桜井の楽しい夏休み

 突き抜けたような空の青さだけが桜井の気持ちをほんの少し慰めてくれた。波の音は聞き飽きたし潮のにおいで鼻の中はツンとしている。桜井はうんざりした気持ちになって何度めかわからない溜息をついた。頭の中ではぐるぐると同じ問いかけがめぐっている。どうして俺が伊藤と二人きりで海の上に取り残されるはめになってンだ。

 桜井がこういうろくでもない状況に陥るときは大抵あの双子の姉弟が絡んでいて、今回も例に漏れず彼らがきっかけだった。
 昨夜のことだ。やたら蒸し暑い夜で、部屋にクーラーのない桜井は寝つけず布団の上に寝転がってゲームにいそしんでいた。寝苦しいのがつらいから時間潰しをしていただけでそれほど熱心にプレイしていたわけではない。電気を消した部屋でしばらく単純作業のレベル上げを続け、ようやく眠気がやってきた頃に伊藤の姉も窓からやってきた。
 せめて風が入るようにと蚊取り線香を焚いた状態で開け放していた窓。そこに伊藤の姉が立っているのを見た瞬間に桜井は色んなことを思ったが、とりあえず、窓を開けていてよかったと思った。閉まっていれば有無を言わさず叩き割られていたことだろう。どうしてこの姉弟は大人しく玄関から訪問するということができないんだ?
「今から海に行く。アンタも来なさい」
 姉はよく通る澄んだ声で簡潔にそう述べた。煌々とした月の光を受けた髪が淡く発光して真夏のぬるい風にさらりとそよぐ。彼女はいつものラフな格好ではなく、この暑いのに体にぴたりと合った漆黒のライダースーツを着ていた。引き締まったしなやかな体躯を持つ彼女に思わずはっとするほど似合っていて、彼女のことをよくは思っていない桜井でさえ一瞬見惚れてしまった。いつ見ても凛とした女だなと桜井は思う。伊藤の姉は規格外に強く凛々しく美しい。誰もがその気高さに、導かれるように憧れる。惹かれずにはいられない人間。だけど関わってはいけない人間。
「今から寝るとこなんスけど」
 時計は午前4時20分をさしていた。誰かと遊ぶような時間ではない。もちろん伊藤の姉が家に来た時点でせっかく練り上げた眠気は完全に雲散霧消していたし、逆らえるはずもないとわかっていたけれど、簡単に言いなりになるのが癪で桜井は反発してみせた。けれど何者の上にも堂々と君臨する彼女は愚民桜井のそんなささやかな抵抗に怒ることさえしなかった。何も意に介さぬ様子で「もう出るわよ」と言い放つと、部屋の主の許可をとることもなく室内に土足で降り立つ。彼女が履いているゴツいブーツから土がパラパラこぼれて畳を汚した。それなりに勇気を出した口ごたえを無視されたことで桜井は余計に惨めな気持ちにさせられた。
 窓から差し込んだ月光が彼女のスーツに反射しててらりと光る。月はいつもより大きく丸く明るかった。こんな暑い夜にこんな格好のくせに伊藤の姉は汗ひとつかいていない。いつだって彼女には現実味がない。桜井が何も言わずにいると、真夜中の太陽と見紛うような彼女のギラギラした瞳がキュッと吊り上がった。
「早くしろ」
 これが引き際最終ラインだ。桜井は諦めて鞄にゲーム機をつっこむ。どうせこうなることはわかっていた。彼女の前では何者にも拒否権を許されない。30秒も待たせたのに命令されるだけですむならば今日はずいぶんと寛容な日だ。

 5分後には伊藤の姉がライダースーツを着ていたわけがわかった。彼女は珍しいことにバイクで桜井の家まで来ていたのだ。桜井は彼女がバイクに乗っているところを見たことはなかったし、ライダーであったことを意外にさえ思った。彼女は何者にも頼らず己の足だけでどこにでも行ってしまうイメージがあったためだ。
