移ろいゆく
今日はなんだかいつもより疲れた。絵も結局あまり進まなかったし。ハツは怪我してるし、藍はわけわかんねぇしで予想してなかった事態が多かったせいかもしれない。と思いながら微妙な気分になった。描く技術は伸びないくせに絵が進まない言い訳ばかりがうまくなる。学校を出て、とろとろとした歩調で日の沈みかけた帰り道を歩く。急いで帰ったってどうせ何もない。橋を渡り、踏切を越え、街の中を歩くいつもの帰り道の中に、おかしな一コマを見つけてしまった。道路を挟んだ向こう側には小さな公園がある。注視せずとも見なれた景色は頭の中に焼きついているけど、その日常の風景の上に無理やり異質なものをコラージュしたようなちぐはぐな景色。夕日が染める公園はいつもと何が違うのか、答えは明瞭だった。
あ、壊れてる。
感動はなかった。驚愕もない。知らぬ間に日常の隙間から入り込んだそれは確実に俺を蝕んでいる。少しずつ日常に溶け込み始めた破壊がまさに目の前にあった。壊し屋がまた現れたんだ。公園と歩道の境目にほど近い場所にある遊具がぶっ壊されている。相変わらず見事な壊し方。あの場所にあった遊具はなんだっけ。
なるほどな、いつもはあったものがない、違和感のわけはそれだ。しかし俺には遊具が壊された場所に居合わせたことよりも、この現場に相応しくない人物がそのそばに突っ立っていることの方が驚きだった。視力のよくない俺でもそれが誰かわかった。思わず唇から呼び名がこぼれる。
「……撫で肩?」
俺の場所からは撫で肩の横顔が見える。落ちかかる髪の毛の隙間から見えたあいつの目。破壊の限りを尽くされた残骸を、撫で肩がじっと見ている。熱に浮かされたような目。あれは。あの目は。
羨望の眼差しだ。
羨望。俺はその感情には並々ならぬ心当たりがある。俺が、マッシロを……マッシロの絵を、見るときの、目も、ああなんだろうか。俺もあんなふうに、あいつの、絵を。
なんて、浅ましい。
「撫で肩!」
呼んで道路を渡って駆け寄った。撫で肩ははじかれたように俺の方を見た。熱を孕んだ目のままに。しかしそれは一瞬のことで、すぐにいつもの目に戻った。やさしい目。
やさしそうな、目。
「ああ、おまえか。これ、すごいな、俺初めて見たわ」
撫で肩の声には隠しきれない興奮があった。こいつは基本的に道徳的なやつだから、こういうシーンに立ちあうと憤るとばかり思っていた。教室で壊し屋の話になっても「事情は知らんけど物壊すんはよくないわなぁ」と言って少し怒りを含めて笑っていたようなやつなのに。
「黄色が写真とか見せてくれたことはあるけど、実物はすごいなあ、想像以上っていうか、ほんますごいわ。どうやってるんやろな。あっ俺これ第一発見者になるんかな? 警察とかに話聞かれるんやろか? どうしたらええんやろ」
撫で肩は俺と会ったことで幾分冷静になったのか、思いついたようにそんなことを言った。俺が最初に撫で肩と壊された残骸を視界に入れたときにまず恐れたのは、撫で肩が壊し屋なのではないかということだった。撫で肩はそんなことするような人間ではないはずだが、これはもしかして犯行現場に出くわしたんじゃないか、と。しかしその懸念は撫で肩が残骸を見る目を見た瞬間吹き飛んだ。自分がやったことをあんな目で見られるはずがない。あれは憧れる目だ。ないものを欲する目なんだ。俺にはわかる。
撫で肩。こいつはできた人間だから、そんな目で何かを見ることなんてないんだと思っていた。俺の胸のうちに蔓延るこの感情、これは安堵だろうか、それとも失望だろうか。撫で肩、おまえも人間だったんだなあ!
