春宵

布袋戦の後の北里と虎谷の話(20130911)


 「冗談きついぜ」と北里が憎々しげに言ったのは、学校の駐輪場にとめていた自分の自転車がパンクしていたからだった。沈みかけの西日が自転車の反射板にはね返されて北里の目を焼く。試合が終わってヘトヘト満身創痍の自転車通学者になんつー仕打ちだよ、と北里は舌打ちをした。

 春大会の二回戦、布袋との試合を終えて戻ってきた弁天野球部は、負けこそしたものの以前とは違い再戦に向けて前向きな気持ちで解散することができた。一旗が言うように、あの生意気な一年生エースが投げてからのスコアでは勝っていたという事実は先発を務めた北里の気持ちを曇らせたが、そのエースである灰村自身がそれをネタにおちょくってきたため苛立ちと怒りが先行し、落ち込む暇もなかった。灰村がわかっていてそれをやっていたのならほんの少しだけありがたいような気もしたが、フンと鼻を鳴らしてその可能性を振り切る。あいつはただ俺をからかって遊んでいただけだろう。そういうことを言わなきゃ気のすまない、空気の読めないバカな後輩なのだ。……それでも、救われたような気でいるのだから俺も同じぐらいバカなんだろう。北里はそう思った。北里を煽ってケラケラ笑う灰村に掴みかかろうとする自分、まあまあと宥めてくる風見、呆れたような顔をする一旗を取り巻く部員たちの空気は明るかった。希望がある。未来がある。監督の話も終わり、部員が一人、また一人「お疲れ様でした」と声をかけて部室を出ていく。北里もそんな後輩たちに「おー、お疲れ」と返すことができた。すべての希望が閉ざされたように感じて誰も何も喋らなかったあのときとは違う。負けたことに変わりないのに何もかもが去年の夏大会とは全然違った。それだけあの皮肉屋のスモーキー、灰村の存在が、エースの存在が、大きいのだろう。北里は靴のつま先で空気が抜けていると思われる後輪を押してみる。グニ、とタイヤは力なくそのままへこんだ。完全にパンクしてんな。苛立ちのまま北里はタイヤを軽く蹴飛ばした。
 悔しくないと言ったら嘘になる。羨ましくないと言ったら妄言だ。妬ましくないと言ったらそれこそ冗談がきつい。
 北里は灰村に嫉妬していた。
 とても深く。


 「あれ、北里まだここにいたのか。もう帰ったのかと思ってた」と後から駐輪場にやってきて目を丸くしたのは虎谷だった。北里が自転車の後輪を蹴る仕草をしてみせると、すぐに状況を理解した虎谷は「なんだよパンクしてたのか? 災難だな」と言った。北里は忌々しげにため息をつく。
「最悪だ」
「この時間だと近くのチャリ屋も閉まってるし、直すなら明日だな。今日はどうすんだ? 歩いて帰るのか?」
 北里の自宅は歩いて帰れない距離ではなかったが、全力で取り組んだ試合の後で疲弊しきった体でそれをするのはとても億劫に思えた。かといってバスやタクシーを使うのもかったるい。あー、と生返事をして考えをめぐらす北里に、虎谷は「一緒に歩いて帰ろうぜ」と提案した。意外な返事に思わず虎谷の顔を見た。
「なんでだよ。おまえもチャリあるだろ」
「押せばいいし。だって歩くと遠いだろ、おまえんち。一人で帰るとサビシーじゃん」
「寂しくねえガキじゃねえ。大体、俺んちとおまえんち逆方向じゃん」
「別に俺は構わないけど。送ってってやるぞ」
「おまえだって疲れてるだろうが」
「うーんわかった、じゃあ言い方変えるよ。俺が、今、北里と帰りたいの。だから一緒に歩きたいのは俺のワガママ。それじゃダメ?」
 おどけたようにしてそうまで言われると、北里には返すべき言葉が見つからなかった。曖昧に頷くと虎谷はじゃあそれで決まりなと笑って自分の自転車を探して駐輪場を歩き始めた。その後姿を眺めながら、北里はぼんやりと思う。なんで。なんでそんな、優しくしようとするんだ。虎谷は、どうして俺に甘いのだろう。灰村がいる今、本当に価値をなくしてしまった元投手に。おまえのような人望も持たない副キャプテンに。俺はおまえのことが全然わからねぇよ。虎谷。

 ややあって、黒の自転車に自分で黄色い縞のペイントをほどこした、北里曰く『頭の悪そうなチャリ』である猛虎仕様の愛車と共に虎谷は帰ってきた。その頃には日は沈み、辺りを夕闇が覆い始めていた。帰ろうぜ北里。虎谷は言う。やわらかい声だ。おう、と小さく応えた声は震えていたかもしれない。


