ワトソンの墓標

「俺の回想なんて必要かなぁ? 正直、所謂、黒歴史なんだよね」―――黄色

 傲慢でシニカルな面が目立つ黄色も、その実、シンプルに努力家で、友情・努力・勝利という普遍的な図式を好むごく普通の男の子だ。好んでいるし、その図式が成り立つことを信じていたいと思っている。
 だからこそ天野の存在は目に余る。癇に障る。度を過ぎている。運の良さだけで世を渡っていくのなら、渡っていけるというのなら、それは己を含めた全人類への冒涜だという気持ちがあった。運が良いだけが取り柄のヒーローが、他のすべてを凌駕して、力尽くで物事を解決していく。そんな筋書きを黄色は望まなかった。天野の人生が脚本だとしたら、どうしてもその展開を捻じ曲げたかった。黄色は子ども向けの偉人伝記が好きだった……はみ出し者だったり、落ちこぼれと揶揄されたりした人々が、弛まぬ努力により才能を開花させ、やがて周囲に認められていき、ひとかどの人物となる……そんなありふれた物語をこそ黄色は愛していた。人間がみっともなくとも足掻く姿に魅せられていた。黄色の怒りの根本は実はそこにもあった。ただひとつ幸運というギフトを生まれ持っただけで、人のあらゆる尊い積み重ねを軽々しく越えていっていいはずがない、と憤慨したのである。しかし、その怒りは時とともに恐怖へ変貌していくこととなった。
 己の頭脳や狡猾さにある程度自信のあった黄色ですら天野を陥れるのは容易ではなかったのだ。黄色の自信は決して自惚れの類ではない。他の感情の機微に聡く、よく回る舌を持ち、人心掌握術に長けている。昔から舌先三寸で人を動かすのが得意だったし、思いどおりにことが運ぶのを影で笑うのが好きな畜生だ。それでも、黄色が培ってきた権謀術数は、天野の前ではこれっぽっちも意味も成さなかった。どんなに手を尽くしても、知恵を振り絞っても、やすやすと乗り越え、すべて解決してけろりと笑うのだ。黄色の怒りは焦りに変わり、焦りは怯えに変わった。しかし黄色は断固としてそれを認めなかった。こんなやつを恐れることなどあってはならなかった。何も知らずに探偵は笑う。俺たちのおかげで今日も解決したな。俺たち本当に名コンビだと思わないか? ――思うわけがない。それは俺が起こした事件なンだから。
 当時の黄色は、どの程度のことまで天野が解決できるのかのラインを探っていて、積極的に街で何かしらの事件やトラブルが起こるよう仕向けていた。そのたびに天野はとんちんかんな推理を披露して黄色の失笑を買ったが、気づけば強引に物事は解決していた。黄色も生来の勤勉で負けず嫌いな性格が災いして、あの手この手で問題を引き起こした。ムキになっていたのでだんだんやることがエスカレートして危ない橋もたびたび渡った。今思うと結構ヤバいこと色々したなァ、少なくとも法には完全に触れてた、と黄色は回想する。

 しかしあるとき黄色は自分の過ちに気づいてしまった。「ああ……俺はなンてことを!」――そう、簡単な話で、黄色が事件を起こすことが、天野を探偵たらしめていたのだ。

 黄色は、天野の幸運を上回るような事態を引き起こして、勝利をおさめるつもりだった。さしもの天野でも運だけではどうにもならないことがこの世にはあるのだと、おまえは名探偵などではないのだと突き付けて、それで気持ちに決着をつける気でいた。しかし、いかに天野がラブアンドピースを信条とするちょっぴりおつむの弱い探偵とて、心のどこかでは事件を求めている。自分の存在が必要とされる瞬間に焦がれている。探偵には事件が必要だった。  黄色は、まんまと、それを叶えてしまっていたのだ。なんのことはない本末転倒だった。全部がおまえの思うとおりになると思うなよバカ野郎という警告のつもりで起こしたすべてのことが、天野の願望を叶える方向に収束していたのだ。この、身の底から湧き上がる反発心や敵愾心すらもアイツを中心に引き起こされる「幸運」のひとつだっていうの? 俺はそれを徹底的に否定するために頑張っていたんじゃないの? そのすべての結果がこれだ。なんて哀れで、なんて滑稽で、なんて無様なんだろう。己の浅慮を悔いて叫びだしそうになった口を手で覆った。それでも、喉の奥から、口を覆った指の隙間から、悲惨な声が少しだけ漏れた。

 そうして暫く経ち、あらゆる手を尽くして、黄色はついにある事件をきっかけに街から天野を追い払うことに成功した。もはや自分の領域から物理的に消すこと以外、彼の影響下から逃れるすべはないと断腸の思いで認めざるをえなかった。
 名残惜しそうな天野に、黄色は心から手を振った。二度と俺の前に現れるなと強く願った。天野はこれからも行く先々で誰かの人生を狂わせながら生きていくのだろう。台風の目のように、中心にいる本人だけがそれを知らないのだ。「ラッキーだ」なんて人の心をえぐりながら無邪気に笑うのだ。死んでくれ、と思った。ストンと心に落ちる願いだった。頼むからどっかで野垂れ死んでくんないかなァ。殺そうとしたってお得意の幸運で生き残ることはわかっている。何が起きても奇跡的に生き延びるんだろう。それでもなんとかしてうっかり死んでくれよ。黄色は己の性格の悪さを自覚していたが、こんなにも誰かの死を願ったことはなかった。恨みや呪いではなく、それは純粋な祈りに近かった。もう好きとか嫌いとかいう問題ではなく、天野はこの世界から排除されるべき存在なのだと確信していた。忌むべき異分子だ。我が人生の障害だ。生涯の天敵だ。
 おまえのような人間がいると知ってしまったら、俺たちはどうすればいい? どんな知恵も力も勇気も届かない存在がいるとわかっている世界で、何を足掻けばいい? おまえは愛と希望についてしか歌わないが、おまえの存在は俺たち凡人に諦めと絶望をもたらすんだよ。前に進もう、何者かになろう、という希望を根こそぎ奪うんだ。だってそうだろ、誰も、望んだっておまえのようになんかなれやしない。邪魔なんだよ。いなくなれ、いなくなってくれ。懇願だった。縋るような気持ちだった。
「寂しくなるな。ゴッド・ブレス・ユー、イエローくん」
 別れ際に天野はそう言った。いつものくだらない挨拶だった。神なんてと黄色は鼻で笑う。いてたまるかよ神様なんか。それこそ俺は、神にでも祈っているような心地でおまえの死を願っていたんだ。そうだ、もし言霊があるのなら、通じる祈りもあるのならば、と思った黄色は「死ンじゃえよ、おまえなんか」と言い放つ。それでも天野はそれを別れを惜しむ少年の照れ隠し程度にしか受け取ってはくれない。涙がこぼれそうなぐらい本当は悔しかった。どこまでも思い通りになってくれない男に舌打ちをして、背を向けた。そうして黄色は再び自分だけの人生を生き始める。