ゆるしてねともだちよ

「なあ、黄色……今日、アレ、お願いしてもええかな」
 またか。
 すれ違いざまにおずおずとした声で呼びとめられた時点でそんな気はしていたけど。撫で肩が「アレ」を俺に頼むタイミングには法則性がない。撫で肩側には何かきっかけや規則性でもあるのかもしれないけど、俺からしてみればいつも前触れがないうえ間隔もまちまちだったので、どういうときに撫で肩が「アレ」を求めているのかぴんとこなかった。移動教室中の俺の足を止めさせたのだからと少し意地悪な気持ちで「またァ?」と悩むふりをしてやると、撫で肩はクシャリと不安そうな顔になった。
「ま、別にいいけど」
 俺の返答を待つその表情を堪能して適当にうなずいてやると、撫で肩は安堵の表情を見せる。そのまま俺から目をそらすと、話は終わったとばかりに「なら、放課後、よろしくな」と背を向けて廊下を歩いていった。そんな気まずそうにすんならやんなきゃいいのに。
 正しい正しくないなんてのは俺の行動原理とは関係のないところにある価値観だけれど、その行為はわかりやすく「正しくないこと」だった。俺にとっては断らない理由なんて「面白そう」というただそれだけで十分だけど、正しいことを取捨選択することを心がけていそうな撫で肩がなんでこの行為に関してはそうならないのか不思議でならない。最初に、何それバカじゃないの気持ち悪いと切って捨てることができなかったのはひとえに俺の好奇心のせい。まあ最近は、面白いかどうか正直わからなくなってきたから、そろそろ断ってもいいかと思ってたりもする。気になることは残っているし、引き下がれない部分があるのも確かなんだけど、それもいつまで続くかわからない。今となっては、俺が断ったらどんな顔をするんだろう、代わりに誰に頼むんだろう、あんな申し訳なそうな顔を誰に見せるんだろう? っていう方にも俄然興味はある。どうせならあいつの感情グラグラのステキな表情が見たいから、最高のタイミングでお断りするために機をうかがっている、っていうのが今の状況に一番近い。

 授業が終わった後、俺は適当に時間を潰してから撫で肩の家に足を向けた。人を待たせるのが好きなので特に意味もなく寄り道をしまくった。コンビニで立ち読みしたり、ゲームセンターを覗いたり、猫背にイタ電したり。日が傾き始めた頃になってようやく撫で肩が暮らす古びた団地につく。撫で肩んちに鍵がかかっていないのは知っているので勝手に入った。撫で肩んちの親はこの時間は仕事だし、玄関に並ぶ靴を見る限り妹ちゃんは留守みたいだ。まあ、そりゃそうか。一応、内側からカチャンと鍵をかけておく。
 奥の自室で撫で肩はおとなしく待っていた。俺がいつ来るかもわからなかったろうに、行儀よく正座までしてる。どこまでも品のいいやつだなと感心した。側には来客の俺用なのか、茶色いお盆の上におやつとお茶が置いてある。別にいいんだけど、こいつが用意してくれるお菓子はおばあちゃんちにありそうなものが多い。部屋の電気はついておらず、締め切られたカーテン越しにうっすら西日が差しこんでいる。この季節のこの時間はまだまだ十分に明るい。俺を見上げて撫で肩は笑った。
「来てもろて悪いなあ、黄色」
「まったくだよ、自覚があんならやめてほしいね。この俺をいつでも好きなときに呼び出しちゃって何様のつもりなのかなァ」
「でもおまえ、呼んだら来るよな」
 おっと思わぬ返しだね! ム・カ・つ・く~。虚を突かれて反応に遅れた自分の未熟さにもやれやれだ。鞄を投げるように置いて、腰を下ろす。確かにのこのこ来てるのは俺のほうだけどそんな都合のいい人間みたいな扱いを受けると温厚な俺もちょっと嫌な気分になるよ。それとも、撫で肩にしては挑発的に聞こえるその言いまわしもわざとなのかな。俺の不快感を煽って、俺がおまえを傷つけやすいようにしてくれてるつもりなの。そういうとこ相変わらずだなア、おまえ。勘違いも甚だしいや。俺が笑みをこぼすと、撫で肩はその意味をはかりかねたのか自分もぎこちなく笑った。へったくそな笑顔。
 あまり時間をかけたくないとでも言うように、撫で肩は歯切れ悪く「じゃあ……」などと言いながらポケットからゴソゴソと煙草を取り出した。学校の連中が見たらさぞかし驚くだろう、品行方正な優等生の撫で肩が煙草なんか持ってるんだから。スクープだよ。まあ煙草自体はこいつの親のだし、吸うわけじゃないんだけどね、これの用途の方がよっぽどスクープもんだ。俺も同じようにポケットからマッチを取り出す。猫背たちと行った焼肉屋でもらったチャチなマッチだ。なんでライターじゃなくてマッチなのかというと単純にライターつけるの苦手だから。ダサい理由だけどわざわざ撫で肩のためにライターをかっこよくつける練習をするのはもっとダサい。仲間内での喫煙者といえばマッシロか、彼がライターで煙草に火をつける仕草が俺はわりと好き。伏し目がちに煙草を見つめ、大きな掌で風から火を庇う。パチンとライターの閉まる音が耳の奥で鳴る。俺だってライターの方が好きなんだけどナア。