 桜井はバイクに詳しくないから、彼女のバイクの種類や機能性についてはまるでわからなかったけれど、その格好よさに単純に惹かれるものはあった。街灯を反射する、黒を基調とした重量感たっぷりの機体。ミラーやボディは綺麗に磨かれており、それなりに日常的な手入れをされているのが素人目にもわかった。バイクとしてもかなり大きめなものなので伊藤の姉が乗りこなせるのかと思ったが、見た目にそぐわず化け物じみた膂力の持ち主である彼女には無駄な心配なのだろう。
 しげしげと興味深げにバイクを眺めている桜井を見やり、伊藤の姉はあーそっかと思い出したように言った。
「ヘルメットいる?」
「へ? 俺も乗るの?」
「バァカ。そのためにこれで来たのよ。アンタが後ろに乗んの。送ってやるんだから感謝しなさいね」
 俺が一言でも頼んだかよと心の中で毒づきながら「ヘルメットはかぶる」とこたえる。というか、そんなこと聞かなくても当たり前だろうと思った。法律で決まっている。桜井はそういう決まりごとはきっちり守らないと落ち着かないたちなのだ。
「じゃあこれかぶりなさい」
 伊藤の姉はヘルメットを放って寄越した。光沢のある真っ赤なヘルメット。相も変わらず派手好きなことだ。桜井は身につけていた3Dメガネを外してヘルメットをかぶり、自分の頭に合うように顎の留め具を調整した。ヘルメットをかぶるのは久しぶりだ。桜井は原付の免許を持っていたが、肝心の原付は伊藤が勝手に乗り回して勝手に事故って派手に損傷し、ヘルメットもそのとき紛失したままだった。彼ら姉弟の辞書に弁償という単語はない。だからそれ以来ヘルメットをかぶる機会もなかった。思い返すと伊藤に対する当時の憎悪が蘇って桜井は不愉快な気持ちになった。これ以上気分を悪くしてどうするんだ。
「乗って」
 そううながす伊藤の姉は黒ぶちのライダーゴーグルをかけていたがノーヘルだった。桜井が「そのまま乗るのか」と聞くと「だってメットそれしかないし」と返ってきたので桜井は少し申し訳なくなった。
「じゃあアンタがかぶった方がいいんじゃねえ?」
「別にいいわよ、いつもだってかぶってないし。重い。邪魔」
 ヘルメットが新品同然に綺麗なのはそういう理由だったのかと思いながらも、桜井は納得できなかった。万が一二人乗り中に事故って死なれたら、いかに相手が伊藤の姉だろうと寝覚めが悪いというものだ。ヘルメットの留め具に指が伸びる。
「そういう問題じゃねーだろ、危ないだろうが」
「は? それはアンタもでしょ。あたしに譲ったらアンタのがないじゃない」
「そりゃまあそーだけど……」
「いいからかぶっときなさい。億が一事故ってもあたしは死なないけどアンタは死ぬのよ」
 どっからその根拠のない自信がわいてくるんだよと思うと同時にそれが事実であることが桜井にはわかっていた。事故を起こすこともないし、事故っても死なないのだろう、彼女は。それは理屈ではないのだ。問答することも面倒だった。
「じゃ、お言葉に甘えるわ」
 桜井はパチリと留め具を留めなおした。バイクにまたがりながら伊藤の姉は鼻を鳴らした。
「いちいち口ごたえすんじゃないわよ、面倒くさいわねアンタは」
「すみませんね……」
 3Dメガネを鞄にしまいながら桜井はほんの少しだけ、くすぐったいような気持ちになった。ヘルメットを貸してくれた彼女は彼女なりに桜井を気にかけてくれたのではないかとふと思ったからだ。絆されてはいけない、とかぶりを振ってその考えを頭から追い払った。
