私は幸せ者

 俺は結局、あいつが好きだったという白い花を買った。レジの若い女店員に尋ねるとクチナシという花だそうで、名前だけは俺も聞いたことがあった。ふーんこれがクチナシね。花屋を出る。俺ってたぶん花とか似合わない男なんだろうなと思う。買ったはいいが持て余した。家に飾ろうにも花瓶はない。そこでふと思いついた。
 そうだ。あいつの墓に持っていこう。
 どうせ葬式も途中で抜けてしまったし、せめてもの献花だ。本来なら現場の踏切に捧げた方がそれらしいのかもしれないがどうせあそこは今花だらけだろう。俺は墓に足を向けた。ここらに住んでる人間が埋葬されるといえばあの山沿いの霊園だろうし、あいつは珍しい名字だから探せばわかるだろう。そんな楽天的な考えだった。どうせやることもないし別に無駄足に終わってもよかった。
 マッシロの家の近くを通りかかったとき、路上に白い欠片のようなものがパラパラと落ちているのが見えた。不思議に思って拾い上げてみると、それは何かの本のページの一部だった。手でちぎったり引き裂いたりしたわけじゃない綺麗な断面。それが何か理解した瞬間、腹の底がざわついた。
「……マッシロ」
 ばっと仰ぎ見る。マッシロの実家は画材屋を営んでいて、一階部分は店舗になっていて二階にマッシロの部屋がある。行き慣れたその部屋の汚れた窓ガラスを睨みつけた。
 マッシロは時々、本を切る。
 それはもちろん意味そのままに本を切ってしまうことを指す。それも雑誌の切り抜きとかいうレベルではなく、一センチ四方くらいにまでズッタズタに小さく切り刻む。表紙から最後のページから著者近影まで全部。マッシロの手にかかれば、時間をかけながら一冊の本が紙吹雪になる。人間シュレッダー。  ある日の授業中、何の前触れもなくいきなり教科書を切り刻みはじめたマッシロを見て先生が唖然としていたのをまだ覚えている。我に返った先生がいくら呼びかけても、止めようとしても、まるまる一冊を切り終わるまでマッシロは返事もしないでとりつかれたように作業を続けた。そのときの先生やクラスメイトがマッシロを見る目を今でもよく覚えている。
 理解できないものを見るときの、あの、目。
 マッシロは、先生が家庭訪問しにきたよ、たぶん先生は俺の頭がおかしいって思ってるんだろうな、とあっけらかんと笑っていた。そんなマッシロになぜだか俺はすごく腹が立った。
 その行為に意味なんかないし、マッシロがどうしてそんなことをするのかわからない。たぶん一種の病気みたいなもんなんだと思う。雑誌、文庫本、ハードカバー、漫画、やつは時々本を衝動的に切り刻んでしまう。狂ったように。それは俺にとっては吐き気のする行為だ。本って、伝えたい何かをかたちにして残すためのもんじゃないのかよ。なんでそれをわざわざ破壊する必要がある? 俺は本が好きだし本を粗末に扱う人間は嫌いだ。
 これはその残骸だ。指でくしゃりと哀れなページの一部を押し潰す。
 マッシロが本を切り刻んでいる現場を何度か見たことがある。マッシロは普通に使うのとは別に、本を切り刻むためだけのはさみをひとつ持っている。それは綺麗な綺麗なはさみで、なぜだか俺を惹きつける「何か」がそのはさみにはあった。どこにでもありそうな何の変哲もないはさみなのに、俺にとっては本当に特別なはさみだった。美しい。とても美しいはさみ。だからそのはさみがそんなふうに使われるのが残念でならなかった。なんせそれは本を寸断するのにしか使われたことがないのだから。
 きらり、光を跳ね返して輝く刃の完璧なフォルム。しゃきんと音を立ててふたつに分かれる哀れなページ。細切れにされた紙片からかろうじて読み取れる数文字。
 俺の苛立ちは募る。切るなっつってんのに。おまえバカなんだから俺の言うこと聞いてりゃいいのに。

 ……おまえの、そういうとこ、面倒くさい。

 マッシロがため息をついた瞬間が過ぎった。ちょうど去年の今頃、本を切り刻む癖を注意していたときの一言。おかしいな、なんで俺が呆れられてんだ。悪いのはどう考えたってマッシロなのに。マッシロのやれやれといった表情を見ていると急激に腹の底が冷えて重たくなった気がしたものだった。恥も外聞もわきまえずに喚き散らしたくなった。
