ストーンインハート

2020年に発行された足立透嘔吐アンソロジー「RE:BIRTH」に寄稿した「ストーンインハート」の再録です。





 足立が菜々子を見かけたのは辰姫神社の前だった。日が落ちかけていて辺りはうっすらと暗くなり始めている。背を向けた菜々子は鳥居の前で何か考え事をしているようだった。待ち合わせでもしているのだろうかと考える。神社の前は人通りも少ないし、小さな女の子一人にしておくには不安な場所だった。秋口の風は体も冷やしてしまう。
「菜々子ちゃん」
 声をかけてみると、菜々子は驚いたように振り向き、相手が足立だと気づいて嬉しそうに笑った。自分と遭遇してこんな反応をするのはこの子ぐらいのものだと足立は思う。
「こんにちは! 足立さん、お仕事中?」
「まあねー。菜々子ちゃんはこんなとこで何してんの? まだ例の事件も解決してないんだし、遅い時間に一人歩きは危ないよ」
 菜々子は足立の問いに眉を寄せた。「えっと、えっとね……」と言葉に詰まり、困ったように自分の影を見つめている。菜々子にしては歯切れが悪かった。
「……なんか元気ないよね? どうしたの?」
 尋ねるべきかどうか迷って、結局聞いた。
「あのね、菜々子ね、今日学校でお友達とけんかして、ひどいこと言っちゃったの……」
 菜々子は沈んだ声でそう言う。この子も友達と喧嘩したりするんだ、と足立は意外に思った。足立は年上の輪の中にいる菜々子しか知らないが、もちろん彼女にも同世代のコミュニティがあるし、そこには足立の知らない年相応な菜々子がいるのだろう。
 それで、神頼みでもするつもりでここにいたのかと足立は鳥居を眺めた。お願い事が叶うとか、そんな噂があったような気もする。
「菜々子、なんであんなこと言っちゃったのかな。神様にお願いしたら、仲直りできないかなあって、思って……。それか、タイムマシーンとか、魔法があったらいいのに。そうしたら、時間を戻して、けんかなんかしないようにするのにな」
「時間は巻き戻せないんだよ。どんな過ちも、なかったことにはできない」
 思わず口をついた言葉に、思い切り突き放すような響きがあったことに気づいた足立が慌てて菜々子を見ると、泣きそうな顔と目が合った。今にも涙の零れ落ちそうなその表情を見て、ああ失敗した、と足立は思った。さすがに大人げない発言だった。いくら幼いとはいえ菜々子だってそんなことができないことぐらいわかっているだろう。この子が欲しいのは正論ではないのだ。
 足立は、この善良な少女が後悔している姿を目の当たりにした自分が、なぜだか想像以上にショックを受けたのだと気づいた。あんな突っぱね方をするつもりは本当になかったので、少し迷ってから、菜々子の頭にそうっと己の左手を置いた。ぴくりと指先に震えが伝わってきたが、菜々子はされるがままおとなしくしている。菜々子の反応を見るのがなんとなく躊躇われて、足立は鳥居の方を見つめながら言葉を続けた。
「……えっと、だからさ、ごめんなさいして、仲直りすればいいんだよ。大事なお友達なんでしょ? そうすればきっと、相手の子も菜々子ちゃんのこと許してくれるし、もしかしたら前より仲良くなれるかもしれない。喧嘩をなかったことにするより、ずっといいよ」
 さらさらとしたやわらかい髪をひと撫でするようにして手を離す。触れていたのはほんのわずかな時間だったけれど、子ども特有の高い体温が足立のてのひらに残る。結局、目をそらし続けるのも気まずくて菜々子の方にちらと視線をやってしまった。すると、菜々子は先ほどまでとはうってかわって、光り輝くような笑顔を見せていた。
「うん……うん! ありがとう、足立さん! 菜々子、明日、ごめんなさいしてみる!」
 心底嬉しそうな菜々子を見て、フォローがうまくいったことに安堵した。上司の大事な一人娘を泣かそうものなら後で何を言われるかわかったものではないし、足立個人としても、できれば菜々子の涙は見たくなかった。それが後悔という感情からくるものならばなおさらだ。実際に時間遡行の能力があったなら、喧嘩の前に巻き戻してあげたかもしれない。
 風が吹くと鳥居の奥からざわざわと葉が揺れる音がする。足立は心の中で舌を出した。菜々子ちゃん、神様なんてきっとろくでもない野郎なのさ。
 足立には常人にはない能力がある。突然ポンと与えられたそれで、試したことがなかったわけではない。しかし、いかに足立が手にした力が未知なる異形の力といえど、時間を移動することはついぞできなかった。
 ――もし時間を巻き戻せるのなら、自分はどこに戻りたいだろう?
 「早く明日にならないかな」と菜々子が隣で笑っている。


 酔いつぶれた堂島を家に送り届けることにも慣れてきた。酔った堂島に肩を貸すと容赦なく体重を預けられるので、体格差のある足立にはつらいものがある。それでも暑苦しい夏よりは今の季節の方がまだましだった。堂島宅の玄関では堂島の甥である月森が出迎えてくれたので、なんとか二人がかりで堂島を寝床に転がすことができた。
「はー酒くさ……のんきなもんだよ」
 すっかり寝てしまった堂島を見下ろして一息つく。月森は手際よく堂島のシャツの首元を緩めて布団をかけながら、足立に丁重に礼を言った。
「いつもありがとうございます、足立さん。よかったらうちで一休みしていってください」
「ああ、じゃあお言葉に甘えてお茶でもいただいてから帰ろっかな」
 茶を飲むジェスチャーをする足立を見て月森はうなずき「菜々子はもう寝てますが、のんびりしてもらって大丈夫ですよ」と促した。
 堂島の酔い方がひどくなっていることに月森は気づいているだろうか。
 堂島は足立と知り合った当初から酒癖がいいとは言えなかったが、最近はそれに輪をかけて外で酒を飲むとなるとつぶれるまで飲んでばかりだ。はたから見ている足立には堂島がどこか自暴自棄になっているように思えたし、実際のところ、解決の目途が立たない連続殺人事件のことが飲酒量にも影響しているのだろう。
 足立が居間の卓袱台のそばに腰を下ろすと、月森は慣れた手つきで湯を沸かし始めた。
「緑茶とコーヒーどっちがいいですか?」
「あー……じゃあお茶で」
 足立の座った場所からは、缶ビールの空き缶をまとめたゴミ袋が見えた。堂島が飲んだものだろう。足立の視線の先に気づいた月森が「お酒がよかったですか?」とたずねた。
「いやいいよ。飲み直す気分でもないや」
「そうですか。物欲しそうな顔してたのでてっきり」
「言い方! ……ねえ、君ってお酒飲んだことある? 内緒にしててあげるから正直に言ってみなよ」
「仮にも警察官の足立さんには言えませんね。俺のこと逮捕する気ですか?」
「仮にも、って君ねえ……ていうか何その反応、さては飲んだことあるんでしょ? 別に説教したりしないよ、堂島さんじゃあるまいしさ」
「あはは、思わせぶりに言ってみただけですよ。飲んだことはないんです。うちの両親は家でお酒飲まなかったから、触れる機会もあんまりなかったですしね」
「ふうん、そうなの。じゃあはじめは酔っ払い相手にびっくりしたんじゃない? 堂島さん、今日みたいにつぶれて帰ってくること多いでしょお」
 湯が沸き、湯気でやかんの蓋がカタカタと鳴った。月森は火を止め、茶葉の入った急須に湯を注いだ。
「そうですね、最初の頃は慣れなかったです。叔父さん普段はしっかりしてるのに、こんなふうになるのかって……。俺より菜々子の方がよほど頼りになりましたよ。おかげさまで、俺も酔った人の介抱にだいぶ慣れましたけどね」
「ははは、今は家に帰ったら君がいるからって、安心しちゃって余計にお酒が進むんじゃないの? 面倒でしょ、大変だねえ」
「そんなふうに考えたことなかったですけど……これも心を許してもらってる証なら、ちょっと、嬉しいような気がしますね」
「ふふん、いい子チャンの回答だね。酔っ払いの相手なんてろくなもんじゃないのにさ」
「そうかもしれませんね。俺はうちに帰ってきてからの足立さんたちしか知りませんけど、飲みの席だと、足立さんも叔父さんに気を遣って、酔い過ぎないように量をセーブしちゃったりするんじゃないですか? 叔父さん、足立さんからしたら上司だし、いつもこうして送ってくれるじゃないですか。……はいどうぞ、お茶入りました。熱いですよ」