 桜井はうながされるまま伊藤の姉の後ろに乗り込んだ。相手が相手とはいえバイクに二人乗りしているというシチュエーションに、不本意ながら桜井の気分は高揚して、自分の単純さにやや嫌気がさす。二人で乗るには思ったよりも彼女に密着せねばならなくて桜井はやり場のない手をフラフラさせた。
「どこ掴んどけばいいスか」
「あたしに掴まれ。そんで掴んだら離すな。動くな。動かれると運転に支障が出て面倒なのよ」
「え、アンタに掴まんの?」
「そうだっつってんでしょ。二度言わせないで」
 曲がりなりにも伊藤の姉はれっきとした女性なので、その腰に腕をまわすのは桜井としては多少なりとも照れと抵抗があった。かといって振り落とされても困るし、彼女本人の命令で二人乗りするはめになっているのだしと自分に言い聞かせ、桜井はなるべくそっと伊藤の姉に掴まった。伊藤にこんなところ見られたら何を言われることか。殺されるかもしれないな。そう思う桜井の耳にエンジンがかかる音が聞こえる。
「しっかり掴まってなさいよ」
 知らず知らず緊張して喉が鳴った。二人を照らす街灯がチカリと瞬く。砂糖を撒いたような満天の星空の下、バイクは二人を乗せて発進する。初めて桜井から触れた伊藤の姉の体は熱を孕んであたたかく柔らかかった。

 ふざけんなふざけんなふざけんなと桜井は叫び続けたかったが声にはならなかった。迂闊に口を開けば舌を噛みそうだったので彼の脳内でだけ必死な文句が大音声で響いていた。無論、運転する伊藤の姉に届くはずもない。届いていても耳を貸すとは考えにくかった。
 まるで流星だ。伊藤の姉は、法律も常識も性能も度外視したとんでもない豪速でバイクを駆っていた。文字通り風になっているのだ。やっぱりこの女はイカれてやがる!と桜井は心底思った。寝間着のスウェットの裾が限界まで風に膨らんではためき翻る。出発からこっちずっとこの調子、桜井の理解が遠く及ばないスピードでバイクは走り続ける。これが光の速さだと言われれば頷いてしまいそうだ。頭おかしいのかてめぇはと制裁も恐れず罵ってやりたい気持ちに駆られながら桜井は必死に伊藤の姉の腰のあたりにしがみついていた。最初遠慮がちにひかえめに掴んでいたせいでエンジンが唸りをあげた瞬間に危うく吹っ飛ばされそうになった。ヘルメットをかぶっていようがいまいがこんなもん振り落とされたらどう考えてもただではすまないというか9割死ぬ。人を乗せているという自覚があるとは微塵も思えない暴走行為だ。交通法規や制限速度という概念はないのだろうか。彼女なりの気遣いがどうとか考えて心あたたまっていた少し前の自分を殴って正気に戻してやりたい。
 走っているのは一般道のはずだがこの速度でどうやって障害物を避けたり交差点を曲がったりしているのかわからない。深夜とはいえ走る車の数がゼロのはずもない。時折、風の音に混じってつんざくようなクラクションの音が聞こえるたび桜井の肝はキンキンに冷えた。左右に揺さぶられるだけで向かい風に肉体が削がれてもっていかれそうな感覚に陥る。体がガチガチに強張っている桜井は、そんな状況下でも「動くな」という命令を忠実に守っていた。バイクの動きに合わせて下手な体重移動をしようものなら今度こそ振り落とされるということが本能でわかっていた。  今まで感じたこともないような勢いの風と重力に叩きつけるように襲いかかられながらも桜井がかろうじて目を開けているのはもはや意地のようなものだったが、驚くほどの速さで流れていく景色は存外爽快でもあった。境界が融けて混ざりあってすべてがどんどん後ろに濁流のように流れていく。滲む世界。
 心臓が高鳴るのは振り落とされたらおそらく即死というこの異常な状態に対する恐怖と緊張のせいだけだろうか?