 地球に申し訳ないような設定温度の冷房なのかこの部屋は少し冷えすぎている。耳につくクーラーの低い稼動音。撫で肩から煙草を一本受け取る。なんでこの銘柄にしたんだろうね? と以前なんとなく聞いたら、照れ笑いを浮かべながら「なんか名前がかっこよかったから、らしいで」なんて答えが返ってきたのを思いだす。そんな理由のラッキーストライクにマッチを擦って火をつけると、つんとするような安っぽい煙のにおいが鼻腔をくすぐった。
「今日はどこにすんの?」
「今日は、そうやなあ……うーん、肩甲骨らへんとか」
「オッケ」
 撫で肩が制服のシャツのボタンを外していく。男が脱ぐシーンなんて見たって面白くもない。シャツをずらした撫で肩は顕わになった肩口を俺の方に向けて座り直す。やっぱり正座なのね。行儀よく伸びた背筋と相変わらずの見事な撫で肩。簡単に殺せそうな、こちらに預けきられた無防備な背中。その流れるような肩のラインを視線でなぞった後、狙う場所を大体決める。わずかに浮いている首の骨を眺めていたらちょっと嫌な気持ちになってきた。ハァと漏れたため息に、撫で肩の肩が少しだけ揺れた気がする。
 誰が吸うわけでもない煙草から、ぽと、と灰のかけらが落ちる。
 今までもそうだったし、そんでたぶんこれからもそうなんだろうけど、俺は始まりの合図をしない。頭の中でひとりでカウントを始める。
 さーん、にー、いーち。
 俺は無言のままで、掴んでいる煙草を肩甲骨のぎりぎり横へと素早く力強く押しつけた。ぎゅっと。もみ消すように抉る。そう、これはいわゆる根性焼きというやつ。目の前の背中がゆるやかにそった。肉が焦げる音、かすかなにおい、目にしみる煙。
 撫で肩はいつも悲鳴を上げない。終わった後でさえ熱いとも言わなかった。もちろん自分が頼んでそうさせているわけだから、俺を責められてもお門違いなんだけど。撫で肩がもしそんなふうに喚いたなら俺はこんなことには二度と付き合わないだろう。撫で肩は悲鳴を上げない。だけどそれは肉体的な苦痛に対しての話だ。

「すみません、すみません、ごめんなさいごめんなさい……ごめんなさいごめんなさい……許して、許してください……ごめんなさい」

 耳をすませば今日もうわごとのような声が聞こえる。撫で肩は、俺がこの虐待のような行為をしている間、我を忘れたように小声で早口に謝罪の言葉を述べ続けるのだ。撫で肩が指定する箇所はいつも背中側だから、どんな顔をしているのか俺からは見えない。痛みも熱もこらえて俯きながら、うなじを汗で湿らせながら、何かに対して悲痛な声でひたすらに許しを乞う。毎回毎回。
 初めて見たときは気がふれたのかと思った。こんな頼みを持ちかけてくる時点で気がふれているといえばそれまでだけど、あまりに鬼気迫っているので、遊び心半分で付き合った俺から笑顔が消えたぐらいだ。こんなことを頼んだことを後悔して俺に謝っているのかと思い、手を止めて声をかけても変わらずごめんなさいごめんなさいだし、おいおいこれはヤバいんじゃない? とさすがに焦った。だけどすぐに知れた。俺に謝ってるんじゃない。それに気づいたのは、肩を掴んでこちらを向かせようとしても撫で肩はかたくなにこちらを向かず、消え入りそうな、だけど痛切な声で「やめんといて」と乞うたからだ。悟る。こいつは、ハナからこれが目的なのだ。痛めつけられながら、見えざる何かに許しを求めることが……。その日から何度か繰り返されている、俺とこいつの頭のおかしい秘密の遊び。俺にとっては遊びだけど撫で肩にとってはなんなんだろ。
 俺が指先で煙草をグリグリと押しつけるようにすると、小さく呻きがもれた。無論、人並みに痛みは感じているはずで、それでも撫で肩は言葉を切らすことはなく謝り続ける。そうしている間にどんどん前傾姿勢に近づいていくのが常で、最後はほぼ土下座のようになる。しゃんと綺麗に伸びていた背は嘘のように縮こまり、俺が意図的に強く痛みを与えるたびにびくりと跳ねるようにしなる。頭はどんどん低くなっていき、髪が畳すれすれに落ちかかって影を落とす。膝の上で握りしめられたままの拳は白くなって震えているんだろう。
 まるで祈るようなポーズだ。
 だとしたら、これは懺悔か?
