<PM 18:15  伊藤>

 ここは安心できる。底なしの温かい汚泥に肩まで浸かっているようでほっとする。どうしようもないのは自分だけじゃない。変われなくたっていいように思える。こんなに煙草くさくて空気の澱んだ場所なのになんと呼吸のしやすいことか!
 負け続けの伊藤はいつまでも連コインしてくるので全然筐体を離れられない。桜井に対する態度と同じだとすれば、ここで席を立とうものなら「勝ち逃げする気かよ!」と喚かれるに決まっている。本当にガキだ。とはいえさっきから勝負は惜しくもなんともないので、続けたところで伊藤がまっとうに勝てそうな気配はなかった。私がわざと負けてやるぐらいしか手はなかったけれど、負けるとあの得意げな顔が自分に向けられると思うと癪だった。となると、伊藤の小銭が尽きるまで付き合ってやるしかなさそう。でもなぁ、と思う。
 暗くなると兄が心配する。
 兄さんは平気な顔でゲームセンターまで迎えに来るので恥ずかしくなる。いくつだと思ってるんだ。いつかの帰り道で、隣で自転車を押しながら歩く兄さんに向かって「もう子どもじゃないんだからやめて」と怒気を滲ませながら言ったとき、兄さんは驚いたような顔をした後に眉を下げて「ごめんなぁ」と言った。私が何も返さなかったので会話はそれきり終わってしまった。それは、首筋がむずむずとするような不快感があった。いっそ喧嘩になればよかったんだ。せっかく迎えに来たのになんやその態度は、おまえのことなんかもう知らん頼まれても二度と来るかぐらいのことを言い返してくれればよかった。そうしてくれれば、私だって……そうしてくれれば、なんだったというのだろう。
 身内から見たって本当によくできた兄なのだ。兄は優しい。優しい兄は妹を心配するもの。そういう、屈託のない兄さんの好意を、いつからか受け止めきれなくなってきていた。似てない妹の自分が返せるものは何もなかった。兄想いの妹でいることすらできない。本当にダメ人間だ。
 そういう意味では伊藤と対戦していると本当に落ち着く。こんなしみったれたゲーセンで本気で悔しげに煙草を吸いながら、年下の女子高生相手にムキになって負け戦を挑み続ける青年はどう考えたってダメ人間だろう。同類の出来損ないだ。何のひけ目を感じる必要もない安心感に笑いだしてしまいそうになる。でも笑うと伊藤は「俺に勝つのがそォんなに嬉しいか?! 負ける俺はそんなに滑稽か?!」とかなんとか因縁をつけてくるに違いなかった。ゲーセンにたむろしている連中に興味なんかなかったつもりなのに、意外と言動のひとつひとつを覚えている自分に少し驚く。
 伊藤が操作するキャラクターが突進してきたので投げ技で対応してポイと画面端に投げ飛ばす。伊藤はいつも攻め方がまっすぐでわかりやすい。返し技に弱くて少しトリッキーな動きを挟むとすぐついてこれなくなる。何の勝負でも頭に血が上っているうちは勝てないと思うけれど、伊藤はまったく冷静になる気はなさそうだった。がむしゃらに向かってくるキャラクターからは「倒す」という気概がひしひし感じられる。感じられるだけだけど。私は煽るようにカウンター技をかけ続けた。私が使っているのは相手の攻撃を利用した返しをするのが特徴のカウンターキャラだ。攻撃を逆手に取られまくるとさぞ腹が立つことだろう。隙の多い技だから、落ち着いてガードしていればガラ空きの私に必ず手酷くやり返せるはずなのに、伊藤は余計な手数が増えるばかりだ。人の感情の機微には疎いくせして、どのタイミングで伊藤が攻撃してくるかは手に取るようにわかる。こうしていると会話みたいですね、と思う。
 私は気遣い上手の兄さんとはまるで似ていなくて、兄さんのように人の表情や言動から微細な感情の変化を読み取って相応の対応をすることはできない。兄さんが短い会話で人を笑顔にできるのが魔法にしか見えなかった。私は人の表情も読めないし、自分も表情が乏しいから、相手が何を考えているかわからないし、自分が何を考えているかも相手にはわからないだろう。気の利いた言葉の一つも言えず、距離感もつかめない。人付き合いが下手。会話が苦手。まともに話せるとすれば兄さんとだけ。
 そんな幼い私を見かねてか兄さんが私の気持ちを代弁してくれるものだから、私はますます喋らなくなった。喋らずにいるうちに、本当に喋れなくなってしまった。何を話していいかわからない。結果、無口で無表情で無愛想。それが私になった。
 だけどこうして筐体を挟んで伊藤と対戦していると、まるでエスパーにでもなったような気持ちになれた。伊藤が何を仕掛けてこようとしているかすぐ読めたし、私が時折煽っているのが伊藤に伝わっていることもわかる。言葉はなくともたしかに会話だった。それに気づいて高揚した……けれどすぐに萎えた。テレパシーじみた会話への高鳴りよりも、間にゲームがなければコミュニケーションもできない自分への失意の方が勝った。どうしようもない。「YOU WIN」の文字を見ても喜べやしない。
「ッあ~~~ッ、負けたァ! もう金ねーよ!」
 伊藤が騒ぐ声がこっちまで聞こえた。台を蹴ったような音と「こんなときに桜井はどこに行ったんだよ」と怒鳴る声も聞こえる。別に彼はアンタの財布じゃないだろう。っていうかアンタの煙草を買いに行ったんだよ。今のうちに去るのが賢明か、そう思ってそろりと腰を浮かし、席を離れる。不機嫌な伊藤にバレないように死角になるはずの両替機の影まで移動して一息ついた。
 そっと様子をうかがうと、伊藤が立ち上がったところにどうやらちょうど桜井が帰ってきたらしく、伊藤は桜井に対して何かしらギャンギャンと文句を言っている。何が起きたか知らない桜井は、わざわざ煙草を買ってきたのになぜか不機嫌マックスで出迎えられたのが気に入らないようで、律儀に煙草を渡してやりながらも何か言い返している。内容までは聞こえないけど、おそらくはやかましく口論をしながら二人でゲームセンターを出ていった。伊藤は桜井に気を取られて、私が黙っていなくなっていたことはどうでもよくなったみたいだ。一安心した。このまま忘れてほしい。
 「あ、」と声が出そうになった。直後入れ違うようにして入店してきたのは知っている人間だった。あの猫背姿とうちの制服は。

 青野先輩だ。