夜の魚

 星がものすごく綺麗に見えた夜の話。
 満天の星空ってああいうのを言うんだなって感じで、星があんだけあるんならまだ見つかってないのもひとつやふたつ混ざってるんじゃないのかって思うぐらいだった。そんな星空に興奮しきったマッシロが深夜にいきなりうちを訪ねてきて、寝てた俺は叩き起こされて家から引きずり出されるようにして外に出た。よい子じゃなくても寝てる時間だった。
 とっくに冬と呼んで差し支えない季節になっていて、吐く息は白く、布団の中との温度差に俺は震えた。空を抱え込もうとでもするように腕をめいっぱいに広げたマッシロが、まだ状況を把握しきれずに目をこすっている俺に自慢げに言う。
「星すっごくねえ!?」
「星? あー……すごいな……」
 眠い俺のテンション低いリアクションが不満だったらしく、マッシロは唇を軽くとがらせた。
「まだ頭寝てんだろ、起きろよ。すげーよ星星星」
「バカ、寝てるに決まってんだろ、今何時だと思ってんだよ。親しき仲にも礼儀ありって知らねーのか」
「きれーなんだもん、おまえにも見せたかったんだ」
「ありがた迷惑……」
 俺はあくびをかみ殺しながらマッシロを見た。お礼を言われたものだと勘違いしているらしいマッシロが得意げにフフンと笑った。前々から思っていたけどマッシロは感動というのは等しく共有できるものだと思っている節がある。自分が感じた感情の振れ幅と同じだけ他人も動くものだと思っているんだ。イラつくね、おまえのそういうとこ。
 そんなことを考えていたらマッシロが思いついたように言った。
「河原行こう! あのへんなら暗いからきっともっと綺麗に見える」
「え、もう、家帰って寝ようぜマッシロ……」
 俺は眠たいから喋るのも億劫なのに、マッシロはお構いなしに俺の腕をつかんで走り出した。バランスを崩して転びそうになったので慌てて足を動かす。こうなってしまったマッシロを止めることは難しいと知っているので、抵抗する方が面倒くさいと思った。俺は眠くてマッシロは星が見たくてマッシロが俺と星を見ない限り俺は帰れないしマッシロが満足するためには河原に行かなくちゃならないので結局俺は河原に行かなくちゃ帰って寝られない。
 ただとにかく寒かった。前を走るマッシロの白い息が俺のところまで流れてくる。マッシロは身軽で走るのが速い。掴んでもらわなくても走れると言いたいけど、手を離されたら俺はあっという間に置いていかれてしまうだろう。思えばいつだってこんなふうに俺が引っ張られてどこかに連れまわされている気がした。河原に向かって無言で走り続ける。なんでかわからないけど、歩いて行こうとは言えなかった。少し汗ばんで息苦しくなってきた頃、目的地が見えてきた。
「見えた」
 ぱっと振り向いたマッシロの頬がつめたい風にさらされて赤くなっているのがわかった。走るスピードを緩めて、土手から河原まで下りる。掴まれていた手はいつの間にか離れていた。マッシロの思惑通り河原は暗かった。おまけに川の流れる音がはっきりと聞こえるくらい静かだ。冬の夜は鋭く透きとおっていて冷たい。
「やっぱ綺麗だなあ」
 マッシロは心底楽しそうに空を見上げている。急いで出てきたからろくな防寒対策もしてない俺はかいた汗が冷えて寒くなってきた。両手を交差させて二の腕をさする。その間にもマッシロはどんどん川の方へ近づいていくので、しぶしぶ追う。歩くと河原の砂利や小石が足元で音を立てた。
「さみい……マッシロ、もー満足だろ。帰ろうぜ」
「まだ」
 言いだしたらマジで聞かねえんだもんな。頑固なマッシロに若干うんざりしながら俺も見上げてみた。星星星。星ばっかりだ。たしかに綺麗だけどそんなに見つめ続けて楽しめるもんでもなかった。夜に空見上げたら星があるのなんて当たり前だろ。別に今日しか見えないわけでもあるまいし、マッシロが何にそんなにこだわっているのかわからない。擦り合わせた両手の指に苛立ちを込めた。