 アホくさ、と思ってんのに、求められるたび、望まれるたび、俺はこうして面倒くさがりながら撫で肩の一部を焼く。誤解を招かないように言うと、こればっかりはこの俺も決して楽しんでやってるわけじゃない。明らかに様子のおかしい撫で肩を見ているとちょっとぐらいは倒錯的な気持ちにならないでもなかったけど、疑問の方が大きすぎて心からそれを楽しむことができずにいる。俺は別に加虐趣味があるわけじゃないんだよ。初めてこれをやったとき、軽い興味本位で手を出したことに後悔しそうになった。後悔しない・我慢しないがモットーのこの俺が。撫で肩は俺が人を嬲るのが好きだと思ってるのかなんなのか知らないけど(もしそうなら心外だ!)、苛めてくれって乞うてくるやつを苛めることは俺の楽しみとはズレている。だから一般的なSMプレイみたいに需要と供給の一致は存在しない。「撫で肩、おまえ、澄ました顔してこういう趣味があったのかよ? とんだマゾ野郎じゃん、気持ち悪いなァ」と、震える背中に罵声を浴びせたときは少しだけ愉快な気持ちになったけど、それは裏表のない優等生の撫で肩の影を暴いたということに喜びを感じただけで、そういう趣味があるわけじゃない。
 初めてやったとき、最初は驚きこそしたものの、理解が及び始めるとすうっと気持ちが冷めてきた。撫で肩が何を求めているのか知らないけど、俺は祈ることしかしないような人間は大嫌いだ。おまえの努力家な一面を好ましく思ってたってのに、俺を失望させんなよ。あーあーとんだドマゾクソ野郎の自慰行為に巻き込まれたもんだ、と苛立ちまぎれに煙草を押しつけ続けた。俺は意外性のあることは大好きだけど、これはそんなに面白い趣向じゃない。そんな感じでうんざりしていたから、終わったらどんな厭味ったらしい蔑みを浴びせようかそればかり考えていたのに、気が済んだのか起き上がって振り向いた撫で肩の顔色はそれはひどいもんだったので考えていた色々なひどい言葉は何も言えなかった(今思うと撫で肩が真にマゾヒストだったならば、罵っても喜ばせてしまうだけかもしれないからそれでよかった)。撫で肩は……全然嬉しそうじゃなかった。不躾に股の間なんか確認しなくても快楽なんて感じているはずもないのが一目でわかる。望んでやったことのはずなのに、撫で肩の方がむしろ俺よりもよっぽどひどいツラをしていた。そのせいで俺は余計に嫌な気分になった。まるで俺がおまえに悪いことしたみたいじゃないか!
