ツークツワンク

 目的のものをあらかた買い終わって画材店を出る。絵具というのは消耗品だし、俺みたいな高校生にとっては決してホイホイと買っていられる代物ではない。部活という後ろ盾があってこそ俺だって絵を描いていられる。こういうときばかりは学生の身分がありがたい。
 部室にある諸々の画材は、基本的には顧問の先生が定期的に補充しているが、突発的に必要なものが出てきたりすると部員がこうして直接買いに来ることが多い。展示会が近いこともあり普段より絵具の消費量が増えているので、先を見越して少し多めに買い足させてもらった。今回は部長の提案で絵筆も新しいものを買ったのでそこそこ大荷物になった。両手に持ったビニール袋が重たい。新品の絵筆が袋から飛び出しているのを見て、この状態で知り合いに会いたくないなと思った。部活の買い出しで唯一憂鬱なのはそこだった。
 学校でもそうだが、絵を描く道具を持っている状態で同級生に会ったりすると、部活の話から「どんな絵を描くの?」という話題に発展することがあるからだ。俺はそれが非常に苦手だった。適当なことを言ってかわしておけばいいものを、どうしても身がかたくなり口ごもってしまう。どんな絵ったって……。俺がこたえずにいるその間に相手は怪訝そうに去ってしまう。時には俺がこたえないことに対して気を悪くする。
 絵を描いているからには、見てもらわなければ価値がないのではないか――俺にだってそういう気持ちがないわけではない。それでも「こういう絵を描いてるんだ、機会があれば見に来てくれよな」なんて軽口を一生かかってもたたける気がしない。同級生だって話題として話を振っているだけでそこまで興味があるわけではないんだろうから「そうなんだ、今度見に行くかも」なんて当たり障りのないやりとりで終われるはずなのに。いや、いっそのこと「楽な文化部がよかっただけで幽霊部員なんだ」なんて笑い話にしてしまえばいい。そうすればそれ以上突っ込まれることもないだろう。だけど、それはなんだか……ダメだ。ダメだった。絵を描く人間だと思われたくないのに、絵を描く自分を蔑ろにする発言に対する拒否感もある。我ながら面倒くさいなと自嘲する。
 俺はいつになったら胸を張って「絵を描くのが好きなんだ」と言えるんだろう。あと何枚描けば、あと何年描けば、どの程度の力量で描けるようになれば己にそれを許す気になれるんだろう。煩悶しながらも絵を描く行為から離れられないのであればそれはせめて純粋な理由からであってほしかった。それなのにたったそれだけの一言が、いつの頃からか言えなかった。
 俺は一体何を怖がっているんだろう? そもそもそんなに忌避するならば美術部なんてコミュニティにまじめに属さなければいい話なのだ。いや、それでも美術部でなければこんなふうにのびのびと画材を使うことはできない。絵具だってキャンバスだってイーゼルだってタダではない。苦しいのが嫌なら描くことそのものをやめればいいとも思うが、描かなければ楽かといえばそういう話でもないのだった。それに俺は絵の話がしたくないというわけじゃなくって、ただ――……やめよう。幾度となくループする問答だと知っている。一人だとろくなことを考えないとわかっているからさっさとサクと合流したい。
 サクとの集合場所にいくには東側のゲートから出た方が早いのだが、その近くに自分と同じ制服を着た誰かが立っているのが目に入った。げ、同じ学校の男子。この位置取りだと横を通らないといけないから知り合いじゃありませんように。その祈りもむなしく、相手はこちらを見ていた。
「あ」