「さくらい!!」
 呼ぶ声が聞こえた。
「あァ??!!」
 言葉を口にする余裕はなく、怒鳴り声で応じる。びゅうびゅうと耳が痛いほど風の奔流を思い切り切り裂くように彼女のバイクは桜井を乗せて走り続ける。こんなに騒々しく風が吹き荒んでいるのに、不思議なことに彼女が放つ言葉は風を突き抜けて桜井の耳に届いた。桜井は一瞬言われた意味がわからず、考える余裕のない頭の中で彼女のその一言を反芻した。そして彼女のいわんとすることを理解したとき、桜井は今度こそ腹の底から叫ぶことができた。
「―――ッざけんなア!!!!」
 "いくぞ"
 彼女は一言そう告げただけだったが、桜井にはわかってしまった。これが彼女のフルスピード・エンジン全開ではなかったことを。桜井の叫びが伊藤の姉に聞こえたかはわからないが、しがみついている腕から彼女が笑った気配が伝わってきたような気がした。びりりと夜が揺れる。次の瞬間、エンジンが吼えるように唸った。
 空気が震える。
 世界が変わる。
 正真正銘の彼女の全速力で。
 飛ぶように夜を駆け抜ける。
 桜井は大きく目を見開いた。
(海のにおいがする)
 知らぬ間に海沿いの道路まで来ていたのだ。景色を確認するような余裕は皆無に等しかったが、風に混じる潮のにおいで目的地が近いことを悟った。そうだ、このあたりは道路が直線状なのだ。何度か通ったことがある。視界の左右に流れ星のように駆け抜ける光はおそらく道路際に並んだ街灯だろう。流れ星は俺たちの方なのだと桜井は思った。潮のにおいは記憶を甘くくすぐり、ガキの頃に海に遊びに来たときのワクワクした気持ちが極限状態の高揚にオーバーラップする。なんとか首を動かすと少しだけ景色が見えた。
 空も海も星も月も光も境界が混ざり合ってひとつになった世界。いかなるしがらみも繋がりも何もかもすべてを置き去って、バイクはフルスロットルで加速し続ける。からみつくようにべたついた潮風も振り切っていく。走馬灯ってこんな感じだろうか? バイクも、桜井も、伊藤の姉も、輪郭を失ってこの景色に溶け込んでしまいそうだ。このまま空だって飛べると思った。桜井は高鳴る鼓動を抑えられなかった。これがランナーズハイってやつ? ちょっと意味は違うか。桜井は笑った。なんだかひたすらおかしくなって、笑った。
 俺たちだって境界を越えられる。
「なあ!!!」
 桜井は運転する彼女を呼ぶため声を張り上げた。名前を呼ぼうと思ったけれど、桜井は彼女の下の名前を知らなかった。
「何よ?!」
 伊藤の姉から荒々しい返事が返ってくる。いかに彼女とて、このスピードを維持するのは並大抵のことではないのだろう。いつもよりは余裕のないその声も桜井を愉快な気分にさせた。
「もっと―――飛ばしてくれよ!!」
 桜井が声を枯らして叫んだ要求に、彼女の返事はなかった。あたりに響いた高笑いと断末魔のようなエンジンの音が答えだった。

 バイクが緩やかにその動きを止める頃には東の空がうっすらと白み始めていた。鼠色に近いブルーが海辺を染めている。とりあえず生きてるな、と思いながらヘルメットを脱ぐと、思い出したように桜井の体はどっと汗をかいた。くすんだ金髪はヘルメットで潰れ湯気が立っていた。
 強張りがうまくとけず体がついていかなかったのかバイクを降りるとき膝ががくりと笑った。対して、伊藤の姉は神業に等しいような激しい運転をこなしたにも関わらず、乗るときと変わらず颯爽とバイクから降り立った。疲れは見せなかったが、興奮状態にあった名残なのか頬が紅潮していた。
「なんで海に来たのか理由聞いてもいいスか」
 腕には彼女にしがみついていた感覚がまだ色濃く残っているが、神速の夢の中にいたような心もちは少し落ち着いた。桜井は伊藤の姉に問いかけたが、舌が痺れたようにうまくまわらず、少し情けない喋り方になった。
「すぐにわかるわよ」
