ではないのだろう。後輩部員の同級生、友達の妹。そんなところか。そのことに対してハツは自分が安心しているのか不満に思っているのかよくわからなかった。
 続かない会話が途切れたところで、もう一人現れた。青野の方は一人で遊びに来たわけではなかった。店に入った瞬間からキョロキョロウロウロとしていた彼は、青野を見つけるとバタバタと駆け寄ってきた。青野と同じ制服姿だったが、指定のワイシャツではなく、レモン色からオレンジ色へのグラデーション模様の濃い色のシャツを着ている。
「やー見つけた見つけたァ! なんでさっき置いていったのォ?!」
「大げさだな。だいたいおまえが勝手に道それたんだし、おまえもガンツーの場所知ってるから別にいいかなと思って」
「よくないよ」
「つーかマッシロは? 一緒じゃなかったのかよ」
「マッシロはコンビニ寄ってから来るって。金おろすって言ってた」
「バッカあいつコンビニのATMは手数料かかるからやめろって言ったのになぁ」
「おまえ意外とケチねェ」
「俺はあいつに金貸してんの、金がないって言ってるくせに節制する気がないとこが嫌なんだよ」
「まあゲーセンに来てる時点で駄目じゃない?」
「言われてみればそうだな。誰だよあいつ誘ったの」
「俺だよォ~! ……えイッタいなんで?! なんで肩殴ったの?! 暴力はんたぁ~い! 訴訟訴訟! 大勢の方が楽しいと思って呼んだんだよォおまえも喜ぶと思ってよかれと思ってさァ~あっでも撫で肩はバイトだって言って断ったんだよ薄情だよねェ俺らの尊い友情よりお金をとるんだよってアレ? 何その子だれ知り合い?」
「うるせーなおまえ」
 青野がハツの心の声を口に出してくれた。それが耳に入っていないかのように、依然として「だれ? だれ?」と顔ごと動かしながらハツと青野を見比べ続けるので、その動作の鬱陶しさに青野がため息をつき「その薄情モンの妹だよ。おまえは会ったことなかったっけか?」とこたえる。勝手に紹介しないでくれとハツは思う。それを聞いて「あー!」と手を打って納得した彼は「会ったことないかも、あいつ妹いるって言ってたねそういえば!」と笑った。
「悪いなハツ、うるさくて。こいつのことは気にしなくていいから。おい、俺ちょっとマッシロ迎えに行ってくる。コンビニで金なんかおろしたらあいつ絶対無駄遣いするから……」
「過保護だねぇお母さんか何か?」
 挑発するような物言いを無視した青野はそのままコンビニに向かっていった。えっ嘘、二人にしないで、とハツは思ったが青野は振り返りもしない。かくして黄色とハツは二人きりになった。あんなに騒がしかった彼が静かになる。なにこれ気まずい! じゃあ私はこれで帰りますんで、と言おうとしたとき、黄色が先に口を開いた。
「君、撫で肩の妹なんだよね?」
「撫で肩……?」
「あぁー、ごめんごめん、ええと、慧くんの」
「ああ……。……そうですけど」
 身内から見ても見事な撫で肩の兄だが、まさかそんな安直なあだ名で呼ばれているとは思わなかった。彼は青野のことは猫背と呼んでいるし、マッシロと呼ばれているのは美術室でたまに見るあの髪の白い眞白先輩のことだろうし、兄の友人は誰も彼もネーミングセンスが微塵もないのかもしれない。兄はこのひとのことをなんと呼んでいただろうか。
 ハツは声をかけてきた男を無遠慮に眺めまわした。青野が席をはずしてからは存外ふつうのテンションで話すので拍子抜けした。そんなに高くない背、ニコニコとした笑顔。ブリーチした金髪の上から中途半端に染めたのか、まだらにスモーキーピンクの混ざった変な色の髪がいやでも目をひく。
「バカみたいな髪」
「うわ辛辣」
 思ったことをそのまま口に出してみた後で、ハツは自分でもしまったと思ったのだけれど、彼は大したダメージもなさそうにケラケラと笑っただけだった。幸い機嫌は損ねなかったようだ。それでも居心地の悪さを感じたハツはやっぱりさっさと立ち去ろうと思い、くるりと踵を返した。が、またしてもそれを止められた。
「あーちょっと待ってよ、せっかくだからちょっと俺とお話しよーよ。俺、慧くんの同級生なの。黄色い色が一等好きだからさ、親しみをこめて俺のことは『黄色』って呼んでネ」