 しばらく見上げていると首が痛くなったので星を眺めるのをやめて前方にある川を見た。黒々とした流れが見える。晴れた日がしばらく続いていたので流れも穏やかなものだ。ここはそんなに綺麗な川じゃない。

 こんなふうに寒い夜、ヨル子さんが俺の手をひいてこの河原まで連れてきてくれたことがあった。その日の俺はどうしても眠れなくて、父を起こさないようにそっと家を抜け出して近くを散歩していた。その途中でたまたまヨル子さんに出会ったのだ。なんて幸運、と俺は喜んだ。ヨル子さんは、小学生がこんな時間に外に出ちゃ駄目でしょうと俺をたしなめた後、じゃあ私と一緒に散歩しよっかと言って手を差し出してくれた。俺は眠れなかったことに感謝した。
 ヨル子さんは女性にしては手が大きくて、俺の手をやわらかく包みこんでくれた。俺と繋ぐ方の手は手袋を外してくれているのが嬉しかった。
 ヨル子さんと夜中に出かけるのはそれが初めてだった。月明りの下で見るヨル子さんはなんだか昼間とは違って見えて、俺はいつもよりドキドキしていた。夜のヨル子さん。握った自分の手が汗ばんでしまわないかが気になっていた。二人で歩く川沿いの土手は今より街灯が少なくて、足元があまり見えない代わりに星がよく見えた。
「夜は冷えるね。耳が痛いくらい」
 穏やかな声でヨル子さんがそう言った。うん、と頷く。俺は本当はふかふかの耳当てを持っていたけれど、ヨル子さんの声が聞こえづらくなったら嫌だからリュックの中にしまっていた。
「寒い日には生まれたところのことを思い出すな」
 俺は隣を歩くヨル子さんを見上げた。ヨル子さんの故郷の話は聞いたことがなかった。なんとなく、この街の人ではないとは思っていたけれど、はっきり聞くのは初めてだった。嬉しかった。これはマッシロだって聞いたことない話に違いない。
「俺。いつかヨル子さんの故郷に行ってみたい」
 興奮気味に俺がそう言うとヨル子さんは灰色の双眸を細めて笑った。ヨル子さんは花のようには笑わない。薄氷のような、美しくはあるけれどどこか危うさを感じさせる微笑みを浮かべる。
 綺麗。
 けれど、きっと、触れた瞬間に、駄目になってしまう。
「私の故郷はとても遠いところにあるよ。そこは暗くてとても寒いの。ここよりもずっと」
 寒いのが苦手な俺はちょっと嫌だったけれど、ヨル子さんが見ていた景色をどうしても見てみたかった。そうすれば少しは近づける気がした。
 ヨル子さんには雪が似合うと思う。それも、足跡一つもない積もりたてのやつ。この街に珍しく雪が降ると、俺はまだ誰も通っていない道を探してはそこに積もっている薄い雪を眺めていた。綺麗だと思っても、いずれ融けるなら、いずれ誰かが通るなら先に、と最終的にはいつもぐちゃぐちゃに踏み潰さずにいられなかった。見る影もなく踏み荒らされ、靴跡だらけの泥にまみれた雪を見て満足するまでが俺にとっての雪の楽しみ方だった。
「雪たくさん降る?」
「降るよ。自分のつけた足跡が、振り向いた頃には消えるぐらいにね。何も見えなくなるくらい積もるの。見えなくなるって言っても、元から何もないようなものなんだけどね。人もほとんどいないし。静かなところでね、いつでもしんとしてる。深海の底みたいな街だよ」
 想像してみる。雪以外何も見えなくなるほど真っ白な街。音のない街。人のいない街。……うまく思い描けなかった。でもきっと素敵だろうと思った。俺にとってはヨル子さんさえいれば他の人間が多かろうが少なかろうが関係なかった。ヨル子さんは懐かしむように語る。どこか遠くを見る目、その目に俺は映れない。その街に俺はいない。