 ゴーグルをあげながらこともなげに彼女は言った。途中からは自分から煽ったとはいえあんな危険な運転でこんなところまで連れてこられたのに、理由さえすぐには教えてはもらえない。頭が痛い。
「ついてきなさい」
 悪びれもせず、桜井の方を見ることもなく、伊藤の姉は疲れを感じさせないしっかりとした足取りでぐんぐん歩いていく。桜井はくたくたの四肢をなんとか動かしてついていった。彼女は歩くのがとても速いので今の桜井ではついていくだけでも一苦労だった。誰もいない砂浜にザクザクと二人分の足跡がついていく。
 伊藤の姉は語らない。
 聞こえるのは砂を踏みしめる足音と寄せては返す波の音だけだ。
 無理やり連れてこられたとはいえ夜明け前の海は綺麗なものだった。水平線が日の出でぼやりと光り、濃い瑠璃色が視界を支配する。美しいなあと桜井は思う。ただのありふれた夜明けなのに、国語の苦手な桜井が己の語彙の少なさを残念がる程度には絶景だった。この景色が見られただけでもついてきた価値が少しはあったかもなと桜井は思った。
 けれどそれもすぐ後悔することになった。

「おまえの姉ちゃんは何がしてーの?」
 この問いかけの無意味さを知っている桜井は苦々しく思いながらも隣に座る伊藤に話しかけた。別にこの男と会話を楽しみたいわけではないが、海上で二人きりではさすがに間が持たない。畳3畳分ほどしかないこの足場では伊藤を避けるどころかどこへもいけそうになかった。
 伊藤はというと煙草に火をつけようとするところで、「んぁ?」と間の抜けた声が返ってくる。オイルが残り少ないのか、ライターはチッ、チと火花だけ散らしている。伊藤は舌打ちしながらそれを何度か繰り返し、やっと煙草に火がつく。伊藤は満足げに煙草をくわえると桜井に向かって煙をはいてみせた。桜井は苛立ちながら手で煙を払う。
「姉ちゃんは俺に試練を与えてくれてんだよ」
「試練?」
「こんな海の上で姉ちゃんと離されおまえと二人という地獄。これを無事乗り越えて、姉ちゃんの元に無事たどりついてみせよという試練さ」
「なァにバカなこと言ってんだテメー、ここは俺の地獄だよ」
 この理不尽で過酷な状況下でもそれをもたらした姉への恨みごと一つないどころか、姉から自分への愛情を信じきっている。希望を語るくせに光のない目。桜井はこの姉狂いの弟よりはこのバカげた現状を理解している自信があった。
 彼女が、自らの双子の弟を、海に浮かぶ小さな足場に適当に放り出すという無茶苦茶なことをするに至った理由。そして桜井の推測が当たりならば桜井の苛立ちはますます加速するだけだ。
 桜井が思う可能性は複数あった。まず一つの可能性としては、伊藤の姉は穏やかな夏休みを過ごすためにこんな蛮行に踏み切ったのだというもの。伊藤の姉は、どんどん暑くなるこの季節に、さらに暑苦しく重たい愛を振り翳す弟を振り切るのが面倒になったのではないか。弟をあしらいかわすのも伊藤の姉が得意とするところだが、姉を追い回し縋りつくのも伊藤の十八番だ。トムとジェリーのように追いかけ合いをし仲良く喧嘩する、それが彼らの日常だった。それに疲れた姉は物理的に弟を切り離すことで憩いの時間を稼ごうとした―――それが一つ。
 もしくは……伊藤が姉の逆鱗に触れるような何かをしでかし、これはその制裁であるという可能性。それならせめて押入れに閉じ込めるとかそんな家庭的なレベルにとどめておいてほしかった。このご時世に流刑とは、罰のスケールのでかさもあの姉らしかった。しかし制裁といっても姉の逆鱗を分刻みで撫で続けるような生活をしている伊藤のことだ、こいつに聞いたところで何がきっかけだかわかるはずもなかった。まあとりあえず、二つ目の可能性。
 けれども、とも桜井は思う。一番可能性が高いと桜井が思うのは―――単なる気まぐれ。伊藤の姉の、ただの思いつきであるということ。理由なんて何もないという可能性。