「……はあ」
 黄色。好きな色をそのまま己の呼び名にしている人間を初めて見た。バカみたいな髪の毛の人間だと思ったが、本当に単純にバカなのかもしれない。言われてみれば黄色という名前はたしかに兄から聞いた覚えがある。兄は聞いてもいないのに友達や学校の話をよくする。そのなかで時折出てくる名前だった。騒がしいしトラブルメーカーで困ったやつなんやけどふしぎと憎めんのや、と兄が語る男。自分がその話になんと返したかよく覚えていない。
 だが兄だけではなかったはずだ。兄でも兄の同級生でもなく誰か他にもその名前を出したことのある人間が身近にいたはずだった。誰だっけ、と考え事をしながら気のない返事をするハツを見て、黄色は不満げに唇をとがらせた。
「なんだよお、君も名乗りなよォ。お兄ちゃんと違ってシャイなの?」
「兄さんとは似てないってそれよく言われますよ」
 脊髄反射で鋭い声が出た。喧嘩腰の調子になった自覚はあったが、ハツは今度はしまったとは思わなかった。純粋にイラついたのだ。人気者の兄と比較されることはハツがされたくないことの一つである。兄の友人相手だからといって気を遣うつもりも特になかった。強い調子で言葉をぶつけられた黄色は相変わらず気にした様子もなく笑っている。
「そう? なんか地雷踏んだみたいでゴメンね? 俺そういうのよくやっちゃうからさ、怒んないでくれると嬉しいなァ」
「……別に怒ってないですよ。こっちも先輩相手に失礼なこと言ってすみませんね。兄さんと違って口が悪いんです。一年二組のハツです。兄がいつも仲良くしてもらってるみたいで、どーも」
 兄さんと違って、を強調しながら、ことさら丁寧に名乗ってみせた。こちらがどんな態度をとっても常にニコニコと笑みを浮かべている黄色に対してなんとなく毒気を抜かれてしまったが、ハツの心には少し警戒心が生まれた。気にしていない代わりに、悪いとも思っていない表情だと悟ったからだ。まるでハツがかみついてくることを予想していたような反応。そんなハツの気持ちを知ってか知らずか黄色は笑みを深める。
「いやいやこっちこそ。慧くんはとても面白くていいやつでねェいつも楽しませてもらってンだ……ところでさ、ちょっと変なこと聞いてもいい?」
 自己紹介したばかりの相手に変なことを聞こうとするとはどういう了見なんだと思いながらハツは曖昧にうなずいた。黄色はそこにきてはじめて表情を変えた。ありがとー、と抑揚のない小声で言い、頬を指でかきながらハツに問うた。
「君の兄さんってさァ……なんか、宗教とか、やってる?」
「は?」
「神様とか信じてるタイプ?」
「何の話ですか?」
 宗教や神様というワードに露骨に警戒心をむき出しにしたハツに、黄色は「あー違う違う、宗教勧誘とかしようってんじゃないんだよ! むしろ逆? いや逆でもないかァ」とよくわからない弁解をした。ハツは純粋に意味が分からず首を傾げた。兄さんが神様を信じているかどうか? そんなこと、知らない。気にしたことも考えたこともなかった。少なくとも、兄の本棚に聖書はないし、鳥居もふつうにくぐれるし、豚肉だってよく食べる。自分たちの父母が何かの敬虔な信者だという話も聞いたことがない。友人の身内とはいえ、会って数分の人間にそんなことを聞いてくる黄色がハツには気持ち悪く思えた。おそらくそれが顔に出ていたのだろう、黄色は「そんな顔しなくてもいいじゃん」と拗ねたようにそっぽを向いた。
「心当たりなさそうだねェ」
「特別ないです。何かあったんですか、兄さんが何かよくない宗教にハマってしまったとか」
「いンや、そういうわけじゃないから心配しなくてもいいよ。これは……アレ、自由研究みたいなもん」
 言いくるめる気があるのかないのかわからない返事をした後、黄色は急にハツへの興味をすべて失ったようだった。ハツは、目の前の人間から温度や感情がこんなにごっそりと抜け落ちる瞬間を初めて目の当たりにしたので、少しばかり驚いた。「なんだ、面白くないナァ」なんて吐き捨てられ、まるで答えられなかった自分が悪かったような気持ちにさせられてハツは不愉快になった。しかし、笑みの形を崩さなかった口元を一文字にして、胡散臭い笑顔がそぎ落とされた黄色はさきほどまでと全然違う人間のようで、少し怯んでしまいうまく言い返せなかった。ちょっと話をしようかなんて言っておいて、なんて勝手な。