「あの、さ」
頭を整理しきれないまま声をかけたので口が間に合わない。あわあわしていた撫で肩が不思議そうな顔になってこちらを見る。ちぐはぐなまま言葉をつむぎそうになる。なんでもないと今更言えば不審がられるだろうから慌てて続けた。
「どう思う?」
「どう、って?」
「この……残骸みてーなの」
散らばる金属の塊を顎で示した。撫で肩はもう一度残骸に目を向ける。目の奥に宿るひそやかな熱を、俺は見ないふりをした。
「……綺麗やと思ったよ」
「綺麗?」
「うん。綺麗やなーって。やから見とったんや」
「きれい……」
「おまえは?」
「え」
「おまえはどう思ったん?」
撫で肩も残骸を指差す。もはやただの鉄クズと化した、古ぼけた塗装の破片。ゴミだ。白と黒の混じった見覚えのあるその色彩に、俺はやっとこの遊具の正体がわかった。……少し、悲しくなる。それから思ったままを口にした。
「……壊れてるなーって」
思った、と。バカみたいな答えだと我ながら絶望した。いくらなんでも単純で頭悪すぎる。けど撫で肩は笑わなかった。バカにすることもなく、一言、呟いた。
「……そっか、壊れとるかあ」
返答に困ったのか鸚鵡返しだった。それにしても撫で肩は独特のセンスの持ち主だ。建築物が好きなくらいだから、てっきりそういう緻密に計算されたうえに成り立っている整然とした創造物が好きなのだとばかり思っていた。こういう、ある意味現代アートっぽいものにも興味があるのかな。この鉄クズも何かしらキャプションを付ければ作品に見えなくもない。
「俺なあ」
残骸を見ていた撫で肩がこちらに向き直った。なんだ? と思ったが、撫で肩は「……あー」と悩むように宙を見つめた後「やっぱええわ」と笑った。眉が下がり笑い皺が寄ったいつもの笑顔だった。「なんだよ言えよ気になるだろ」と俺が言うと、撫で肩は「今度話すわ」とひらひら手を振った。なんだろう。
俺は改めてあたりを見回す。暗くなってきたからか公園に子どもの姿はなく、歩道にも通行人はいない。公園のこっち側は灯りも少なくもともと人通りの少ない道だ。今のところ俺たち以外に目撃者はいないだろう。
「じゃあ撫で肩、見つからないうちにとっとと帰ろうぜ」
「え、これほっといてええの?」
「いいよ、色々聞かれたりするのも面倒くさいし、俺たちが犯人だと思われても嫌だし。そのうち誰かが見つけるだろ」
「あっ。おまえ、俺のこと犯人やと思った?」
「いや? おまえがそんなことするわけないだろ」
撫で肩はなぜか驚いたような顔をし、困ったように笑った。
「おまえがそんなこと言うと思わんかったなあ」
「何それどういう意味だよ」
「んー。いや、いいんよ、いい意味や、ありがとな」
なんだか今日の撫で肩はヘンだ。いつもはハキハキと明朗なのに妙に煮え切らない。撫で肩は「そうや、帰る前にちょっと……不謹慎やけど!」と申し訳なさそうにしながらも携帯電話で残骸の写真を撮った。いろんな角度から何枚も。意外にも野次馬根性があったようだ。「おまえ早くしろよなぁ」と俺がせっついてようやくやめた。そして残骸を残して俺たちは歩いて逃げ出した。走ると余計に犯人っぽくなるから。
「撫で肩はバイト帰り?」
「うん。なんか病欠した人のシフトに代わりに入ることになってたんやけど、その人が『だいぶよくなったから』ゆーて途中から来てさ。帰って寝てた方がええんやないですかって言ったんやけど、俺に申し訳ないし稼ぎたいからーって帰らされた。そんであそこ通りがかったわけ」
「そんときにはもうああだったのか?」
「そうそう。すごいなあ。あんなになるもんなんやなぁ。あれ金属やろ」
「そうだよあの遊具で俺よく遊んだんだよ。またがってゆらゆら前後に揺れて遊ぶさあ、バネのついた遊具。わかる?」
「あー、わかるよ、そうかあれやったんか。パンダと象のやつやろ。そういやあの遊具って正式な名前知らんよな」
「揺れるやつとしか言いようないな。今思えば、何が楽しくてあれに乗ってたか、わかんねぇけど」
俺がもっとガキの頃に新しく設置された遊具だった。太陽を反射する真新しい塗装のパンダと象の無表情な間抜け面。俺はそれに乗ってただゆらゆらしていた。大きな木に登ったり漕ぎに漕いだブランコから大ジャンプをきめるマッシロを眺めながら。
「あれでよく遊んでたんだよ……」
懐かしさは心地よく胸を軋ませた。俺がパンダ、彼女は象。あのとき俺の隣にはヨル子さんがいた。あの遊具は思い出の象徴だった。いくつも年を重ねて、古ぼけて塗装が剥げて、金属が剥き出しになっても、バネが錆びついても。もうそこにふたりが揃うことはなくても。
「……欠片でも拾ってくりゃよかったかな」
「戻る? 少しくらいパーツなくなっててもバレんやろうし」
撫で肩が立ち止まる。
昨日までは当然のようにあったものがこうしていきなり原型も留めずに理不尽に壊れて消える。それはとても怖いことだけれど、ある日前触れもなく起こることを俺は知っている。それがどうでもいいものでも、大事に大事にしていたものでも、壊れるまで大切だと気づいていなかったものでも、奪われるときはこんなふうにあっけない。
パンダの遊具のことを思い出すと色んなものが蘇る。ゆらゆら揺れる景色と、体温と太陽熱でぬくもった金属のなんともいえない気持ち悪さ、隣にヨル子さんがいる嬉しさ、離れたところからマッシロが呼ぶ声。マッシロはいつも樹上で俺を呼んでいたが、俺は高いところが苦手だった。こちらに伸ばされた手をとったことはない。着地に不安を感じるからブランコから飛んだりできない。どんくさいのがバレるのが嫌だった。だから俺はパンダに乗っていた。あれが一番楽しい遊具だと思い込もうとした。羨ましくない。俺は望んで、選んで、これで遊んでるんだ。楽しかったのは嘘じゃない。何よりヨル子さんがいたんだから。
それでも俺にだってわかっていた。本当は俺だってマッシロのように遊びたかったんだ。
「……いや、いい」
あれがずっと残っていたってどうせもう二度と乗ることもなかっただろう。欠片を拾ったってきっと眺めたりはしない。古くて懐かしいものがひとつ消えた。それだけのことだ。