 なるほどそれでさっきは酒を勧めてくれたのかと思いながら足立は湯呑を受け取った。
「ありがと……あーまあ、そうかもね。こう見えて社会人だしね、僕も。上司様より先に潰れるわけにもいかないの」
「……うちなら、足立さんが酔い潰れてもちゃんと俺が面倒みますから。だから、うちに来てるときぐらいは好きなだけ飲んでくださいね。叔父さんもきっとそう思ってると思いますよ」
「うーん気持ちはウレシイけどねえ。堂島さんにはあんまり酔ってダメになってるとこ見られたくないかな……うっかりボロ出して余計な説教されそうだしさ。それに僕は人前で深酒するの好きじゃないんだよ、もっと若い時はそれで失敗したこともあるし。何事も程々が一番」
「へえ、足立さんどんな酔い方するんですか? 気になるな」
「面白がるんじゃないよお、まったく」
「お酒飲むと記憶無くしちゃうタイプだったりするんですか?」
「いや、そんなことないかなあ。吐いたり二日酔いになったりしても全部覚えてる方だよ」
 月森は湯呑から立つ湯気をじっと眺めている。
「俺の両親は飲むと決めたら泥酔するたちで、酔ってる間の事をいつもほとんど覚えてなかったから、大人はみんなそうなんだと思ってました。嫌なこと忘れたくて飲むのかなって。実際、そういう酔い方してるときって、つらいことがあったんだろうなってときばっかりだったし」
 足立は茶をすすり、肩をすくめた。
「なんだかあんまりいい飲み方じゃなさそうだねえ。んな便利なもんじゃないよ。記憶なくすったって、あくまで酒が入ってる間のことだけでしょ。そこまで酩酊すんのはあんまオススメしないね……。君や僕みたいにこうして迷惑被る人間が必ずいるわけだから。君もねお酒飲むようになったら早めに自分の限界は見極めといたほうがいいよ。親しい人が同席してるときにでも一回試しとくことさ」
「なら足立さん。いつか。俺が大人になったら、そのときは一緒に飲んでくださいね」
 月森は妙に真剣な目をしていた。他愛のない世間話に過ぎない会話に似合わない、射るような視線だった。
 親しい人に頼めって言っただろ。足立は居心地の悪さを振り払うように「それこそ堂島さんに頼みなよ」と、笑ったふりをした。そんな約束ができるはずもない。月森は望んで酒を酌み交わしたい相手ではないし、むしろその対極の存在だ。足立にとっては、酔っているような姿を本当に見られたくないのは上司の堂島よりも今話しているこの月森だった。何より、月森が成人する頃の未来のことなど考えたこともなかった。未来どころか明日のことすらも億劫で、最近は、過ぎてしまったもののことばかり考えていたような気がする。
 足立に曖昧にかわされたことが伝わって月森は不満げな顔をした。大人びたしっかり者という印象の月森のそういった表情を見る機会は少ないので、足立は少しばかり愉快な気持ちになった。そのことも伝わったのか、月森はさらに唇を尖らせた。
「足立さんの意地悪」
「ふはっ何それまさか菜々子ちゃんの真似? 全然可愛くないんだけど。ちょっと急にやめてよねえ、湯呑落としかけたじゃん、火傷しちゃうよ」
「……本当に意地悪だ」
 どうやら本当に少し拗ねてしまっているようだった。それでもその誘いにうなずきたくはない。どうしてこの少年がそんなに自分と酒を飲みたがるのかわからず、足立は内心ため息をつく。菜々子と違って、素直に懐かれているという感じでもないし、よくわからない。大人になったら一緒にお酒を飲みたいだなんて、言っていること自体は可愛いような気もするが、目線の鋭さとのアンバランスさも相まって何を考えているのかまるでわからず、足立にはただ不気味なだけだった。それに、足立は、何があってもこの少年とだけは未来に関わる約束などしたくなかった。
「足立さん。足立さんは俺のこといい子って言ってくれますけど、俺、お酒を飲みたいなと思ったこと、ないわけじゃないンです」
「あらら。そりゃ、なんというか、意外だね……?」
「一人っ子だし、欲しいものを諦められない性分で。本当はワガママで、全然いい子なんかじゃないんです……俺」
 彼は笑っていた。そんな打ち明け話をされたところで、足立からすれば、彼はいつも仲間に囲まれていて、どこに出しても恥ずかしくない完璧な高校生に見える。何の話だよと思いつつも、そんな忌々しい彼が、いったいどんなときに飲んだこともないはずの酒を飲みたいなどと思うのか気になった。はじめて弱みをさらされたような気がする。けれども掘り下げる気にもならず、まだ熱い茶を無理やり飲み干して湯呑を置いた。有無を言わさず話を切ることにする。
「一服させてもらったし、僕はそろそろおいとまするよ」
 月森は足立を止めなかった。
 最初の角を曲がる前に一度振り返ってみると、堂島家にはまだ明かりがついていた。今頃、堂島は赤い顔でいびきをかきながら寝ているだろうか。菜々子はすこやかに眠っているだろうか。いい夢の一つでも見ているだろうか。そうであればいいと思った。月森は、一人まだ起きているのだろうか。
 成人してさらにたくましくなった彼や、少ししわの深くなった堂島や、もっと大きくなった菜々子と、この八十稲羽で、たとえば花見でもしながら酒を飲む自分。
 有り得ない。
 それでも、その風景を簡単に想像できてしまったこと――桜の花びらの舞う中で酒を飲む想像上の自分が笑っていたことを、もっと「有り得ねえ」と思った。大した量を飲んでいないはずなのに、吐き気がした。


 体調が思わしくない。
 先日、酔った堂島を家に送ったあたりからだ。なんとなく胸がムカムカすることが増え、風邪でもひいたのかと思うが、どちらかというと症状的には二日酔いに近い。漠然とした気持ち悪さが続いていて、気分は最悪だった。
 堂島は足立の不調に気づき始めていて、眉をひそめて「おいおい、体調管理も仕事のうちだぞ、しっかりしろよおまえ」と厳しいことを言いながらも、普段より少しだけ態度がやわらかい。差し入れられた缶コーヒーに堂島なりの気遣いを感じたのがくすぐったくて、ごまかすように「えぇー、どうせならもっと胃にやさしそうなもんくださいよお」と足立が軽口を叩くと頭をはたかれた。「ちょっとお、頭も痛いんですからね!」と文句を言ったものの、不思議と堂島に叩かれたところはその勢いほど痛まなかった。堂島が選んだコーヒーはいつもの銘柄より甘いものだった。
 足立は知っている。一向に進展しない捜査のせいで、堂島も帰りが遅い日が続いている。菜々子はきっと寂しがっていることだろうが、賢いあの子は父親を困らせまいと耐えているに違いない。睡眠不足のせいで普段以上にとっつきにくくなっている堂島の目つきの悪さを、足立はいつものように茶化せずにいる。誰のせいで事件が解決しないのか、堂島も菜々子も知らないのだ。勢いよくコーヒーを飲み干すと、胃が重くなった。
 退勤するときも気分はすぐれなくて、足立はうんざりした。それでも日々は続いていくし、食欲がなくても何かを腹に入れなければ体がもたない。一昨日はカップ麺だったし、昨日は億劫で食べてすらいない。カラに近いはずの胃は重く、胸の奥の方が鈍く痛むが、さすがに今日も食べないのはまずいだろう。今日は適当に惣菜でも買おうとジュネスに立ち寄ることにした。この時間なら半額になっているかもしれない。
 ジュネスの惣菜売り場ではいつもの音楽が流れている。エブリデイ・ヤングライフ・ジュネス。こちらに赴任してきた頃は店内音楽など意識して聴いていなかったが、菜々子がよく嬉しそうに歌っているから覚えてしまった。消化によさそうな弁当を適当に手に取る。エブリデイ・ヤングライフ・ジュネス。口ずさみそうになっていたことを自覚した瞬間、胸のあたりがねじられたような感覚を感じて、思わず立ち止まった。なんなんだ、これは。
「足立さん?」