 そして、どの可能性をとってみても、自分が巻き込まれる意味が一切ないということが、桜井の心を波立たせた。
「はあ……」
 桜井は再び溜息をついた。自分と伊藤をここに置き去ったときの伊藤の姉の完璧な笑顔が思い出される。おまえの姉は悪魔だよ。フィルターギリギリまで吸った煙草を海に投げ捨てた伊藤は「うげえ……」と呻いた。
「どしたんだよ」
「今のが最後の一本だったんだよ」
 眉間に皺を寄せた伊藤は空っぽになったソフトパックをグシャリと握り潰した。桜井がざまあみろと笑うと伊藤はむっとした顔をした。
 時間が経つごとに日差しは強まってきていて、救いだと思った晴天さえ憎らしくなり始めた。群青の空にはむくむくと入道雲が起ちあがりはじめている。
 帰ろうにも手段を思いつかず、やることなど何もない二人は暇を持て余していた。これ、伊藤の姉が迎えに来なかったら俺たち二人とも普通に死んじまうよなあと桜井は思う。桜井は就寝前に連れ出されたために寝間着同然だし、伊藤はいつもの縞のシャツとジーンズ姿という着の身着のままだった。水も食べ物もお互い持っていない。泳いで帰ろうにも、街は遥か遠くに見えるのみで、とても泳ぎつけるとは思えなかった。客観的に贔屓目に見ても深刻な状況だが桜井は今まで何度もこういう巻き込まれ方をしてきたし、大体なんとかなってきたので、うぜーなーと思いながらも根っこのところは楽観的にとらえていた。ヘルメットを貸してくれた伊藤の姉のことだから、別に桜井を殺すつもりがあるわけではないだろうと思っていたからでもある。生来の被害者体質である桜井は不幸と不運に慣れているが、こんなことに慣れてしまっている自分が忌々しかった。タフにはなったが、それによって得られたものは思いつけない。
 桜井は急に、出がけに携帯ゲーム機を鞄につっこんできていたことを思い出した。電池が続く限りはそれで時間を潰すことにし、桜井はゲーム機の電源を入れた。
「あっずりーぞおまえ一人だけ」
 ゲームの起動音に気づいた伊藤が指さして文句を垂れた。桜井は優越感に浸りながらボタンを押す。遊び道具を何も持っていない手持ちぶさたな伊藤は機嫌を損ねた。
「俺というものが目の前にいながらさあ、おまえはよく平気で一人遊びなんかできるなこの野郎」
「ッハ、どの口が言うんだよ、おまえと仲良く遊ぶとか気持ち悪ィよ」
「俺ひま。ヒーマー」
 狭い足場で伊藤は駄々をこね始める。桜井は無視することにした。伊藤の姉が襲来するまでやっていたレベル上げの続きを始める。桜井の態度が心底気に入らない伊藤は、むくれた表情でしばしその様子を眺めていたが、すぐ我慢できなくなった。ボチャリ。
「……あ?」
 何かが水に落ちる音。桜井はゲーム画面を注視していた目を海に向けた。10メートルほど向こうに、見覚えのあるものが浮いていた。んん?と桜井は目をこらした。波間にゆらゆら揺れている、あれは……。
 桜井の靴だ。
「俺の靴ーッ!!」
 まるでその桜井の叫びを聞き届けて力尽きたかのように、靴は海に沈んでいった。見間違いだと思いたかったが、傍らにあったはずの靴は見当たらなかった。唖然とする桜井を見て伊藤はケラケラ笑う。
「キレーに沈んだナァ、お魚さんのおうちになるぜきっと。そうなりゃおまえなんかに履かれてるより余程いい人生、いや靴生だ」
「おまえ……」
 桜井はそのとき裸足だった。海に足を浸して涼んだりしていた。ここで靴を履く意味もなかったし、履いたままだと暑かったので靴下と一緒に脱いで置いておいたのだ。それを、桜井に構われないことを面白く思わなかった伊藤が特に迷いもなく海に放り投げたわけだ。
「ふざけんなよバカ野郎! 拾ってこい!」
「えー無理無理、桜井クン自分で行ってきてよぉ~」
「いいから行けよ沈んじゃうだろうが、あれ気に入ってんだぞ、あの靴はナァ俺が初めてバイトしたときの給料で買ったやつなんだよ!」
「サメとかいる海かもしんねーじゃんココ」
「い・い・か・ら・行けェ!」