 ボーッとしてて、ひとりじゃ何もできないようなやつだった。絵を描くのが好きなマッシロの爪はいつも絵の具で汚れていて、仕方なく俺が落としてやっていた。創作にまつわる行為以外に対する興味関心が薄くて、明るく笑うくせに妙に無気力で。何考えてるのか全然わからない。ヘンなやつ。
 手をぱっと離すと、ページの欠片はひらひらとまた地面に落ちた。苛立ちを誤魔化すようにひとりごちる。
「俺だって……面倒くせえよ」
 言ったってあいつにはわからない。俺とあいつの理屈は通じ合わない。
 名前を呼ばれた気がして見上げるとさっきまで閉まっていた窓ガラスが開いていて、そこにマッシロがいた。白い髪の毛が太陽を反射して光っている。いつものようにヘラヘラした緩んだ顔。ムカついたので目をそらして空を見た。黙って空を見上げたままの俺を不審に思ったのかマッシロがつられて空を見上げたのが視界の端に映った。マッシロ、おまえよく空見てるけど何が楽しいんだよ? 青いだけじゃねえかあんなもん。
「なーに、なんか見えんの」
 問いかけられたってUFOが見えるわけでも飛行機雲が流れているわけでもないから何も答えられない。空がそこにあるだけ。
 今おまえの顔見たくねえだけだよ。空を見上げて黙ったままの俺を見てマッシロはヘンなやつ、と呟いた。


 夜が来る。


 俺が花を持っていることを不思議がるマッシロに、あいつの墓参りに行くんだよと説明すると俺も行くと言ってついてきた。
「なんでクチナシなの?」
「花屋の前であいつのおばさんに会ってさ。あいつこれ好きだったって聞いたから」
「へえ」
 商店街を抜け、川沿いを二十分くらい歩くとその霊園がある。日が長い季節はもうすぐとはいえ、七時を過ぎるとさすがに暗くなった。夜の墓地は迫力があった。風が吹くと潅木が揺れた。死んだ人たちがある場所。死が集積されている場所。
「おまえも死ぬ」
 ぽつりとマッシロが呟くように言った。俺はしばらくそれが質問だとは気づかなかった。疑問符をつけて喋れよ。予言めいた喋り方すんじゃねえ。普段はそんなふうに何かを言うようなやつじゃないけど、そうなるのはわかるような気がした。ここは静か過ぎて喋る方が間違いのような気がしてくる。
「そりゃあいつかは死ぬだろ。死んで墓に入るんだ、俺も、おまえも」
 俺もぽつりと返す。俺もおまえも、か。そういうところだけ俺たちは平等だ。じっとりと汗ばんだ二の腕は蚊にさされたのかうっすらとかゆみを感じる。不愉快だ。
 死んでここに入る。
 俺とマッシロは、だらだらと歩いていく。そもそも誰の墓を目指しているんだろう。つっかけてきたサンダルの底が地面にこすれて音を立てる。かかとを引きずるようにして歩くのが癖なので、俺の靴は歪な擦り減り方をする。マッシロがまた呟いた。
「墓になんか入りたくない」
「じゃどうすんだよ」
「えー……死なない」
「すげえなおまえ……」
「死にたくない」
 その声に半歩前を歩いているマッシロを見る。マッシロは前を見ていた。その向こう側にはずっと墓石が並んでいて、見たくないものが見えそうで慌てて顔をそらし俺も前を見た。幽霊を信じるタイプじゃないが、やっぱりなんか嫌だ。
「ずいぶん真面目なこと言うな」
 マッシロはこっちを見た。その動きで汗が顎をつたって地面に落ちたのが見えた。なんだかんだ言ったって暑い。
「別に普通じゃないの、死にたくないのくらい」
「俺は考えたこともなかったよ。そんなの」
「死んでもいーの?」
「そうじゃないけど」
 おまえにゃわかんねえよ。
 死にたくない、なんて声を大にして言えるほど俺には何かがあるわけじゃないんだよ。きっと俺より生きたくてしかたなかったのにどうしようもなく死んでしまった人もたくさんいるだろうし、その中には俺より世の中に貢献できて、ある分野への才能があって、人間的にも素晴らしい、そういう人たちもいただろうに。要するに、俺より生きる価値のある人たちが今この瞬間にも死んでいってるかもしんないということだ。
 じゃあ俺は何のためにここにいる。一体何のために生きている。夢があるわけでもない、やりたいことがあるわけでもない、大事な人がいるわけでもない。
 なあマッシロ、俺は時々自分がどうしようもないくらいにどうでもいい人間な気がしてならないときがあるんだよ。ただ生まれたっていうだけの理由で生きてるような気がして我慢ならないんだよ。おまえもそう思うことあんの?