 けれどそんな時間はあっけなく終わった。青野が眞白を伴って帰ってきたからだ。マッシロというのはハツが思ったとおり眞白のことだった。ハツは眞白ともあまり話したことはない。青野の友達で、美術部で、髪が白いので学校にいても目立つ。知っているのはそれぐらいだ。絵を描いているところも見たことはない。中途半端に知っている人間が集まってどんどん居心地が悪くなる。完全なる赤の他人よりよほど気まずい。二人を視界に入れた黄色は途端に目を輝かせた。さっきまでの無表情が嘘のようにワクワクとした顔になっている。くるくるとよく変わる表情だとハツは感心した。そこだけは見習うべきかもしれない。
「あれ? ハツまだ一緒だったのか。こいつの相手一人でしてたのかよ、悪いことしたな」
「ほんとだ。ハツちゃん。部活以外で会うの珍しーねー」
 眞白がへらへらと笑った。ハツが申し訳程度に会釈すると、眞白は「これ食べる?」と持っていたコンビニ袋からチュッパチャップスを取り出した。青野さんは間に合わなかったんだなと思いながら丁重に断った。そっかあと残念そうな眞白の手からそれを黄色がちゃっかり奪って食べ始めた。
「遅いよ二人ともォ~」
「ああワリ、案の定コンビニ着いたらちょうどこいつが置いてあるチュッパチャップスの味全部買ってるとこだったわ」
「なんか知らない味いっぱいあってびっくりしたよ。おまえも食べる?」
「金を返せ、金を……」
 人の気も知らずに嬉しそうな眞白から差し出されたそれを一応受け取って、青野はやれやれと思った。小さい頃の青野は、この飴の色とりどりの包み紙を気に入っていて宝物のように集めていた。眞白はきっとそれを覚えている。もしかしたら青野が喜ぶと思ったのかもしれない。昔の話だ。あんなものはとうに全部捨ててしまった。バカじゃねーの、と小さく呟いて、ポケットに乱暴に突っ込んだ。黄色はガリガリと音を立てて飴を噛み砕いている。
「にしてもおまえがゲーセンに来たがるなんて珍しいな。『死んだ時間を金払って買うようなもんだよォ!』って言ってたくせに」
「ふふん、俺だってみんなと仲良く遊びたいときがあるのさ。ねーおすすめのやつ教えてェ~」
 語尾がとろけるようなしゃべり方をする。甘えているのか煽っているのか、ハツには見当がつかなかった。いつもニコニコしているのは兄と同じだが、兄のそれとは種類が違う。青野は慣れているのか黄色のギャルぶったような態度に対してはコメントせず、センター内をぐるっと見回して悩む。
「っつってもおまえヘタクソだからな。協力する系のゲームやるとおまえがすぐ死んで終わりそうで嫌だし、対戦ゲームはルール説明が面倒くせーし力量差があって面白くないだろうし……一人でUFOキャッチャーか音ゲーでもやっててくんねえ? あ、ちょっとならメダル貸してやるけど」
「なんでだよォ一緒にやるやつがいいに決まってんだろバカァ! あとメダルは寄越せ!」
「はいどうぞ。マッシロ、レースのやつやろうぜ、この前のリベンジだ」
「いいよー俺のドリフトは今日もすげーよー」
 黄色はぶすくれた顔でメダルを受け取っている。「いいの? 俺マジでメダルゲーしにいっちゃうよいいの? あんまり俺とゲーセン来る機会ないんだよ本当にいいの?」と言った後すぐ返事を待たずに拗ねたのかそのままメダルコーナーに走っていった。ハツはその脱兎のごとき勢いに驚いたけれど青野と眞白はいたって平然としている。いつものことなのか、と思い、この機に乗じて帰ることにした。ハツが自転車を停めている駐輪場に近い出入り口はメダルコーナーの奥なので、不本意だけど黄色を追いかけているみたいだなあと思いながら歩き始めた。
 ハツ帰るのか? と聞こえたので、振り向いて頭を下げると、また美術室でな、と返ってきた。バイバイと眞白も手を振っている。私は別に部員じゃないと思いながらもハツはくすぐったい気持ちになった。