 聞いたことのある声に名を呼ばれ振り向くと、月森の友人である少年が立っていた。花村陽介。ジュネスのエプロンをつけているところを見ると、アルバイト中だろうか。足立がこうしてジュネスで花村と出会うことは珍しくない。振り向いた相手が予想とたがわなかったことに安堵した花村は「やっぱりそうだ! こんばんは~、や、いらっしゃいませかな。晩メシ選びっすか」と言って笑顔を見せた。顔見知りを見つけてわざわざ挨拶するなんて律儀だなあと思いながら、足立は「あぁ、ドーモ」と適当な返事をする。すると、笑っていたはずの花村はすぐに不思議そうな顔に変わり、足立に駆け寄った。
 うわ、なんでこっちに来るんだ、この子。と足立は一歩ひきかけたが、花村が傍に寄る方が早かった。
「足立さんどうかしたんスか?」
「どう……って?」
「なんか、顔色悪いですよ」
 あぁそういう話ね、と足立は納得した。通りすがりの花村に心配されるほど体調が顔に出ているらしかった。そうだよ、だから君と話すのも億劫なんだよ、と心の中で思いながら花村に笑いかけた。
「あぁーわかる? なんか風邪気味でさぁ。季節の変わり目だからかな? 堂島さんにも怒られるし、ヤんなっちゃうよ。今日はなんか弁当でも買って帰ろうかな~って」  こんな道化じみた話し方が板についてしまったのはいつからだろう。
「うわ大変スね、季節の変わり目っすもんね。足立さん一人暮らしですよね? 家に薬とかあります? たぶん知ってると思いますけどドラッグストアのコーナーはあっちの角んとこなんで。えーと風邪ってネギがきくんでしたっけ? ネギならたしか今日安いんですけど、それとも大根だったかな、相棒に教えてもらったことあったはずなんだけど……」
 うーんと一人で考え込み始める花村を見て、足立は不思議に思った。なぜ、今、自分は彼に心配されているのだろう。
 やさしい子なんだよな、と思う。
 足立は、花村に対して意地の悪いことを言おうと思えばいくらでも言える自信があった。君のやさしさってさ、人のためじゃなくて自分が傷つかないためのものだよね。いいひとだと思ってほしい、嫌わないでほしい、自分にもやさしくしてほしい。そういう保身が透けている。だから見当はずれで空回りしがちなんだ。君はしょうもないおちゃらけた人間のように見えるけれど、お調子者のようなことを言いながらも周りをよく見ていて、人の変化に敏くあろうとしているね。うんうん、いいところだと思うよ。僕なんかの体調不良にも気づく。スゴイスゴイ。誰がどういう状態で何を考えているのか、わかってあげようとしているね。でもそれは怖いからだ。怒らせてしまうことも悲しませることも失望されることも怖いんだよね。君は自分に自信がないから、そうさせてしまうと人は離れていくと思ってる。やさしくするのは、人の傷に寄り添おうとするのは、恩を売りたいからだ。安心したいんだね。だけどそういうのって見抜かれるよ。そして厭われたり、侮られて利用されたりする。そのままじゃ都合のいい人間にしかなれないんだよ。
 それでも、花村のそれは、すべてが打算や無理から生じるものではなかった。傷つくのも傷つけるのも怖がるような臆病なところがあるくせに、ちゃんと勇気を出して誰かのために手を差し出せる子だった。守りたいもののためなら自分が傷つくことをあえて選ぶこともある子だった。相棒と呼んで背を預ける相手のために、一生懸命に駆け出せる子だった。
 風邪によいものを思い出せず、スマートフォンを取り出して検索まで始めようとした花村をやんわり止める。
「たしかネギだった気がするなあ。喉に貼るとか言うよね。いや、巻くんだったかな?」
「えっ喉にネギを?」
「あれ? その話じゃないの?」
 花村のような子が報われる世の中であるべきなんだろうねと足立も素直に思える。そしてかつての自分もたしかにそれを望んでいたはずなのだ。努力に、やさしさに、意味がある世界でありますようにと。それなのに彼を阻んでいるのが他でもない自分である今の状況は笑える。
 足立は青臭さのかたまりのようなあの捜査隊の面々に自分のことを理解してほしいなどとは微塵も思っていないが、花村はもしかしたら自分に共感する可能性があるかもしれないと感じた。自分の意思に関係なく田舎に飛ばされ、退屈で先行きの見えない環境に不満を持って。自慢できるような取り柄もなく、ヘラヘラと笑って周囲をやり過ごして流されて。何か面白いことが起きないか、何かのきっかけで、英雄になれたりしないものか……九回裏二死満塁で大逆転サヨナラホームランを打つような空想ばかりを膨らませて、日々を持て余して。自分なりに頑張っているはずなのに、思うように報われないことに漫然と苛立って恨むべき何かを求めて。花村と足立は似ていた。そこに、ペルソナというトンチキな力を与えられたことも、同じなはずだった。それが今となっては事件を追うものと、事件を起こし追われるものの関係である。
 ならば、何が違ったのだろう。
「へへ、じゃあ、ネギ買って帰ってくださいよ」
 何も知らない花村は、こうして足立にも笑顔を向ける。ちょっと間の抜けた刑事さん、相棒の家族の同僚、その程度の認識の足立相手にも気を配ってくる。彼が体調を心配する足立こそが、恋した女を死に追いやった犯人だと知ればどんな顔をするだろう。さすがの花村でも、もう二度とこんなふうに気を許した顔を向けてはくれまい。この心優しい少年は、どんな顔で人を憎み、どんな言葉で人を罵るだろうか。厚意を裏切られた気になって、怒り狂うかもしれない。こんな身近な人間が犯人だったことに絶望するのが先かもしれない。どうして足立がそんなことを、と悲しむかもしれない。自分に似た境遇の人間の犯行だったことに、何を思うだろう。
 ひととおり彼の反応を想像してみたものの、それに対して悲しいだとか申し訳ないなどとは思わなかった。思えなかったことに、それなりに驚いた。やさしさが返ってくると信じているから、そうやって勝手に振り回されるんでしょ。思うとおりにならなかったらこっちのせいにして、疲れるんだよねそういうの。どいつもこいつもさ、誰もやさしくしてほしいなんて頼んでないじゃん。心の中で呟く。
 足立がそんなことを考えているとは知らない花村は、何かを思いついたように「そうだ」と言った。
「足立さん、トクベツっすよ。本当はあと十分ぐらい後なんですけど」
 花村は小さな声でそう言って、足立が持っていた弁当に半額表示の黄色いシールをこっそりと貼る。足立は目を丸くした。
「皆には内緒で!」
 そうして花村は立てた人差し指を口元に当てて笑う。手慣れた仕草は商売人のそれで、客に特別感や優越感を与えるためのよくある手口だ。本当は何度もやっているのだろう。常習犯という単語が足立の脳裏をちらつく。
「君、思ったより悪い子だね」
 かたい顔をつくってそう言ってやると、後ろめたさはあるのか、花村はなんとも言えない顔で笑った……笑おうとしていた。喜んでもらえなかったと思ったのかもしれない。やる気のないように見えても足立は警官だ。こういうズルは許せないタイプだったろうか、余計なお世話だったかと花村が悶々としていると、ぷはっと足立がふきだした。
「絶え間なく口元ムズムズさせちゃってさあ、焦りすぎだって。ジョーダンだよ。ありがとうね」
 それを見た花村は大げさにうずくまってみせた。
「あー焦った~! 足立さん怒ってんのかと思って、俺、逮捕されんのかも? って考えちゃいましたよ」
「大丈夫、ちゃんと内緒にするよ。僕らは共犯だね」
 共犯という言葉には反応せず、花村は立ち上がってエプロンの裾の埃を軽く払った。聞こえなかったのかもしれない。
「俺そろそろ戻ります。引き止めてすんませんでした。お大事に」
 軽く頭を下げた後、駆けるように立ち去っていく花村の後ろ姿を、見えなくなるまで足立はなんとなく見つめていた。
 足立は、弁当に貼られたシールを無意識のうちに爪でかりかりとひっかいていた指を眺めて、爪が伸びたなと思った。花村はシールをしっかり押さえなかったのか、少しひっかいただけで端が簡単に浮いて、今にも剥がれそうになった。
 このまま剥がして捨ててやろうかな。
 別に、ジュネスの弁当ごとき半額だろうとそうでなかろうとどうでもよかった。大した違いでもない。こんなことぐらいでやさしいことをした気になっている花村の自己満足に付き合うのも癪な気がする。こんなゴミみたいな半額シールなんかよりはるかに長大な内緒話が、僕らの間にはあるだろう?