「もっと街の話して」
「ん……本当に寒いんだよ。体だけじゃなくて、何か、心の中まで凍えそうだった。特別な寒さなの。動く力さえ奪うような。動こうとする意思を、かな。気力を削がれるというか。あそこからどこかに行こうとするのは大変なの。なんだか行き止まりみたいな街だった」
「ヨル子さんはいつここに来たの?」
「いつだったかなぁ。覚えてないや」
「じゃあどうしてこの街に来たの?」
「いつにも増して質問が多いんだね」
「ヨル子さんのこといっぱい知りたいから」
「ふふ」
 ヨル子さんの笑顔を見て、俺は自分の発言を少し恥ずかしく思った。過去にさえ嫉妬しているなんて言えなかった。俺の把握してない部分が許せない。知ったところで掌握できるわけじゃないのに。よくわからないんだ、自分でも。胸を圧迫するこの感情は。
 これは恋なのかな。
 これが恋なのかな。
(でも)
(恋ならきっともっと、綺麗だ)
 この気持ちは、たぶん、もっと、違う何かだ。だけどヨル子さんに向いた感情を、厭うべきものとして扱いたくはなかった。
「俺、いつか絶対にその街へ行くよ。雪が降る季節に行くんだ」
 見上げたらヨル子さんは少し目を丸くしていた。目が合って、ヨル子さんが笑った。嬉しくて、俺も笑った。
 土手沿いを歩ききって橋のたもとについた。平日の夜中は走る車も少なく橋は静かだった。この街の大きな目印でもある、川の向こうの大きな製紙工場からはこの時間でも白い水蒸気が上がっていた。真上の月に照らされながら、もうもうと吐き出される水蒸気に紛れて赤い光がチラチラと見える。工場は俺に煙を吐く怪獣をイメージさせた。
 橋の傍の自動販売機でヨル子さんがホットココアを買ってくれた。両手で缶を包み込むと、手との温度差のせいもあって火傷しそうに熱くて、プルタブを上げると白い湯気が風に流されて夜に融けた。甘ったるいココアをふうふう冷まし冷まし飲みながら橋の真ん中あたりまで歩き、二人で橋から見下ろすように川を眺めた。
 太陽の下で見るよりも川は黒々としていて得体が知れなかった。前日の大雨のせいで普段より水かさが多く、流れも激しい気がした。静かな夜だからか、ごうごうと流れる音が大きく響いて聞こえて、それが化け物の唸り声みたいだなんてくだらないことを思った。だけどだんだん本当に何かの鳴き声みたいに聞こえてきて、いつも見ている川のはずなのに別物みたいに怖いと思った。
 この川には何かが棲んでいる。絶対に。それは確信に近い感覚だった。
「夜の川には近づいちゃいけないよ」
 俺の心を見透かしたようにヨル子さんがそう言った(ヨル子さんの声はいつも俺を安心させる)。俺は無言でうなずく。怪獣がいるんだと思った。夜の川の深くて暗い底の方には大きな大きな化け物魚がいて、近づいたらきっとたちまち喰われてしまうと思った。もう考えない方がいいと思うのに、一度怖いスイッチが入ってしまったら、自分の想像の中でどんどん魚は大きくなっていく。鱗にぬめりを帯び、肥え太っていく。このままではいけない。ココアの缶を持つ両手に力が入った。そんなに時間は経ってないのにココアはもう冷めかけている。存在に気づかれたことを知った夜の魚が川の深いところから飛び出して、ここまで飛んで俺を食べてしまったらどうしよう。俺の心は不安でいっぱいになってしまった。しかもちょうどそのとき、見つめていた川面でバシャンと何かが跳ねたから、俺は思わずぎゅっと目をつぶってしまった。
「そろそろ帰ろっか」