 言いながら桜井は伊藤が決して取りになど行かないことを知っていた。桜井が言って回収しに行くなら最初から投げたりしない。けれど、あの靴が桜井にとって思い入れのあるものであることも本当だった。あの靴は珍しかったり高かったりする靴だったわけではない。靴屋ならどこででも売っていそうな、ごくありふれたスニーカーだった。桜井はたまたま寄った百貨店内の靴屋でその靴のシルエットや色味をなんとなく気に入って、初めてのバイト代で買った。毎日履いた。学校に通ったり、働いたり、走り回ったりした。気が向けば汚れを落とし、靴紐の色を変えてみたりしたときもあった。桜井は元来、物持ちのよい人間である。履き潰して古びた靴。どうせ伊藤にはその程度の認識だったことだろう。
 伊藤たち姉弟はいつもこうやって唐突かつ乱暴に桜井から何かを奪う。意味もなく。いや、伊藤にとっては意味があったのだ。桜井に無碍に扱われた憂さを晴らす、ただそれだけのことだが。ただそれだけのことで、伊藤は簡単に、桜井の靴を躊躇いなく海へ投げ捨てることができる。桜井にとっては二人は災厄そのものだった。
「……もういい、」
 桜井は諦めた。靴のことも伊藤のことも。ゲーム機を置く。靴は言い争っている間に沈んでしまっただろう。伊藤の言うとおり魚の巣になるのかもしれない。たしかにそれはそれで悪くねえかもな、と桜井はなかば投げやりな気持ちでそう思った。
 伊藤は桜井がいつもより食い下がらなかったのを意外に思った。原付を壊したときはもっとしつこく怒られた。思い入れのある靴だったと主張されても伊藤の心は別に動かなかったが、桜井はもっと怒るべきだと矛盾したことを思った。実のところ、桜井がいつもより早く諦めの境地に至ったのは二人乗りでの疲弊によるところが大きかったのだが、伊藤は桜井がどうやってここに連れてこられたか知らなかったのでそんなことは知る由もなかった。面白くもない、と伊藤は余計に不機嫌になった。
 伊藤は自分を睨みつけながらギャンギャン騒ぐ桜井を見るのが嫌いではなかった。伊藤にそんなふうに物を言ってくるのは桜井ぐらいのものだった。桜井がそんなふうに怒気を顕わにする相手も伊藤ぐらいだ。桜井は別に短気な人間ではない。昔こそすぐに顔に感情を出しては損をしたものだが、今はそんなことも少なくなった。要するに、桜井が怒ってばかりなのは、何も桜井がキレやすいからではなくて伊藤が無茶をしすぎなのだ。桜井に対して。
「……つまんねーやつ」
 伊藤は勝手な苛立ちをそのままに桜井にぶつける。桜井に比べると伊藤は遥かに自分に素直だった。彼の感情は、表情に、行動に、言葉に、すぐに現れる。子どものような青年だった。純粋なところも残酷なところも含めて。クソガキが、と桜井も呟く。伊藤は桜井に対して事あるごとに年長者ぶって見せるが、桜井にとって伊藤は力だけはある厄介なガキにしか思えなかった。伊藤を子どもと言うなら、悪戯と呼ぶには少々度の過ぎたちょっかいばかりかけられるのもまるで甘えられているようだと時々桜井は思う。今だってそうだ。ひどいことされてるのは俺の方なのに、より腹を立ててるのはおまえだ。そんなバカなことがあるかよ。
「おまえはもしかしたら知らないのかもしれねえけどさぁ、俺おまえの憂さ晴らしの相手するためだけに生まれてきたわけじゃないんだぜ」
 クソったれ。低い声で呪いのように言葉を吐き出しながら、桜井は砂浜で聞いた伊藤の姉の話を思い出していた。

 あいつはクソ虫だし最低でバカな愚弟だけど、よろしく頼むわねあいつのこと。

 桜井はその言葉に心の底から驚いたのだ。伊藤の姉が誰か(しかも自分)に何かを頼むことにも、双子の弟のことを自分の残りカスだと言ってはばからない彼女がまるで優しい姉のような表情をしたことにも。二の句が継げない桜井に、伊藤の姉は不思議そうな顔をした。だってあんたたち友達なんでしょう?