「エブリデイ・ヤングライフ・ジュネス……♪」
 中途半端に剥がれかけたシールの粘着面を指の裏に感じる。胸の内側に感じるムカムカが吐き気に変わりはじめていて、ゴクンと大げさに唾を飲み込んでみた。
 あの子も、僕のことを自分と似たものだと思っていたりするのかな。
 意味のない想像だった。「トクベツっすよ」と笑ったあの顔を台無しにするためだけに、何もかも白状してしまいたいような気がした。


 ジュネスから帰宅後しばらくして、月森が足立の家を訪ねてきた。脱いだ靴をきちんと揃えて上がり込んでくる月森を、スウェット姿の足立がじとっと睨む。
「急に何かと思ったじゃん。居留守使おうかと思った」
「開けてくれてよかったです」
「君がでっかい声で『足立さん! 足立さーん!』つって呼びながらドア叩くからだろ? ご近所の人に何事かと思われるから! てか実際お隣さん出てきちゃってたろ、気まずいよこれから、本当に何してくれてんのさ……」
「電気ついてるし、陽介から足立さんの体調が悪そうだったって聞いてたんで、もし中でぶっ倒れてたらまずいなと思って」
「まずいなと思って、じゃないよ、もー」
「すぐ帰りますから」
 どうも月森は足立を見舞いに来たらしかった。足立とのやり取りのあと惣菜売り場を離れた花村は月森にも出会い、足立の話がそこで出たのだという。だからって心配してわざわざくるか? そんな間柄か? と足立は面食らった。少なくとも足立はそんなつもりはない。どいつもこいつもいい人選手権にでもエントリーしているんだろうか。おしゃべりなあの子、余計な話してくれちゃって、とここにいない花村を恨む。選手権のポイント稼ぎは足立と関係ないところでやってほしいものだった。なにせこの少年は弱っているときにツラを拝みたいような相手ではないのだ。恨みがましい視線に気づいているのかいないのか、月森はいつもどおりの涼しい顔をしている。
「土みたいな顔色じゃないですか。ジュネスの弁当なんか食べてちゃ治るもんも治りませんよ」
「『なんか』って君……花村くんが聞いたら悲しむよ」
「はいこれ、どうぞ」
 月森は鞄からタッパーをいくつか取り出してテーブルの上に並べた。疑問符を頭の上に飛ばしている足立に気づいた月森は「体にやさしい系のおかずですよ。チンして食べてください」と言った。足立の疑問は余計に深まった。タッパーの色とりどりの蓋と月森を見比べながら尋ねる。
「……こんなもんわざわざ持ってきたの? え、手作り?」
「『こんなもん』って足立さん……俺は悲しいですよ」
「何なのマジで……」
 状況的に仕方なく招き入れた月森の用事はどうやらそれだったらしい。君は母親か何かか、と足立はあきれた。月森の手料理は堂島家で何度か食べているし、おいしいことも知っている。月森のことは苦手だが、正直、差し入れはありがたかった。
「あー……ありがとうね。メシ準備するのもダルいから、助かったよ」
「はい」
 一応礼を言った足立を月森は黙ったままじっと見つめている。
「何?」
「え? 食べてくださいよ」
「あ、今?」
 月森はうなずく。足立が食べているところを見届けたいらしい。食べたら帰るだろうと思い、内心ため息をつきながら足立は「わかったよ」と言った。月森は満足したように微笑んでみせると、テーブルの上のタッパーを一つ一つ指さしながら中身を説明しはじめた。
「ピンクい蓋のやつがおかゆです。その青いのがロールキャベツで、黄緑のと黄色いのは冷蔵庫に入れてれば明日も食べられると思うんで」
「こんなに、僕のために作ったわけ?」
「俺らの晩御飯の残りもあります」
「あ、そう」
 選んだタッパーを電子レンジに入れる。どのぐらいあたためればいいのかよくわからないので適当にボタンを押した。テロリ♪ とメロディが鳴り、タッパーを乗せたレンジ皿が回り始める。
「…………」
「…………」
 居心地悪ッ……なんだこの時間、なんか話せよ! と回転するタッパーを眺めながら足立は思った。月森は何をするでもなく、従順に立ったまま足立の様子を眺めている。あたため残り秒数のカウントダウンが妙に遅く感じた。
 いつもは二人の間に菜々子がいるから会話に困らないのに。足立は菜々子という存在のありがたみを改めてかみしめることとなった。そうだ、菜々子といえば……と足立はタッパーから月森の方へ視線を向け、目の合った月森に話を投げかける。
「君さ、時間を巻き戻したいって思ったことある?」
 足立の突拍子もない問いかけに、月森は目を見開いてから数度瞬きをした。口は薄く開いている。思ってもみない反応が返ってきて、足立の方がかえって動揺する。何をそんなに驚いている? これは不思議そうな顔……なのだろう。足立はこの少年の表情を読むのが苦手だった。
「そんな驚くこと? 他愛もない話題でしょこんなの」
「……ああ、すみません……足立さんがそういうSFな話するの珍しいなあって思って」
「この前菜々子ちゃんが言ってたんだよ。友達と喧嘩したからタイムマシーンでやり直したいとかなんだかそういう話をさ。それを思い出したの」
「ああ、聞きましたよその話。足立さん、菜々子のことうまく慰めてくれたみたいですね、喜んでましたよ……仲直りできたみたいです。今度足立さんに会ったらお礼言うんだって、張り切ってました」
「あぁそう? たいしたことじゃないから気にしないでいいのに。律儀だねぇ」
 ピーッピーッ、とあたため終了を知らせるアラートが鳴った。レンジの扉を開くと、湿った熱気が部屋に流れ出た。
「真面目に相談に乗ってもらえて嬉しかったんだと思いますよ」
「ふーん……」
 微妙に居心地の悪いような面映ゆさを感じながら、あたため終わったタッパーの蓋を開ける。おかゆからはもうもうと湯気が上がった。あたためすぎたかもしれない。ジュネスの弁当についていたプラスチックのスプーンでおかゆをすくって湯気を眺めていると、不意に月森が頭を下げたので、足立はスプーンを落としそうになった。
「俺からもありがとうございます」
「いやいやなんで君にお礼言われなきゃなんないのさ」
「俺も嬉しかったんですよ」
「なんだそりゃ。妹バカ、いや従妹バカも大概にしなよ」
 嘲笑まじりに笑い飛ばしたというのに、月森が優しい顔で微笑んだので、足立はぎょっとした。今更ながら、彼が人目を惹く整った顔立ちをしていることがわかる。子どもっぽい揶揄いに大人の対応を返されたような気分になって面白くない。
 口に入れたおかゆがおいしかったのも、面白くない。
「俺だけ教えるのはフェアじゃないですね」
「え? 何が?」
「やだな、足立さんが振ってきた話題ですよ。時間を巻き戻せるなら、って」
「あ、ああ。急に話戻すね君」
 月森にはそういうところがあった。言霊使いですとでもいうような涼しい顔をしておきながら、言葉足らずのまま話が飛んだりするようなクセがある。ポーカーフェイスなのもわかりにくさに拍車をかけていた。月森は、ちびちびとおかゆを食べ進めている足立をビシッと指さして高らかに言う。
「足立さんが教えてくれたら、教えてもいいですよ」
「えぇ何それ……そんな駆け引きするほどの話、これ?」
「だって、俺が言ったらそこで話が終わりそうだったから」
 まあたしかにねと足立は思った。足立は自分の話をする気はなかったし、こうして聞き返される可能性も想定していなかった。この少年も取り返しのつかない何かに後悔したりすることがあるのか、興味本位で聞いただけのことだ。あたためも終わったし深追いするようなことでもない。急に何もかも面倒になった足立は、シッシと追い払うようなしぐさで手を振った。
「じゃ、聞かないし、教えない。この話終わり」
「ええー!」
 月森が至極不満そうに声を上げた。勝気な目で駆け引きを挑んだにもかかわらず、勝手にご破算にされてうろたえている。その様子に思わず「ガキ」と笑った足立に、月森はムッとした。ムッとしたが、笑った足立に結局は月森もつられて笑った。
「な、なら俺から話すから足立さんも教えてください」
「なんで? ヤだよ」
 妙に気色ばんで前のめりになる月森が笑いのツボに入ってしまい、足立は「急に駆け引きクッソ下手になるじゃん、なんなの?」とケラケラ笑う。「ケチだ!」と菜々子のような言い回しで憤る月森がまたおかしくて、しばらく笑ってしまった。すっかりむくれてしまった月森に「ゴメンね」と口先だけで謝る。