 声の遠さにはっとしてヨル子さんの方を見ると、いつの間にか飲み終えたココアの缶を捨てに自動販売機の方へ歩いていっていた。その背中を俺は慌てて追いかけた。「待って」と裏返った情けない声が出た。急に手を振り回したせいでまだ飲みかけだったココアが飛び散る。尋常でない俺の様子に、ヨル子さんが驚いた顔で振り返った。駆け寄って勢いよく飛びつくようにヨル子さんの手を握る。ヨル子さんの手から缶が落ちて転がった。カン、カラ、カン……甲高い音が土手によく響いた。それでいい、その音で夜の魚がびっくりしてもっと深いところに潜ってしまえばいい。
 一人になったら、夜の魚が飛んでくる。
 情けない空想を怖がって、置いていかれるのを嫌がったなんて言えなかったけど、はあはあと白い息を吐く俺の手をヨル子さんはきゅっと握り返してくれた。
「ちゃんとここにいるから」
 ヨル子さんの声と手はココアなんかよりよほど俺をあたためてくれた。俺は安心して橋を振り返る。川はまだごうごうと唸っているけれど、もう大丈夫だと思った。夜の魚はもう来ない。俺は繋いだ手に力を込めた。ヨル子さんは俺が怯えていた理由を聞いたりしなかった。もう一度歩き始めた後はもう一度も振り返らなかった。
 ヨル子さんは俺を家まで送ると「危ないから、夜に一人でふらふら出歩いちゃ駄目だよ。おやすみ」と頭を撫でてくれた。もう少し一緒にいたかったけど、十分すぎるほど付き合わせたこともわかっていたので、我儘は言わなかった。相当な我慢が必要だったけど、甘えた声を出すのをなんとかこらえた。音を立てないように家に入り、父が起きていないことを確かめる。すっかり冷えきった布団に入って天井を眺め、ヨル子さんと繋いだ手の感触が残っていることを愛おしく思った。俺はふと、ヨル子さんこそこんな時間に一人で何をしていたんだろう? と思った。
 その日俺は夢を見た。夜の魚は川から力強く飛びあがって月を齧っていた。悠々と空を駆けると夜空の星が映り込んだ鱗がきらきらと光る。飲み込んだ月が腹の底で鈍く輝いているのが外からも見えた。夜の魚が体を震わせるたびに降ってくる水滴はまるで流星群みたいだ。夜の魚は満足したのか勢いよく空から川に飛びこんで水柱を立て、また深く深く潜っていく。大きな波紋の残る川面に欠けてしまった月がゆらゆらと映る。夜の川の深くて暗い底の方には大きな大きな化け物魚がいることを俺だけが知っている。

「夜の川には近づいちゃいけないよ」
 あのときのヨル子さんの真似をして呟いた。俺と川との距離は十メートル弱。久しぶりにまじまじと眺めた川は、思い出よりもずっと穏やかに流れていて、怖いものが棲んでいるように見えなかった。晴れが続いていたから水が減っているのかもしれないし、俺だってあの頃よりだいぶ大きくなったんだから受ける印象が違うのは当然かもしれない。あのとき俺は何をそんなに怖がっていたんだろうか。足元の小石を拾って川に投げ込むとぽちゃりと音を立てて小さく波紋が生まれた。
 もちろん夜の魚は出てこなかった。
 そんなの当たり前だ。だけど、少し寂しいような、悲しいような気がした。あの日の思い出が意味を失くしてしまうようで。俺は手持ち無沙汰に小石を投げ込み続ける。小石が立てた泡や波紋はすぐ消えていく。星を見ていたマッシロが音に反応した。
「水切りヘタクソだなー」
「違うわ。投げてるだけだっつの」
「この川にはおばけみたいな魚がいるからぶつけちゃ駄目だよ」
 マッシロの言葉に俺は驚き、投げかけた小石を取り落としてしまった。石と石がぶつかって跳ねる。跳ねたのは石だけじゃない。なんで、なんでおまえが。
「なんでそれ知ってんだ?」
「おまえにもわかるの? この川見るたびに頭の中でおっきな魚が泳ぎまわるんだ。この川の底にはヌシみたいな魚がずうっと昔からいるんだよ。鯉のぼりよりあのビルよりおっきいの。川を泳いで、空だって飛んでいくんだ……」