 そこにいたのは、いつも俺に鬱陶しい絡み方をしてくるあの日比野だった。よりにもよってこいつかよ。日比野も日比野で気づかなかったていでシカトしといてくれりゃいいのに、無遠慮にジトッとした視線を投げつけてくる。なんでもう出会い頭にそのテンションなんだよ。通り抜けようとすると案の定声をかけてきた。「何睨んでんの」だって。もー、だりー。そういう顔なんだよ。悪かったなこんな顔で。それにあんまり目がよくないもんで遠くを見るときはつい細めてしまうから勘違いされやすいんだって前も言ったろう。一応足を止めたものの、急いでることにして無視するかなと思っていると、日比野は俺の荷物を一瞥して鼻を鳴らした。
「フン。いっちょまえに部活の買い出ししてんの? 夏の展示会が近いもんな?」
「え、ああ、うん」
 日比野にそんなことを言われると思わず、素直に面食らった声を出してしまった。こんなやつと関わり合いになりたいわけではなかったが、思わずこちらから問いかけてしまう。
「おまえ、なんで俺が美術部だって知ってんだ? 展示会の日程とかもさ……」
 そう聞くと日比野は軽く目を見張ったあと、少し口をぱくつかせ、そうしていつものように忌々しそうな顔をした。俺はつとめて普通に会話しているつもりなのに、どうも俺の発言のなにもかもがこいつの癪に触ってたまらないようにみえた。
「同級生の部活知ってちゃおかしいか?」
 日比野は俺から目をそらして、わざとぶっきらぼうに聞こえるような吐き捨て方をする。なんでこいつはいつもこう、前のめりというか、因縁をつけてくるというか、そういう態度なんだ。というか、袋に透けた絵具や絵筆で部活を判断したのかと思ったが、この感じだとどうも本当に最初から知っていたのか。
「俺らクラスも違うし友達でもないし、俺はおまえが何部かなんて知らないんだけど」
 だから詳しいのが意外で、と続けると日比野の頬がさっと赤くなった。自分から目をそらしたくせにまた俺を睨みつけてくる。心底どうでもいい事実だが、日比野はそういう体質なのか感情が昂っているとすぐ顔が赤くなる。苛立ちを隠すつもりがなさそうなのも相まって、俺に対して機嫌を損ねたり怒ったりしているのはすぐにわかるのだけれど、その理由が俺にはわからない。なので日比野といる時間は居心地悪く苦痛だった。理由のわからない負の感情を定期的に一方的に向けられるのは、普通にこっちも腹が立つ。
「俺は陸上部だっ!」
「そ、そう」
 顔を赤らめたままの日比野に怒鳴られた。はあ、やっぱり初耳。ていうかちょっと意外。メガネの印象に引きずられすぎなだけかもしれないがイメージ的には文化部っぽい。なんだこれ覚えとけってことか? こいつ俺のこと嫌いなんだろうに、なんのために?
 不思議そうな顔をしているだろう俺に一層苦々しい顔をした日比野は、それ以上は何も言わず、肩をいからせて早歩きで俺の横を通り抜けて去っていった。その背を目で追いながら呟いてみる。
「俺、部活どころかおまえの名前すらこの前まで曖昧だったんだぜ……日比野くん」
 日比野にそう言ってやったらもっと怒ったんだろうか。俺のことが嫌いなくせに自分のことを知られていないのは不満だなんて身勝手が過ぎないか? 相変わらずよくわからないやつだった。
(ああ、でも……そうか、そうだよな)
 俺が日比野の所属する部活に皆目見当がつかなかったように、ほとんどの生徒は俺が美術部であることも、絵を描くことも知らないし、そしておそらく、興味もない。
 それでも俺の自意識過剰な後ろめたさは消せなかった。
 日比野は、陸上部と名乗ったとき「そうなんだ、じゃあ50メートル何秒で走れるの?」みたいな返しをされることには慣れっこなんだろうか。
 ……あいつ、まさか展示会見に来る気なのかな。
 嫌いなやつの作品なんか見に来なきゃいいのにしかめっ面で俺の絵を見ている日比野を想像したら、不快感より面白さが勝ってしまって思わず一人で笑ってしまった。
 嫌われているとわかっている相手を好く義理も好かれる努力をする義理もないし、次会ったときにはまたお互い腹を立てるのだろう。それでも今この瞬間だけは、陸上部だと名乗った日比野に「走るのが好きなんだな」と皮肉ではなく言ってやれるだけの心の余裕があればよかったのにと少しだけ思った。