 だって本当に答えを持ち合わせてないんだよ。
 願い事が叶うなら。もしも時間を戻せたら……。
 月森は「謝るぐらいなら」と言いかけて、ぐっと口を閉じた。責めるような口調を自覚して反省したように「いえ……俺がしつこかったですね。すみません」と軽く頭を下げた。下げられた綺麗なかたちの頭を見て、コイツの謝罪も口先だけだなと足立は思った。


 月森のおかずは二日ほどもった。月森の料理を自宅で食べるというのは変な気分だったし気は進まなかったが、食べ物に罪はないし実際おいしかったので、すべてのタッパーがカラになるまで素直に食べてしまった。
 しかし体にやさしいはずのそれらも残念ながら足立を癒すことはできず、今日は慢性的な吐き気が続いている。吐いた方が楽になれそうだったが、それでも実際に吐いたことはなかった。死体でも見りゃ自動的に吐けるかもね、と自虐しても気分はよくならない。かえって気が滅入った。
 夜になってから体調はさらにひどくなった。やっとの思いで自宅に帰りついて電気をつけると、脱ぎっぱなしのシャツや溜まったゴミが散らかったままの部屋が照らし出される。ここのところは掃除をする精神的余裕がなかった。脱いだジャケットを脱ぎ散らした服の山へ放り投げる。脂汗でシャツが肌に張り付いていた。石でも飲み込んだような気持ちの悪さだ。その石を吐き出したくて仕方がないと体が訴えているのに、どうしても吐き出せない。石を飲み込んだのではなく、胸の中で石が生まれたと思う方がなんとなくしっくりきた。  効き目がないとわかっている市販の薬をがりがり噛んで無理やり喉の奥に流し込んだ。あとは……そうだ、酒だ、と足立は思いついた。酒を飲んで無理やりにでも吐いてしまえばいい。体調不良のところに酒を飲むのは気が引けたが、何もしなくても体調が悪いならどうせ酒を飲んだところで変わらないように思えた。冷蔵庫を開けると缶ビールが六本冷えていた。いつだか何かの景品でもらったものだ。プルタブを引き起こし缶のまま一気に飲み下す。
「……まっず」
 明日は久しぶりに休みだ。自分を追い詰めて、吐いて、出しきって、とっとと治してしまおう。一気に摂取したアルコールで頭がくらりとする。ところが、二缶ほど飲んだところで吐き気より先に眠気が来てしまい、足立はいつの間にかテーブルに突っ伏して眠ってしまった。


 夢を見た。


 青空の下、桜が咲いている。大きな桜の木の下に敷かれた大きなレジャーシートの上にどっかり座った堂島さんが『おまえにしてはいい場所とったなあ。何時に起きたんだ?』と笑っている。桜はまさに満開のシーズンみたいで、春風が吹くたびに花びらが雪みたいに舞った。『苦労したんすからね』と見えない誰かのおちゃらけた声が聞こえた。どこかで聞いたことのある声……自分だ。これは僕の視点で見ている夢で、口が勝手に動いて言葉を紡いでいる。自分の意思で体や言葉を操れるわけではなく、映画のように、勝手に場面が変わっていく。『堂島さァん、もうポン酒ですか? ペース気をつけてくださいよ』『うるせえ』なんてやりとりをしている同じシートの上に甥っ子くんもいて、何やら重箱を広げていた。『俺も足立さんに負けじと早起きしてこれを作ってきましたよ』と生意気な顔で得意げにしている。重箱の中にはおにぎりや唐揚げや卵焼きが彩りよく並んでいる。僕はそれが絶品であることを知っている。『よっ、待ってました!』と言うのは僕の声。もちろんここには菜々子ちゃんもいる。『お兄ちゃんのお弁当ね、菜々子も手伝ったんだよ!』と笑っている。『そーなんだ、じゃあきっとおいしいねえ』と言った僕の手が菜々子ちゃんに伸びたのが見える。菜々子ちゃんはされるがままに撫でられて嬉しそうだ。『ねえ足立さん手ぇ出して。これあげるね』と菜々子ちゃんから僕に渡されたのは桜の花びらが三枚。『ありがとう、これは?』風に飛ばされてしまいそうなそれを僕の手はそっと包み込む。『なんだ菜々子、さっきから何をパタパタやってんのかと思ったらそんなもん集めてたのか』と横から覗き込んだ堂島さんが言う。『うん! あのね、地面に落ちるまでの花びら三回キャッチできたらお願いが叶うんだって。難しいんだよ!』そう言う菜々子ちゃんの頭の上にも、舞い落ちてきた花びらが乗った。ははあ、いかにも小学生が好きそうなおまじないだ。ひらひらと踊るように空中を舞う花びらを捕まえるのはきっと大変だったろうなあ。『何お願いしたの』と僕の声が言う。菜々子ちゃんは少し頬を膨らませて『菜々子、足立さんのためにとったんだもん。足立さんがお願いするんだよ』と言った。僕の願い? 『足立にだけか?』『なんか妬けますね』とからかう堂島さんと甥っ子くんに、菜々子ちゃんは照れた様子で『お父さんのとお兄ちゃんのもこれからとるの』と意気込んでいる。『じゃあ菜々子のぶんは俺がとろっかな』と甥っ子くんが桜を見上げている。僕は花びらを閉じ込めた手のひらを開けずにいる。夢を見ているとき特有のよくわからない確信があって、あの花びらは手を開いた瞬間に手の届かないところに飛んでいってしまうことが僕にはわかっていた。勝手にペラペラ喋っていたはずの僕はさっきから何も言ってくれない。この光景を夢として見ている僕には自由はなくて、自分からは何も話せないのだ。上機嫌に徳利を傾けていた堂島さんが御猪口をのぞき込んで『お?』と呟いた。それから『ちょうどいいな。おい足立、これもやるよ』と僕に御猪口を差し出してきた。お酒の勧めかなと思っただろう僕は受け取ろうにも手を開けないので慌てていると、御猪口に注がれた日本酒の水面に桜の花びらが一枚浮かんでいるのが見えた。『俺からの桜だ』歯を見せて堂島さんが笑う。


 目覚めたとき、足立は夢のすべてを覚えていた。冷えきった汗に濡れた手は何かを握るように両の手がしっかりと合わせられていた。ずっとそうしていたかのように強張っていた手をゆっくりと開く。当然、中には何もない。
 声が出そうになった。
 あの子が――現実の菜々子が言ったのだ。来年は、足立さんも一緒に桜を見ようね。今年の夏は花火が見れて嬉しかったけど、次は皆で蛍も見に行きたいな。今度お月見団子作るから足立さんも来てね。足立さん、八十稲羽は雪がいっぱい降るんだよ。足立さんが前に住んでたところはあんまり積もらないんでしょ? 雪だるま作るの楽しいんだよ。菜々子教えてあげる。
 ねえ足立さん。足立さん。次は、今度は、来年は……そうやって、足立がいるのが当たり前みたいに、未来を、約束を望む子だった。足立のその場しのぎの返事を心から喜んでいた。
 けれども、夢に見た桜の花びら浮かぶ酒も、夏に蛍を追いながら飲む酒も、中秋の名月を眺めながら味わう酒も、炬燵を囲みながらの雪見酒も、心から楽しめるはずもないものだった。それは望んでいい未来ではなく、すべては始まる前からすでに失われているものだった。頭上を舞う桜の花びらのように、指をすり抜けて飛ぶ蛍のように、水面に揺れる月影のように、触れれば溶ける雪の結晶のように、それらは足立の手には入らない。菜々子のように桜の花びらを掴むことが、きっと一生かかってもできないのだ。
 願い事が叶うなら。もしも時間を戻せたら。
(夢の中で、夢のような景色だと、思っただなんて)
 考え事を許さないというような勢いで頭がガンガン痛んで足立は低く呻いた。テーブルに並んだ空き缶を見て、中途半端に酒をあおってそのまま寝たことを思い出す。……石がある。胸の中に石があるのだ。
 今なら吐けるだろ。そう思った足立はよたついた足取りで洗面所に向かおうとした。そのとき、台所のシンク横に積んであるタッパーが目に入った。そのうち返そうと思って、とりあえず綺麗に洗って置いていたもの。それを見たとたん、足立はどうしようもない気分になった。
「――クソ、なんなんだよ、これは!」
 自分は何を素直にこんなものをありがたがって食べていたのか。足立は荒々しく腕を振ってタッパーの山を思い切り崩した。落とされたプラスチックが床にぶつかって軽い音を立てる。破壊衝動を満たすにはあまりに味気のない音だった。まったく気は晴れない。腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ!