 二人は人通りの少ない帰り道を、今日の試合のことなんかを話しながら歩いた。主に虎谷が話し、北里は短い相槌を打った。真剣に試合の反省をしたりもしたし、時にバカ虎な発言にツッこんだりもした。いつものように。バカだなおまえはと北里は呆れながら隣を歩く虎谷の横顔をちらと見る。虎谷の表情もまた、どこか晴れやかなものだった。因縁の相手との負け試合の後とは思えないほど。
 考えまいとしてもどうしても北里の脳裏には去年のことがよぎる。いつもヘラヘラと人を惹きつけるアホっぽい笑顔を浮かべている虎谷が、試合後の控室でひどく悔しげに拳を固め歯を食いしばっていた顔を、北里は忘れることができない。キャプテンとして虎谷として、それは北里の見たことのない顔だった。虎谷のその表情は、涙が枯れるほど泣き果てて茫然自失の北里をより打ちのめすのには十分すぎた。弁天は負けた。俺たちは勝てない。その事実はより深くはっきりと北里に刻み込まれ、もう出ないと思った涙がまたじわりと溢れて目頭を熱くした。負けたことも勿論だったが、虎谷にそんな顔をさせているのはエースピッチャーの資格を持たなかった自分なのだということが北里が自分で思うよりも深く深く心を抉った。
「―――北里?」
 知らず眉間に皺が寄っていたようで、怪訝な顔の虎谷に名前を呼ばれてハッとなる。心ここにあらずであることをさとられて気まずい北里は「ああ、悪ィ、なんだっけ」と問う。虎谷は特に気にした様子もなく繰り返した。
「そこのコンビニ寄っていこうぜ、って」
「道草かよ」
「いいだろ、腹減ったんだよ。虎ちゃんおうちまでもたなーい」
 はぁと、と自分で言う、ふざけて駄々をこねるようなふりをする虎谷に反応するようなタイミングで北里の腹の虫も鳴いた。吹き出し、おまえも腹減ってんじゃんと言う虎谷に、北里は恥ずかしさで顔を赤らめながらうるせえと返す。そのまま二人は近くのコンビニに足を向けた。店先の電灯には弱りかけの蛾が光にひかれてひらひら飛んでいる。