 俺はここにいてもいいのか、って。
 言葉にできない。言って伝わる気がしない。俺の感情は不安定で、言葉はあまりに不完全だった。俺は語るべき言葉を持っていなかった。わかるわけない。こんなの、マッシロにわかるわけない。こんなに能天気に生きてるやつに何がわかんの?
「おまえはなんで死にたくないわけ」
 聞いた瞬間にマッシロがぱちんと手を叩いて、その音にびくっとした。どうやら蚊をしとめようとしたようだった。バカバカしい。なんで驚いたんだろう。マッシロは前を見たまま俺に聞く。
「死んだ後ってどーなると思う」
 俺は質問に質問で返されるのが嫌いだ。それでもとりあえず考えてみて、返事をする。
「死んだらそこで終わるんじゃねえの? 全部」
 最後の呼吸が燃え尽きる、その瞬間に全部断ち切られて終わってしまう。そこには何もない。マッシロは生まれ変わりを信じてるかな。俺は信じていない。だってそんなの救いがないだろ。死ねば救われるんなら俺らはなんのためにこんな苦悩を抱えながら生きてるんだ。くだらなさすぎる。それこそ救いがない。
「ふーん」
 自分で聞いてきたくせに興味のなさそうな相槌を打たれた。不満。
「俺の質問に答えろよ」
 俺だって別に死にたいわけじゃない。死ねと言われれば断るだろうが、無理して生き続けたいとも思わないけどな。口には出さないけれど。死ぬ理由も、生きる理由も見つからない。惰性だ、俺が生きてるのは。マッシロは相変わらず俺の質問には答えず、質問を重ねてくる。
「死にたくなるほど不満なことある?」
 なくもねえよ。おまえとの差とかな。もちろん口には出さない。別の言葉に変える。
「死にたくなるほど不満じゃあないけど、何もかも受け入れられるほど満足なわけでもねぇかな」
 俺の欲しいものを全部持ってるマッシロは首をかしげる。
「難しくて俺にはわかんないよ、おまえの言いたいこと」
 そう言ってマッシロは腕で乱暴に汗をぬぐった。
 俺だってわかんねえよ。
「俺はね、死ぬのが怖いわけじゃないんだ」
「は?」
 マッシロの言葉に戸惑う。おまえさっき死にたくないっつったろ。どっちなんだよ。俺がちょっと混乱したのを察したのか、マッシロは言い直した。
「怖いから死にたくないわけじゃない」
「じゃあ、なんだよ」
 マッシロはそこで戸惑ったように俺を横目で一瞥し、一度口を開けてから迷うように口を閉じてまた口を少し開けた。ややあって、アホみたいに半開きになっていたマッシロの口からかすれたような声が漏れた。
「きっとわからないよ」
 おまえには。そう続くんだろう。俺はマッシロの横顔から目をそらした。
 なんで。なんでマッシロは、俺には全然わからないことをいつもそんなにわかってるんだろう。バカなくせに、どうして何の躊躇いもなく確信していられるんだろう。なんで? おまえと俺、何が違うっつーんだよ。
 おまえだって死ぬんだよ。いなくなるんだよ、いつかは。
 そう叫んでやりたかった。マッシロが何か言うのを待った。待ったけどマッシロはもう何も言わなかった。無言で歩く。俺も黙って追う。足音しか聞こえなくなる。静寂が辺りを覆ってしまうと、ここが墓場だということを嫌でも思い出させられる。
 幽霊はいなかった。幽霊なんか信じたくなかった。ここに幽霊がいるとしたらそれは俺だと思った。夢も将来への展望もない俺には亡霊なんかよりもずっと、さまようのが似合ってる。これは自嘲だろうか。悲観的観測なんだろうか。それとも。
 もう、十七年生きたらわかってしまったんだ。ただ生きてるってだけじゃいつまでたっても何も変えられない。何も残せやしない。俺は生きてるんじゃなくてただ生かされてるだけなんだ。何もかも納得がいかないことばかり。
 マッシロが立ち止まった。
「あ、思い出した」
「何を?」
 クチナシの花を指差してヘラリと笑う。
「クチナシの花言葉」
「なんだよ意外だな、おまえ花言葉とか詳しいの?」