 頭痛は止まないのになぜか吐き気が引っ込んでしまった。足立は苛立ちに任せて床に転がったタッパーを蹴飛ばす。壁の時計は午後十一時を指していた。もっと遅い時間かと思ったが、足立が思っていたより寝ていた時間は短かった。
「返してやる」
 足立は真剣に腹を立てていた。こんなものが家にあるままだと石が大きくなる。胸の中の石が大きくなる。アルコールでどろりと濁った頭で足立はそう考えた。スーツのジャケットを羽織り、散らばったタッパーを拾い集めて適当にレジ袋に突っ込んで家の鍵だけ持って家を出た。


 ラフな寝間着姿で足立を出迎えた月森は面食らった様子だったので、それだけでも多少溜飲が下りた。
「こんな時間にどうしたんですか? 菜々子と叔父さん今日いないんですけどなんか叔父さんに用事……」
「あぁ違う違う。タッパー返しに来たんだよ」
 もっともらしくレジ袋を突き出すと、月森は目をぱちくりとさせた。
「え、それだけ? こんなの別にいつでもよかったのに」
「借りっぱなしなのは気持ちが悪い性分なんだよ」
「そうですか」
 それらしいことを言ってはいるものの、いつもと様子の違う足立に気づいた月森は「もしかして酔ってます?」と聞いた。
「そおだよ酔ってんのベロベロなの。……あぁそうだ、ねえ飲み直させてくんない?」
「うちでですか?」
「うん。そういう気分なの。いいでしょ?」
「……いいですよ。どうぞ」
 タッパー入りの袋を受け取り、月森は軽く足立を招き入れた。その無防備な背中を見つめながら、後悔させてやる、と足立は思った。なぜこうも暴力的な気持ちになっているのかわからない。とりあえず足立は靴をわざと乱雑に脱ぎ捨ててやった。こうするといつも菜々子に叱られる――だからなんだっていうんだ? 関係のない話だ。
 どすんと尻餅をつくような勢いで居間に座り込む足立を横目で見ながら、月森が酒を見繕っている。
「何がいいですか?」
「なんかキッツいのがいいなあ、焼酎とかさあ」
「叔父さんが置いてるのがありはしますけど、足立さんもう結構飲んでるんじゃないんですか? そんなん飲んで大丈夫ですか」
「いーんだよ、そういう気分なの」
「……なんかあったんですか?」
「オトナにゃそういうときがあんだよ」
 年齢差というどうしようもない距離感を示されると月森はそれ以上何も言えなくなった。そこを切り口にされると月森が言い返せなくなるのを知っていて、足立は時折卑怯な手口として「オトナ」という言葉を意図的に使って月森を突き放していた。
 月森はおとなしく徳利と御猪口を用意してそこに酒を注いだ。未成年だけれども、その姿は画になっている。夢の中の堂島の姿がゴーストのようにダブついてしまい、やめさせようと声をかける。
「チマチマ飲むの面倒だからさ、コップでいいよ。堂島さんがいたらそんな飲み方は風情がねえって怒られるけど、今はいないみたいだし……」
 適当なことを言うと月森は「そうですか」と言い、改めてガラスのコップになみなみと注いだ。足立は思わず目を細める。見ているだけで酔いが回りそうな量だった。
「ありがとね」
 コップを受け取ると、透明な水面がちゃぷんと揺れた。独特の香りが漂う。
「ねえ君さあ、いつだったか言ってたじゃない? 僕とお酒が飲みたいってさ」
 コップに口をつける。今の足立が飲むには明らかにきつすぎる酒だった。においだけでもクるものがある。どうにでもなれと思いながら、陽気な響きになるように明るい表情と声をつくった。頭が痛い。
「今なら晩酌付き合ってあげる。ほら、カンパ~イ」
 月森は、自分に向けて傾けられたコップと足立を一度見比べた後、つとめて冷静に「俺、未成年ですから」と答える。
 足立が欲しいのはそんな言葉ではない。
「『いい子チャン』が」
 あのときの揶揄とは違う強めの挑発にも月森は表情を変えない。いつもどおりの涼しい顔に頭に血がのぼる。アルコールもぐんと体を巡ったように感じた。ちったあ動揺してみろよ、僕の低い声なんて怖くもなんともないってか? なんでだよ、元はと言えば君が願ったんだろ。叶えてやるっつってんじゃん。何が不満なんだよ。ちょっとぐらいさあ、大人の言うこと聞いたらどうなんだよ。
「理屈が無茶苦茶ですよ。あなた、止める側でしょう」
 止める? 止めるってなんだろう。もうとっくに戻れないところまで落っこちているのに。誘いを断られて、足立はみっともなくいじけていた。視界がぼやける。飲み過ぎた。薬との飲み合わせも悪かった。
 胸の中で石が大きくなる。
「足立さんは酔うとこんなふうになるんですね」
「酔ってねえよ、バカ」
「酔ってるじゃないですか……」
 酔っ払いの常套句にくすくす笑う月森に思い切り腹が立った。彼女たちをテレビに落とした時ですら、ここまでの激情にかられてはいなかったかもしれない。足立は持っていたコップを勢いよくさかさまにして自分の手に酒をかけた。そのほとんどがこぼれて床を濡らしたが、足立のたなごころに少しばかり溜まった。にじんだ視界でも、足立の突然の奇行に月森が目を丸くしたのが見えた。足立は浮き立つ。そういう顔が見たかったんだ。飲まないってんなら僕が飲ませてあげよう。一生に一度だけって気分で君の願いを叶えてやるつもりだったが、嫌がるならそれはそれで一興だ。人の嫌がることをやる方が性に合っている。
「大サービスで僕が大人にしてあげるよ」
 足立はそのまま丸くくぼませた左手を振りかぶると、間抜けな顔をしている月森の口元を狙って顔に叩きつけた。
 つもりだった。
 月森のてのひらが足立の左腕をつかんでいる。足立が自分の手についだ酒は月森の口に入ることはなく、手首を伝ってワイシャツの袖にしみこんでいくだけだった。
「……だから理屈がムチャクチャですって。大人になったらお酒飲んでいいんであって、お酒飲めたら大人ってわけじゃないでしょう」
 諭すような口調が心底鬱陶しくて、手を払おうとするが、強くつかまれた左腕は動かなかった。その力強さに舌打ちをし、せめてもの抵抗として手首から先を乱暴に動かすと手に残った酒が飛び散った。
「うるせぇんだよ。酔っ払い相手に正論言うなって、堂島さんに叱られたことないの」
「堂島さんはそんな屁理屈言いませんから」