 じわじわと、俺の心は熱くなった。だって。死んだと思っていたんだ。夜の魚は、水の底で誰にも知られずに、飲み込んだ月を腹に抱えたまま、死んでしまったんだと。死ぬも何も、俺の空想が生み出した怪獣なんだから、本当は夜の魚なんてどこにもいない。満ちた月は今も昔も変わらず真ん丸だし、小さい頃の俺が思うよりもこの川は実はずっと浅くて、そんな魚が身を潜められるようなところじゃない。
「すっげえでっかい釣竿がいるよなあ」
 マッシロが目を細めるように笑って、川に向かって竿を振るような動きをしてみせた。おまえ絶対釣りに向いてないよ、待つの苦手なんだからさ。目を離してる間に餌を食い逃げされんのがオチだよ。
 
 この気持ちはなんだろうなぁ。マッシロ。
「……月を餌にするといいぜ」
「月?」
「あの魚は月を食べるんだ」
「めっちゃグルメだね。釣って刺身にしたらおいしいかな」
「刺身も空飛んで逃げるかもなあ」
「その前に魚拓をとらなくっちゃ」
「紙も墨も足りなくなりそうだな」
 俺がマッシロのくだらない空想話に付き合うことはそうそうない。マッシロの話は突拍子がなくて、空想と現実の境界線はいつも曖昧で、一緒にいるのに心はいつも違うどこかにある気がして嫌だった。猫背はリアリストだからマッシロの妄想癖が癪にさわるんだろって黄色は言うけどそれは本当は違う。俺はきっとマッシロと同じものが見たいのだ。またくだらねーことばっか言ってるってバカにしてても、マッシロの語る世界は、マッシロが描く世界は、素晴らしいもののように思えたから。俺が本当に気に入らないのはたぶんそこなんだと思う。そこにいられないことを、それを共有できないことを、俺は寂しいと思う。
 だけど今日は違う。
 俺にも見える。死んだはずの夜の魚が見える。真っ白い骨になって水底に沈んでいた大きな大きな化け物魚がまた泳ぎ始めようとしているのがわかる。ここにいても震えが届くようだ。ごうごうと唸りをあげて、泥に沈んだ巨躯を重たげに起こして、澱んだ水面を一気に突き破って、夜の魚が、飛びだしてくる。
 マッシロが空想の釣り竿で釣り上げたのだ。喜ぶマッシロと俺に、飛び散った川の水が降り注ぐ。つめてーよ! と俺が叫んで、空に浮かんだ夜の魚は不機嫌そうにグイグイと竿を引っ張る。その力が強いもんだから、マッシロは竿ごと川の方に引きずられていった。踏ん張った靴の裏で砂利がズリズリと音を立てている。慌てて俺がマッシロの腰を掴んで引き止めようとしたが、そんな力では到底止められなくて、俺もマッシロも引っ張られた勢いのまま宙に浮いてしまった。そのまま川に落っこちると思って焦ったけれど、不思議なことにおとぎ話の空飛ぶピーターパンみたいに浮かんだままになっていた。無重力ってこんな感じだろうか? 釣り糸で夜の魚と繋がったままの俺たちはそのまま一緒に空を飛んでいた。夜の魚は悠々と月の方に近づいていき、俺たちもどんどん空の上に向かっていく。いつものつまらない街を見渡せた。あの日と変わらず製紙工場は水蒸気を吐いている。俺たちの方が釣られちゃったみたいだ! と釣り竿を握ったままのマッシロが楽しそうに笑う。
 こんなの所詮は空想だってわかってる。幻だ。ただの夢に過ぎない。俺たちの頭の中にしかない。本当は何もない。本当はどこにも行けない。一夜限りの逃避行だ。こんなのを幸せだと思うのはたぶん間違ってる。俺は突然、あの日のヨル子さんの手が死体のように冷たかったことを思い出した。
 齧られたように欠けた三日月が空に浮かんでいる。夜の魚は自由に飛び回れることを喜ぶようにその巨体を震わせる。滴る雫は街に流れ星を降らせる。マッシロと俺の笑い声が夜空に高く吸いこまれていく。

 宇宙の果てまでだって行ける気がした。