「うーんなんていうかな、詳しいわけじゃないんだけど。俺さ、小学校んときの自由研究で花言葉調べたからさ。覚えてない? ほらあれだよ、押し花とか貼ってさー。あんときの知識」
「ああ、そういやそんなん調べてたなおまえ。で、クチナシの花言葉ってなんなの?」
「『私は幸せ者』」
 私は幸せ者。
 指の力が抜けそうになるのを感じた。クチナシの枝を握り直す。あいつは花言葉まで知ってたのかな。知ってて、この花が好きだったのかな。今となってはもう何も分からない。
「マッシロ」
「ん」
「おまえって幸せか、今」
「なんだよ急にー」
「なんか気になっただけ」
 マッシロはこっちを見た。月明かりだけが頼りの暗がりの中でもわかる、いつものヘラヘラした顔のまま言った。
「うん」
「…………」
 そんな表情で。軽々しく言うな。自分で聞いておいて腹が立った。聞いた自分にも答えたマッシロにも。
 バカだなと思った。何もかも持っているくせにその価値をわかってない。俺の隣で素知らぬふりをする。むごいやつ。俺は意識しない間にマッシロを睨みつけていたことに気づいて、これ以上見ているとこの濁った感情まで伝わってしまいそうで目をそらした。仰ぎ見れば、ここからも空が見える。星がある。どんな場所の上にも空がある。
「あっ、あれじゃないの?」
「え」
 マッシロが指差す先には、あいつと同じ名字の墓石があった。小奇麗にされていることと、真新しい花束が供えてあることから見てまず間違いないだろう。適当に来たのによく見つかったなあ。かなり楽観的に見切り発車した墓参りだから幸運と言わざるを得ない。
「よく見つけたな」
「へへ」
 マッシロは照れたように笑った。墓石の前にクチナシの花を置く。長く持ち歩いたせいで花弁が少しくたびれていた。何か語りかけるべきかと迷ったがやめておくことにした。俺もマッシロも手を合わせたりはしなかった。なんとなく。マッシロは空を見上げていた。少し曇っている。明日は雨が降るかもしれない。
「死んだ人は星になるって言うよね」
「そうだな」
 死んだ人たちはもういなくて、どこにもいなくて、墓の中にあるのは骨だけで、けど俺たちはここにいる。死んだら焼かれて灰になるし、もしくは分解されてなくなってしまう。血液、髪の毛、皮膚、眼球、内臓、その他諸々ぜーんぶ土に戻ってしまうわけだ。けど、精神はどうなんだろう。心、記憶、感情、そういう不可視のものはどこへ消えるんだろう。死んだ瞬間ふっと消えてしまうようなもんなんだろうか。今俺が死んだら俺に蓄積された十七年という年月はどこへ消える? 今呼吸しているこの場所の空気中には、死んだ人々が生きてきた年数が満ち満ちているのかもしれない。ひゅ、と浅く呼吸をして吸い込む。
 消えるものに意味なんてあるんだろうか。
 俺とマッシロは数年前、一緒に星を見た。今と同じように、暗くて寂しいところで星を見た。奇跡みたいに美しい夜だった。あの日、マッシロが星が綺麗だと思ったから俺たちは星を見ていた。今度は俺が言わなくちゃ。なんとなくそう思って呟いた。
「綺麗だな」
「何が?」
「……いや」
 俺は悲しくなった。
「ヘンなやつ」
「おまえにだけは言われたくねぇよ。なあマッシロ、幸せって綺麗なのかな」
「綺麗だよ。知らなかったの」
「……やけに自信たっぷりだな」
「だって俺には見えてるから。おまえ見えてないの? ほら、おまえの後ろにも」
 マッシロがこともなげに何かを断言するのには慣れていたけど、おまえの後ろにもなんてそんな幽霊じゃあるまいし。ちょっとぞっとしながら振り返った。けどそこには何もなかった。ただ黒々と墓が並んでいるだけだった。何も語らないそれらがどこまでも続いているだけだった。マッシロに向き直る。マッシロに見えて俺には見えないもの。マッシロの目を通して、俺もその綺麗な幸せを見つけたくてじっと見つめたけれどマッシロの瞳には俺しか映っていなかった。