 優しい俺は撫で肩の呼吸が整うのを待ってやってから、どうしてこんなことすんの、と聞いた。撫で肩は脂汗をかいた顔にやっと少しだけ笑みを浮かべて、そうせんとあかんのよ、と言う。駄目になってしまうんや、と。こんぐらい腕とか足に自分でやればいいじゃんとせめて恨み言のように言えば、ごめんなあ、それじゃあ駄目なんよ、と返された。彼曰く、与えられる痛みだから意味があるんだって。
 (あぁ、それならやっぱりこれは懺悔なんだ。)
 自傷では意味がないということに俺はヘンに納得してしまった。単純な暴力ではなくこういう方法をとるのも、やる側の労力や痕の残り方も鑑みた結果らしい。確かに殴る蹴るってのはわりとしんどいし、憎くもない相手に行うには力加減が難しい。下手したら大怪我させかねないし、痕跡が色濃すぎると周りにもバレる。そうなると俺的にも非常に面倒だ。「頼まれてやったんです」「頼んでやってもらいました」とお互いが正直に言ったところで、加害者に口裏を合わせさせられていると思われるだけで信用してもらえないだろう。かといって綺麗に治ればいいのかといえばそうではなく、痕が残るというのも撫で肩にとっては重要らしくて、煙草の痕ぐらいなら場所を選べばなんとか隠しだてできるからちょうどいいんだそうだ。俺にはよくわからんけど。
 しかしそこまではわかっても、これが何を目的にしたものなのか、色々と問い詰めても撫で肩は教えてくれなかった。撫で肩は持って生まれた素直さと誠実さが祟って問答を煙に巻いたり誤魔化したりするのがヘタクソなやつだと思っていたけれど、それについては上手にはぐらかされてしまった。はぐらかされているというよりは、あまりに撫で肩が頑なだから俺が折れてやっているという方が正しいかもしれない。その謎が残っているのが、今日までこの茶番に付き合っている理由の一つでもある。
 撫で肩は……罰されたいのかなと思った。痛がる権利さえ持たず与えられる痛みに耐えることで、罰されていると思いたいのかな。けれど理由がわからなかった。罰される理由、もっと正確に言えば、「罰されなければならない」と撫で肩が思い込んでいる理由が。いいやつには裏があるに決まっている、と人を穿った目で見る俺でさえ、おまえの影を感じたことは今日までなかったのにさ。撫で肩からは演技のにおいをまったくといっていいほど感じない。本性を隠していたとしたらとんだ技巧の持ち主だよ。おまえに一体どんな罪があるっていうんだい?

 煙草の火が消える。

 煙が途絶え、俺の心は現在に引き戻された。あの日と変わらず撫で肩は体を縮こまらせてブツブツと呟き続けている。クーラーの低い稼働音に紛れて、撫で肩の祈りにも似た懺悔が耳に届く。何を、誰に、許してほしいんだろう。その声はきっと謝罪の対象に届くことはなく、ただ俺と畳に吸いこまれて消えていく。
 なんで?
 なんで「償う」んではなく「罰される」ことを望んでるんだよ。
 手を離すと先端が潰れた煙草が落ちた。それが合図になったかのように撫で肩の懺悔が止む。押し付けていた場所は小さく丸く焼けただれてしっかり痕になっている。まあまあグロいな、と他人事のように思う。はあ、はあ、と撫で肩の呼吸に合わせて汗で濡れた肩が上下するたびに火傷も動いて、まるで脈打ってるみたいだった。それを見ているとやりきれない気分になる。俺はね、楽しいって気持ちだけ感じて生きていたいわけ。なのにおまえってばひどいよね。なんでこんな役回りを俺に与えたの?
「ねえ、いつまで続けんのさ。こんなこと」
 撫で肩は息を整えながら手早く元通りにシャツを羽織る。火傷は隠れてしまった。そういやこいつきちんと火傷の手当をしてんのかな。今までつけてきた傷は塞がってんのかな。以前つけたはずの箇所は今日は服の下に隠れていた。頭だけで振り向いた撫で肩は何も言わず、なんともいえない顔で笑ってみせる。そんなふうに笑われるとこっちもいつもの調子が出なくて腹が立つ。俺は人を転がすのは好きだけど転がされるのは心底嫌いなんだ。こんなことを始める前はそんなふうに笑うやつだと知らなかった。人好きのする朗らかな表情で、困ったように眉を下げながら、しゃーないなあと笑う。そんな男のはずだろ?