 友達。友達だって。天辺にして孤高の存在である伊藤の姉の口からそんな単語が出てきたこともお笑い草だが、自分たちが彼女にそんなふうに見られていたことが予想斜め上すぎて桜井は目を白黒させた。桜井が、伊藤とよい友達になれるかもしれないなどと淡い期待とバカな勘違いをしたのはもうずっと前のことだ。殺し合い一歩手前のような喧嘩も何度もしたし、伊藤に怒ったり呆れたりするのも桜井には日常茶飯事だった。しかし結果的に協力や助け合いになることも同じぐらい多かったし、伊藤さえバカなことをやらかさなければ、桜井としては一緒にいるのは苦痛というほどではなく、調子のいい日ならむしろ気の置けない友達同士のように楽しく過ごすことだってできた。どうにも桜井は負の感情を持続させることが下手で、どれだけ伊藤姉弟に振り回されても、彼らを憎み切ることができなかった。どうしようもないお人よしだった。
 それでも好きか嫌いかで語るなら桜井は伊藤が嫌いだ。少なくとも友達では、ない、と桜井は思う。頼られると弱い桜井は伊藤の姉の言葉をスッパリと突っぱねることはできなかった。でも友達は友達の靴を海に捨てたりしない。じゃあ俺たちの関係はなんだ?
 なあ伊藤俺はさ。
 俺は、バカバカしいって思いながらいつもおまえに付き合う自分が嫌いだよ。だっておまえはいつだって自分に正直に自由に生きてるくせに、本当は何がしたいのか全然わからないから。やりたいようにやってるように振る舞うくせに、本当は満足してないような顔するから。
 結局のところ、桜井が伊藤のことを真に鬱陶しく感じるのはそういう瞬間だった。
「おまえ俺のこと好きなの?」
 だしぬけに伊藤が真顔でそんなことを言うものだから、桜井は全力で「はあ?!」と返してしまった。何をどう勘違いしたらそうなるというのだろう。真逆の言葉と真逆の思考であったはずなのに。桜井は目の前の男の思考回路の意味不明さに恐怖すら覚えた。桜井のその反応に伊藤は少し気分がよくなったのか、ニヤニヤ笑い始めた。
「だってずっと俺のこと見てるし」
「ふざけんな死ねボケ」
「死なねえし」
「じゃあ殺してやろうか」
 嘘みたいに短絡的だった。伊藤はバカにしたように鼻で笑った。桜井は伊藤のその笑い方が大嫌いだ。ついにカッとなった桜井は伊藤の首筋を掴んでその勢いで床面に倒した。ゴツッと伊藤の背中がぶつかった音が響く。桜井は伊藤の喉仏の骨の感触をてのひらに感じた。伊藤の顔に桜井の影が落ちる。そりゃあマジで殺す気なんてないがそうしようと思えば絞め殺すことだってできる、と伊藤を睨みつけながら桜井は思った。けれど伊藤は抵抗や動揺するどころか驚いた素振りさえ見せず、むしろ瞳はおもしろいとでも言いたげに楽しそうな色で揺れている。桜井の体温は上がった。
 ああマジでむかつく。なんで優位に立ってるはずの俺のほうが余裕ねーんだよ。おまえさ、こんな状況でも俺のことなんてすぐどうにでもできるって思ってんだろ。だからそんなに余裕こいてられんだろ、俺のこと弱いって思ってんだろ見下してんだろバカにしてんだろ俺がどんくらいおまえのこと嫌いかしらねえんだろ、
「できねえくせによお、」
 少しだけ力を込めた指先の下で喉が動いた。低い、かすれた声でそう言って嗤う伊藤のことが桜井は心底嫌いで、だから桜井は伊藤に今すぐ消えてほしいと思うけれど、それは事実なのだけれど、悔しいことに伊藤が正しかった。桜井は泣きたくなった。
「おまえが消えたって俺の世界はなんも変わんねえよ」
 桜井が吐き捨てるようにそう言うと、伊藤は素早く力強く桜井の首筋をガッと掴み返した。親指は的確に喉仏にひたりとつけられている。いきなりの反撃に桜井は思わず息をつめた。ひゅ、と喉が鳴って心臓が生き急ぐ。「それは俺も同じだっつーの」そう言って伊藤がまた笑った。桜井の指の先の首筋は熱を持っていてその熱は鬱陶しいほどに生きていると自己主張する。これ以上力を込めることもかといって放すこともできないまま、ただ互いの首を掴み合って殺し合いの真似事をする。俺たちこれ以上どこへもいけないのにな。そう思ったらひどく、くすぐったい。(できねえくせによお、)そう言って笑った伊藤の顔を思い出したらなんだか胸が痛くなって動けなくなった。


Thanks たつる!