 視界が赤く染まっていると錯覚するほどに苛立つ。自分が堂島の名を出したくせに、比べられるとピリピリと全身の産毛が逆立つような気持ちになった。
「何に怒ってるのか知りませんけど、こんなことしたって、酔いがさめて後悔するのは足立さんですよ。あちゃー未成年にお酒飲ませちゃった~って、嫌な気持ちになります、きっと」
「…………」
 わかったような口をきくな。アルコールと怒りで脳がぐらぐらと煮え立つ。頭の中でこね回す前に口から言葉が出てしまう。後悔するからなんだってんだ、そんなもの、そんなものは。
 桜の花びらが視界の端にひらりと舞った気がした。
 後悔なんて。
「君に何が――」
「俺は」
 握りしめられた手首が痛む。握りつぶすつもりかと思うほどの力に、足立は顔を歪めた。
「足立さんを悪者にしたくない」
 あなたが見逃してくれるとしても、共犯者にはなれない。
 だらりと垂れている足立の指先から酒の滴が床に落ちた。……身を震わすほどのこの感情の正体はなんだろう。怒りだ。怒りに違いない。そう信じられなければ、もう生きていかれない。
 足立は、手首が外れてもいいというような挙動でつかまれた腕を無理やり振りほどこうとした。暴れる足立に月森もさすがに驚いたのか咄嗟に手を離した。手首には指の跡がついている。自分が無意識にかなりの力をこめていたことに気づいた月森は罪悪感を感じて謝ろうとした。
「足立さッ、ン」
 謝罪が言葉にならなかったのは、開かれかけた月森の口の中に足立が無遠慮に指を突き刺したからだった。ほとんど殴りかかったのに近い勢いで突き出された指が、月森の口に数本吸い込まれる。普段直接的にダメージを受けることなどない口腔内を暴かれ、月森は一瞬何が起こったかわからず動きが止まった。その隙を逃さず、足立の指はその舌を千切ろうとするかのように蠢く。
「ふ、んぐ」
 何をされているか理解した月森が慌てて足立を引きはがそうとするがうまくいかない。他人に舌を触られるのは未知の感覚で、背筋に寒気が走る。なんとかやめさせようとするが、足立はやめるどころかなるべく手全体を入れようとするかのようにより奥に突っ込んでくる。噛めば放すかと思ったが、足立の手を傷つけるのは躊躇われた。結局大した抵抗もできずにいるうち、ふいに足立が指を引き抜いた。咄嗟に月森は自分の手で口を覆ってふさいだ。なんだ? 今のは。
「あはは!」
 足立は機嫌よさそうに笑った。奇行のあとの表情とは思えない、いたずらっ子のような笑みだった。狂気どころかあどけなささえ浮かんでいる。なんなんだ? 先ほどまでの面倒な絡み方をしていた足立との表情の落差に戸惑う月森を、唾液にまみれた指でさして足立は嗤う。
「はい、飲んだ」
 てらてらと光る足立の指を見ながら、そういうことか――と月森は理解した。本当に、無茶苦茶だ。月森の舌がジンと痺れているのは、容赦なくいじくられたことに加え、足立の手を濡らしていた酒のせいだった。舌の感覚を意識してみると、感じたことのない類の苦味が舌先に残っている。
 酩酊した足立は強気な瞳をしているくせに、視線は妙に頼りなくフワフワとしていて、対面しているはずなのにどこを見ているのかわからなかった。そんな胡乱な目線が、瞬間、月森を貫いた。
「これで君も悪い子だ。堂島さんに顔向けできないネ」
 無理に飲ませようとして失敗した。それでもさらに意地になって、手に残っていたほんのわずかな酒をもっと無理な手段で飲ませてきた。普段からどこか子どもっぽさを言動に残している足立だが、これは本当に、駄々をこねている子どもレベルの行動でしかない。足立はわかっているのだろうか、と月森は思う。足立は完全に頭に血がのぼっている。さすがに普段ならここまでやらないだろう。理性を溶かして判断能力を奪う、これが酒か、と月森は納得した。
「そうまでして俺と飲みたかったんですか?」
「んん……んん? 違うだろぉ、きーみーが、僕と飲みたいって頼んだんじゃないか! すりかえんなよ」
「大人になったら、って言ったはずですけど」
「うるさいなぁ、子どもは黙って大人の言うこと聞いてりゃいんだよ!」
 支離滅裂だ。足立のやけっぱち染みた叫びを酔っ払いの戯言と判断した月森の行動は早かった。立ち上がるが早いか瞬く間に距離を詰めて足立の腕をつかみ、足立が何か言うよりも早く強い力で廊下の方へ引っ張る。よろめいて体のバランスを崩した足立は尻餅をついた状態でそのまま引きずられる形になった。
「何すんだよ! 離せコラ!」
 ドスのきいた声で怒鳴っても月森は意に介さず足立を引きずったまま大股で歩き続ける。普段は足立が脱いだジャケットに目ざとく「しわになりますよ」なんて言ってハンガーにかける月森が、今ばかりはスーツなんてどうなってもいいとでもいうようにめちゃくちゃな力で引っ張っている。立ち上がろうとしてもうまくいかず、フローリングの上をスラックスが滑るだけだ。一応は警察官としてある程度体術の心得がある足立も、細身に見える月森の思わぬ膂力にまったく抵抗できず内心焦りを感じた。
「自分が何したかわかってます? やってること完全に酔っ払いですよ。俺はともかくあなたが後悔しますよって俺止めてんのに、全然聞かないし。……足立さん、飲み過ぎたみたいだし、俺も約束を果たしますね」
「はぁ? 君となんの約束したってんだよ」
 『約束』という響きに、足立の声がとがる。月森は振り向かず力も緩めず、嫌がる足立を荷物のように引きずっていたが、ようやく足を止めた。そこはトイレの前だ。月森は足立をつかんでいない手でドアを開ける。そこにあるのは、堂島家の、なんの変哲もない洋式の水洗便所。月森はやっと足立を見た。自身もしゃがみこんで、足立と目を合わせた。普段の月森からは想像のつかない乱暴な行いをしたにも関わらず、足立の目に映るのはいつもどおりの月森の目だった。
「言ったでしょう? 足立さんが酔ったら、俺が介抱してあげますって」
「は……」
 月森は向かい合った足立の顎をつかんで口を開かせ、そこに躊躇なく自分の人差し指と中指を二本まとめて突き入れた。
「むぐうっ?」
 さきほどの足立への意趣返しのような動きだった。嫌悪感に暴れる足立を抑えつけ、月森の指は奥へ奥へもぐりこむ。生理的な苦しさで足立の目じりには涙が浮かんだ。なに、こいつ、何をしているんだ? 仕返しか?