 おまえみたいなやつ、俺は知らない。
「ごめんな、いつも付き合わして」
 質問には答えずそんなことを言う。俺は謝ってほしいわけじゃない。や、まあ、申し訳ない気持ちではいてほしいけど、一番欲しいのはそれじゃない。ムカつく、という感情を隠しもせず表情に出していると、撫で肩は先ほどとは違ういつものようなへらりとした笑顔を浮かべた。目元の笑い皺は撫で肩の人格を物語っているよう。もうそこに悲痛さはない。わかってる、本性もクソも撫で肩の笑顔は演技じゃないってことぐらい俺にもわかる。でも誤魔化されてやるほど俺はやさしくもない。
「ほんと、俺の優しさに感謝してほしいよ。一人だけきもちよーくなっちゃってさ。おまえのクソみてーな自己満足に付き合う俺の身にもなってほしいっての。俺以外だったら絶対ヒいてるね。俺もヒいてるけど……あのさぁ、おまえ、俺が断ったらどうする気だったわけ? 学校中に性癖言いふらされて居場所がなくなるかもとか考えないわけ?」
 まあ俺が「撫で肩は煙草を押しつけられて喜ぶような被虐癖のある変態だ」と言ったところで猫背あたりはまったく信用してくれなそうだけどさ。俺の問いに撫で肩は目を丸くした。横顔の口が薄く開いている。きょとんという音が聞こえそうなバカみたいなツラ。何その顔、俺までつられてそういう顔になりそうなんだけど。
「そんなん、知らんよ」
「はァ?」
「やってそんな、考えもせんかった。わかっとったもん、黄色は断らんって」
「なんでだよ」
「おまえが」
 撫で肩は汗で額に張り付いた前髪を指でよけながら言った。こともなげに。

「いいやつやから」

「……いいやつ?」
「うん。やさしいよな、黄色」
 おまえ。
 俺は一瞬目の前が真っ白になったような気がした。
 おまえは、……おまえ、おまえさあ。マジでそんなこと言ってんの? おまえは、俺がいいやつだからやさしいやつだから、こんなバカげたことに付き合ってるって、本気でそう思ってんの?
 眩むほど、ひどい。憎悪と呼んでもさしつかえないほどの激情が一瞬で俺の体を支配した。それに逆らうことなく衝動的に、さっき焦がした火傷があるはずのあたりにつよく握った拳を叩き込んだ。中指の関節の骨が当たるように。
「いっ」
 小さく声が漏れた。俺はそれに満足しながらもう一度繰り返した。今度は少しずれた。肩甲骨が指の骨にぶつかる感触。ごつん、と音がした。うえーこれは俺も痛い。
「何するんや!」
 三度目を食らわそうとしたら、珍しく声を荒げた撫で肩が体をひねって避けた。戸惑いの溶けた声。おまえ、殴られるのは普通に嫌なのねえ、ヘンな奴。それでも追いすがって拳を振るおうとしたら手首をつかまれて止められたけど、そんなことには構ってられなかった。
「どうしたんや急に」
「痛えって言えよ」
「ええ? なんやそれ」
「言えっつってんの。痛いもう嫌だやめてくれって」
「言わんよ、そんなこと」
 心の底から舌打ちした。あーわかってるよ。何回も付き合ってんだから、おまえがそんなこと言わねえことくらい知ってんの。だからこそ願わずにはいられなかった。言えばいいのに。言ってくれればいいのに。
「俺ァねえ、おまえが思ってるような人間なんかじゃないよ。っていうかどうやったらそう見えるわけ? 頭おかしいんじゃない?」
「……黄色、」
「俺がやさしい? バカじゃねェの。これがおまえの言うやさしさかよ。やさしいやつは友達の背中に煙草押しつけたりすんの? 違うでしょ。そうじゃないだろ」
 おまえが何も言わないから。理由も明かさずに、震えながら懺悔をするから。だから俺はそれ以上何もできない。痛みを求めている撫で肩に痛みを与える俺、その関係性は単純な利害の一致に過ぎないのかと思うと眩暈がした。言えばいいのに。言ってくれればいいのに。そう思う自分に吐き気がした。これじゃあまるで本当にやさしいやつみたいじゃんか。こいつならきっとそう勘違いするだろう。そんな気持ちの悪い勘違いは断じて捨て置けない。そうじゃない、俺はもっと現状を面白くしたいだけだ。意味もわからずいいように振り回されているこの現状が許しがたい。できれば、おまえが一線引いて踏み込ませないその領域を思い切り暴いて嘲笑ってやりたい。あ、楽しそう。怒っているそばから口角が上がりかける。あーダメダメ。
 じっと聞いていた撫で肩は掴んでいた俺の手首を離した。行き場をなくした俺の手は力なく畳に落ちた。撫で肩は困ったような顔をしている。そんな顔が見たいわけじゃないんだよ。何おまえ? 今困ってるのは俺なんですけど? ああイライラする。この代償は大きいよ。
「……けど俺、知っとるし」
「……何を? おまえが俺の何を知ってんの?」
「おまえがいいやつやって。知っとるんやもん、しょうがないやん……」
 困ったように言う。子どもに言い聞かせるみたいに言う。はぁ? なんでおまえが戸惑ってんの? 戸惑っていたのは俺のはずだった。なんで焼かれる方がそれを望み、笑い、諭し、焼く方がこんなに焦り、怒り、うんざりしてるんだろ。かけちがえたボタンと一緒で、何もかもが少しずつズレている。相手の要求をそのままのむのが優しさだなんていうバカな勘違いをこいつがしているはずもないのに。結局当てられなかった拳をゆるく開いたり握ったりしながら考えた。こんなのは俺らしくもない。考えても殴っても煙草を押し付けても、どこにも答えが見つからない。
「撫で肩は、それでいいわけ?」
 まただ。またその顔。そうやって曖昧に笑う。それを見て俺はますますイライラする。その笑顔を見るたび俺は暗に拒絶されてる気がして物凄く嫌になる。救いが欲しいんじゃないのかよ。体面も気にせず俺にみっともなく縋っておきながら、肝心なところは明かしてくれない。来るもの拒まず、誰にでもやさしい、撫で肩クン。そんな撫で肩に巣食う、人と共有できない何かが確かにそこにあるはずなのに。撫で肩は決してそれを俺と共有したいわけじゃない。こいつはさっきから耳触りのいいことを言うけれど、所詮は理解の相手に俺を選んだんじゃない。要するに俺が都合のいい人材だっただけ。俺を利用しておいてタダですむと思うなよォ。これはまぎれもない怒りだ。
「俺に何を期待してんのか知らないけどさァ。やりたいからやりたい。欲しいから欲しい。いらないものはいらない。俺はそういうふうに生きてンの。膝をついて、こうべを垂れて、許しを乞うおまえの生きざまは到底理解できないんだよ。嫌悪で鳥肌が立つね吐き気がする。気持ち悪いんだよ、この変態。俺を利用するんじゃねえよ」
(怒れよ)
 怒ればいいのにと願ったけれど、撫で肩はそうしてくれない。本当、面白くない。人の感情が波立つところを見ることこそ俺の娯楽だってのに、こんな状況でさえ普段の穏やかさ以外が表面化することはないっていうのか。ああは言ったものの、俺は自分が期待されてるわけじゃないってことぐらいわかってる。撫で肩が俺にこんなことさせるから俺は勘違いしそうになる。撫で肩は俺のことを信頼してるからこんなこと頼むんだって勘違いしそうになる。違うよなァ。結局おまえは誰のことも信じちゃいない。誰にでも優しいっていうのは聞こえはいいけど、裏を返せば誰も特別じゃないってことと同じだ。おまえが、目の前の俺でなく、ここにいない誰かにしか救いを求めないのがその証拠だ。
 そこまで考えて嫌になった。これじゃあまるで俺は傷ついているみたい。別に俺はこいつを救いたいわけでも、許したいわけでもない。ましてや特別になりたいわけでもない。間違えるなよ。俺は今、すっごく怒っているんだ。
(怒ってくれよ)
 顔が歪んだ。撫で肩は俺の話を果たして聞いているのか。否定したいし、否定されたい。おまえ、間違ってる、マジ、気持ち悪いよ、撫で肩。変態。巻き込みやがって、クソ野郎。俺の努力など素知らぬ顔で、いっそやさしい声で、撫で肩は言う。
「こんなこと、黄色にしか頼めんよ」
「こんなことできるの俺しかいないじゃん」
 悔し紛れみたいに絞り出した自分の言葉の陳腐さを心の底で笑う。そりゃそうさ、マッシロも、猫背も、他の誰もこんなことはできないだろうね。あいつらは「やさしい」。あいつらはあいつらでイカれてる部分はあるけどそれはまたちょっと別の話で、たとえ本人からの頼まれごとであろうと撫で肩を傷つけることをよしとはしないだろう。左手の爪をガリと噛む。負けを認めたくない。おまえのあざとい人選が間違いではなかったことを。俺じゃないとダメだったんだ。そう、撫で肩はある意味では俺のことを信じている。俺のことをやさしいといったその口で、俺が、笑って人を傷つけられる人間だと、信じている。そしてそれは正しい。大正解。まったく、嫌になるね。結局、今回もおまえの思いどおりだ。本当に面白くない。