「吐くと楽になりますよ……って、言いますよね」
 呟くような月森の声に、俺にゲロ吐かせようとしているのか! と足立の酒浸りの脳もようやく理解が追いついた。荒療治な介抱を目論む月森の指が喉の奥を目指して入り込んでいく。異物を押し出そうとして喉が痙攣するのを両者が感じた。
「うぇっ、んぶ、ぐう……っ」
 そんなことされてたまるか、という一心で月森から離れようとする足立だったが、酔いのまわった心身ともにグラグラとしてうまくいかない。逃れようと頭を動かすと脳がダイレクトにぐわんと揺れるような感覚があった。平衡感覚がおぼつかない。明らかにアルコールのせいだった。
 それなら、と不愉快な指を食いちぎってやろうと力を入れようとした途端、かえって骨がきしむほど顎を固定され大きくこじあけられる。動いたせいで月森の指の爪が歯茎にかすってタラリと血が流れた。えずきながら痛みにうめく。
 冷えた指が熱い舌をまさぐり、しなやかな指先がかたい歯列を内側からなぞっている。異常事態を感じ取った内臓が、ビグンとひっくり返るように震えたのを感じて思わず足立は目を閉じた。その後も断続的に内臓は動いている。ひくひくと目蓋が震え、生理的な涙が流れた。
 気持ち悪い。
 ずっと気持ちが悪かった。
「暴れないでくださいよ。俺も一生懸命やってるんですから」
 困ったような声を出す月森に目を開く。余計なお世話だやめろバカ! と訴えたいが、当然声にならない。えずきに混じって、声とも呼べない汚い音が上がるだけだった。じっとりと冷たい汗がにじみはじめ、内臓がせりあがってくる感覚に足立は焦った。この感覚には覚えがある。このままでは本当に、月森の手で吐かされてしまう。
 飲み下せない足立の唾液が月森の指の隙間からボタボタと垂れて顎を濡らしていく。少し酸っぱいにおいがした。
「がァ、ッ、ぶ」
 足立の鼻から鼻水が噴出した。鼻呼吸がままならなくなってしまい、息が苦しい。月森の手の隙間から懸命に酸素を取り込む。涙と鼻水と涎で顔がどこもかしこもベトベトになっていることだろう。月森の目に映る自分の顔はどんなにみっともないだろうかと思うと屈辱で脳が焼けそうだ。
「や……めっろ、うぐっ、うえっ、ぐげぇっ」
 なんとか力を振り絞って頭を振ることで一瞬だけ逃れられたが、月森は「あーちょっと、ダメじゃないですか。苦しいの今だけですから」と優しげなことを言いながらあっさりと足立を捕まえ直し、息継ぎすら許さないというようにより一層激しく足立の喉を穿った。殺す気かよ、と酸素の足りない頭で考える。
 他者に許した覚えのない、許すつもりも毛頭なかった領域である足立の喉奥を月森の指は容赦なく抉っている。そのまま内臓ごと引きずり出す気なのかと疑うほどストロークが深い。そんなえげつない行為は、まるでただの指の往復運動とでもいうようにただ事務的に作業的に淡々と行われていた。
 足立にはそれが恐ろしかった。これが、わけのわからない酒の飲まされ方をした仕返しに怒りに任せて行われる行為であればまだ納得もできた。辱める目的なら理解もできる。力任せに喉奥を突かれようが、足立のしたことを思えば自業自得ともいえよう。しかし月森はただ酔っ払いを――足立を介抱しようとする一心なのである。足立を物のように扱っているともとれる行為でありながら、何か根底に感情があるとすればそれはおそらく慈愛なのだった。
 (気持ち悪ィ)
「おぐぇ、んんん、ぶぐ、んーっ」
 いよいよ限界が近かった。酸味のある唾液が口内を満たし、背筋は痙攣し続け、内臓も喉も絶え間なく蠢き、その中身ごと異物を吐き出そうとしている。そんな足立の体の必死のうねりは月森の指先にも当然伝わっているのだが、月森はのんきなものだった。
「吐きそうになったら教えてくださいね、俺も人のそういう感覚はよくわからなくて……」
 この状態でどうやって教えればいいんだよバカなのかコイツ、ていうかおまえが出口塞いでんだよ! と足立は叫びだしたかった。月森は生憎そこまで頭が回っていなかった。足立から合図があれば、便器のところに案内してあげようと思いながら指を動かしている。そんな相手に抵抗もできずいいようにされている事実に足立の脳はスパークしそうだった。そして、終わりは訪れた。
 ごぼ、と足立の喉が一際大きく震えた。おや、と思った月森が動きを止めると、うつむこうとする足立の喉の奥から熱い塊が一気に溢れだしてくる。びしゃびしゃびしゃ、と、足立のスーツに、月森の寝間着の袖に、床に、濁った色の吐瀉物が派手に飛び散った。
「わっ」
 月森が手を引き抜くと、途端に足立は背を丸めて咄嗟に手で己の口を塞ぎ、あわよくば止めようと思ったが、嘔吐のコントロールなどできなかった。どんどん喉に逆流してくる。気持ち悪さに耐えられず足立は手を外し口を開き、ぼしゃ、と音を立てて滝のように吐いた。
「げええええェッ」
 上司の家の床に、などと考えている余裕はなかった。決壊してどんどん溢れてくる。便器まで移動など到底できそうにない。吐瀉の波が一瞬止まった。開きっぱなしの口の端から粘ついた唾液がタラ……ッと糸を引きながら滑り落ちていく。足立は床に両手をつき、床を見つめながら吐き気に耐えようとする。経験上、この感じならまだ第二波がくるだろうが、なんとか切り抜けられないものか。これ以上醜態をさらすのは御免被りたかった。はあ、はあと荒く大きい息を吐く足立の肩が頼りなく上下に揺れた。歯茎の傷に胃液が染みて痛む。自分の吐いたものからたちのぼる饐えたにおいが余計に気分の悪さを煽り、ツンと刺激をうけた目から出た涙が吐瀉物の上にパタパタと落ちていった。
 月森はあっけにとられていたが、我に返って、足立の背中をさすり始めた。元凶にそんなことをされたくなかったし、自分が出したものとはいえその手は吐瀉物まみれなので、触んなと払いのけたかったが、もうそんな力も残っていない。足立の鼻は詰まったままなので、喉をひゅうひゅう鳴らしながら精いっぱい酸素を取り込んだ。
 機械的に他人の喉を抉って吐かせた手と同じとは思えないほど、足立の背中をさする月森の手つきは優しかった。
「いやー間に合いませんでしたね、トイレ入るの……。なんか俺、もらいゲロしそうです」
 間の抜けた台詞に、本当に殺すぞと思いながら足立は必死に呼吸を整え続ける。しかし、その努力もむなしく、ぐ、とまた喉が震えた。だめだ、また吐く。
「あ」
 足立の吐く予兆を今度こそ感じ取った月森は、咄嗟に足立の口元に手を差し出した。それに足立が驚く間もなく、口から胃液まじりの吐瀉物が溢れだし、その手を汚した。
「あ、あーっ、はあっ……」
 唖然としながら足立は目の前のものを見つめた。月森のてのひらは足立の吐いたものを受け止めている。ピアニストですと名乗られればそうなんだと納得してしまいそうだなァ、と足立が昔思ったことのある月森の美しい手が、自分の唾液と血と吐瀉物でどろどろに汚れていた。
 床の上にも月森の手の上にもどこにも石などなかった。臓物ごと吐き出すような勢いで、足立の中身が空っぽになるほどに吐いても、それでも胸の中の石はなくならない。
「きっ……たねー……っ」
 もらいゲロしそうだと言ったくせに。気分悪くなっているくせに。ゲロで汚してやったのを見て、ざまあみろと、せめてもの愉悦を感じられると思っていたのに。こぼれた言葉は驚愕に満ちていて。
 上司の家の床を汚したことよりも、なぜか、動揺した。
「なァ、にやってんの……」
 酒と胃液で焼けた喉からかすれきった震え声を発した足立を見て、月森は屈託なく笑った。閉じられていた手の指を広げると、受け止めたものがその隙間から垂れ、床に溜まっていた吐瀉物に混じっていく。その様子を眺めながら、なんでもないことのように言う。
「なーんか咄嗟に手が出ちゃいましたね、今更すくったってしょうがないのにね……」
 なんで、笑っているんだろう。
 本当に、何がしたいんだろう。
 わからない。何も。月森は、足立にとって到底理解の及ばない存在だった。それこそ、怖いぐらいに。
「君さ……」
 喉が枯れたようでうまく声が出せない。ぐし、と足立はスーツの袖で顔をぬぐう。涙と鼻水が拭き取られ、視界はいくぶんクリアになった。吐き気がおさまってくると、からからに喉が渇いていることに気づく。介抱すると宣うのなら、水ぐらい用意してほしいものだった。しかし、水をとるどころか月森は手を洗いにその場を離れようとする気配すらなかった。どこか気の抜けたような顔をして、ただ、そこにいた。
 足立が自分に何か問おうとしていることに気づき、月森は言葉の続きを待つ。足立が声を出しにくいことをわかっているので、聞き漏らさないように耳をすませているようだった。敬虔な信徒のような雰囲気すら感じるけなげな様子に、足立はたまらない気持ちになる。胸の中の石は一生なくならないのかもしれない。そして、月森の従順な姿に相反するような、喉に指を突っ込む勢いと躊躇のなさを思い返した。飲んだら喉を刺激して無理やりにでも吐いたらいいという発想が、普通の高校生にあるものだろうか?
「……君、本当にお酒飲んだことないの?」
 足立はそんなことが聞きたいわけではなかった。目の前の少年は、本当はずっとずっと、足立の何かの言葉を待っているのではないかと思った。願うように、祈るように。けれど、足立が明確な問いにできたのは結局そんな疑問だけだった。その問いかけは確かに月森の耳に届き、鼓膜とその心を揺らした。「あなたがそれを言うのか」と漏らされた声の語尾がほんの少し震えていた。
「――足立さんが、飲ませたんでしょう?」
 月森は泣きそうな顔で笑った。