 ありがとうございましたーという店員の声を背に北里は店を出た。ちょうど揚げたてだったらしい唐揚げをさっそく袋から出す。湯気が立つそれは空腹なこともあってとてもおいしそうに見えた。火傷しないようにふうふうと冷ましていると、虎谷も買い物を終えて出てきた。
「こっちにいたのか、まだ中かと思って探しちゃったじゃねーか」
「わざわざ中で待たねえよ。何買ったのおまえ」
「俺? 唐揚げ」
「かぶってんじゃねえよ」
「あっ北里も唐揚げ買ったのか」
 お揃いになっちまったなと虎谷は屈託なく笑う。北里は心がざわつくのを感じた。それを誤魔化すように、ちょうどいい頃合いだろう唐揚げにかぶりつく。当たり前のようにおいしかった。必要以上に一生懸命にモグモグと咀嚼してしまう。虎谷もつられて袋から唐揚げを取り出した。
「おまえ何味にしたの」
「……チーズ」
「マジで、俺普通の味にしたから一個交換しよーぜ」
 何がそんなに嬉しいのか、終始笑顔を崩さない虎谷に、北里は頷いて見せた。喜ぶ虎谷は唐揚げを意気揚々と口に運んだが、まだ十分に熱かったようで「ぅあっち!」と短く叫ぶとかじりかけた唐揚げを取り落とした。
「っぶね……」
 北里は思わず反射的にその唐揚げをキャッチした。左手で掴んだ唐揚げは確かにまだ熱い。ったくちゃんと冷まさねーから……そういやこいつ前に「猫舌なんだ、虎だけに」とかくだらねえこと言ってたしなあ、これ落ちはしなかったけど俺がつかんじまったからどっちみち食えないか……などと北里が考えていると、慌てた様子で虎谷が手を開かせた。
「大丈夫か北里」
「あ? 何が」
「火傷とかしなかったか、熱かったろそれ。ほらこっち渡せ」
「は、大丈夫だよ。大げさなやつだな」
「だってそっちはおまえの利き手だし、下手したら投球に障るだろ」
 狼狽する虎谷のその言葉は北里の心をまたざわつかせた。打撃以外はカスだという自分への評価を思い出して思わず虎谷の手を払いのけた。
「もう投手じゃねえからいいんだよ」
「……そういう問題じゃないだろ。投手しか投げないわけじゃないんだから」
「まあ火傷してねえから心配すんなって」
 これ捨てるぞ、という北里から有無を言わさず唐揚げを奪い取った虎谷は、北里が何か言う間もなくそれを食べてしまった。北里はなんだこいつ……とちょっと引いたような気持ちになって、真剣な表情でもぐもぐと口を動かす虎谷を眺める。さっきまでどこか浮かれたような様子さえあった虎谷が、今は機嫌が悪いように見えた。唐揚げを落としかけたのがそんなに嫌だったのか? と北里は的外れなことを考えた。
 虎谷は、北里がこんなふうに時折自分を大切にしようとしないことがとても嫌だった。プライドが高いくせして自己評価が低く、いつも自分に自信を持てずにいる男。北里の、強気で人を寄せ付けない態度が卑屈さの裏返しであることも虎谷にはわかっている。エースの肩書きに自分の存在意義を見出した北里がどんな思いでマウンドに縋っていたのか、所詮は違う人間に過ぎない虎谷が完全に理解することはできない。できないけれど。
 虎谷にとって北里は大切な仲間であり、右腕であり、それに何よりかけがえのない友人だった。ポジションも役割も、野球すら、虎谷にとっては本当は関係ない。北里は北里だ。けれども目の前の友人は、そんな自分自身の価値をまるで信じない。未だ「投げない自分」の存在意義を見い出せずにいるのだ。エースとして必要とされることが北里にとって重要だったというなら、俺はあのとき北里になんと言えばよかったのだろう。去年の布袋戦で心を折られ、夢を捨てた北里を、どうすれば救えたのだろう。それを思うと虎谷の心の古傷は今でも血を流して痛むのだ。
 ごくりと唐揚げを飲み込む。虎谷は、うまく言葉を選ぶことがどうしてもできなかった。言葉も一緒に飲みこんでしまったように黙りこんでしまった虎谷に、北里は内心うろたえた。北里の前ではいつもヘラヘラとしまりのない顔をしている虎谷は、真顔になると相応に精悍な顔つきになってまるで別人のようになる。自分でもうまく説明できないけれど北里は虎谷が無表情になるのが苦手だった。場を取り繕うように自分の唐揚げを差し出す。
「食えよ。チーズ味」
「あ、さんきゅ」
 ニッと笑う虎谷に北里も思わず笑い返した。おまえはそれでいいんだよ。北里が笑ったことで虎谷は笑みをますます深くして唐揚げを受け取った。
「さすがにもう冷めてるだろうけど気をつけろよ」
「大丈夫だよ、あーんしてやろうか?」
「バカなこと言ってねぇで食えよ」
 互いにかける言葉の見つからなかった去年とは違うんだと北里は思う。こうして試合後に試合の話をしながら寄り道してくだらない会話で笑いあうことができる。灰村のおかげだ。灰村が希望をくれた。……エースの資質のなかった俺にはできなかったことだ。どうしても思考がそこにループしてしまい、うんざりして頭を振った。
「……灰村はすげえよな、」
 唐揚げを食べながら虎谷がぽつりと零すように呟いた言葉に、心を読まれたようで北里はドキリとする。そう言った虎谷はどこかボーッと遠くを見るような目をしていて北里は少しムカッとした。俺が隣にいるのにおまえどこ見てんだよ。
「……ああ」
 素直に認めるのは癪だが灰村に希望と期待をこめてエースナンバーを託したのは紛れもなく北里自身だった。ナインアウトで灰村から虎谷が打った打球を自らの意思で追いかけたあのとき、北里は捨てたはずの甲子園への夢を再び拾うこととなったのだから、心の奥底では灰村にちゃんと感謝している。素直でないのは生まれつきだ。だから北里はこのたった二文字でしか答えることができない。
 虎谷の耳にもそのかすれ気味の声の同意は届いた。ふ、と口角が上がる。強がりで、他人を認めたがらない北里さえ頷くぐらいだ。灰村は凄い。自信に満ちていて、煙のように飄々とした男。彼はこれからの弁天に必要なエースとしてますます強く頼もしく育っていくことだろう。
 北里は虎谷から唐揚げを受け取って二個目を頬張りながら、布袋戦で三上に打たれて自棄になりかけた灰村を止めた虎谷のことを思い出していた。絶対のエースとして登板したにも関わらず三上に打たれたことで自信と存在の意味を打ち砕かれたあのとき、灰村を引き戻した力強い声。キャプテンの言葉。灰村は、ちゃんと味方の声に耳を傾け信じることができる強さを持っていた。俺は、虎谷にこたえることができなかったのに。虎谷はずっと俺を待っていてくれてたのに。(おまえが打たれたからって弁天が負けたことにはなんねぇんだよ。)虎谷が灰村に言い放った言葉は北里の胸にも刺さった。去年の布袋戦で俺が投げたあのときもおまえはきっとそう思ってくれていたんだろうに、もう一度甲子園を目指そうって言ってくれたのに、俺は、立ち直ることができなかった。己の弱さゆえに。
 虎谷がぼそりと言う。
「俺はあいつが羨ましいよ」
 聞き逃しそうな声で言われた虎谷の言葉の真意がわからず北里は片眉を上げる。虎谷はそれきり何も言わなかったので、二人はしばし無言で唐揚げを食べた。空腹の男子高校生にとってコンビニの唐揚げなどおやつ同然だったので、二人はあっという間にたいらげてしまった。
「……帰るか」
 容器をゴミ箱に投げ入れる。一息ついてさっさと歩き出した北里を、自転車を押す虎谷が追う。追いついて「おまえ口んとこに食べカスついてるぞ」と自分の口元を指さす虎谷に、北里が慌てて口元をぬぐうが、反対だよ反対! と笑われた。北里はムスッとしながら反対側をこすった。


 寄り道している間に少しずつ夜は深まっていて、コンビニに寄る前よりも辺りは暗くなっていた。明るい大通りを外れ、近道だと言って静かな住宅地の中を抜けようしているから尚更そう感じるのかもしれない。時計は八時前を指している。北里の自宅まではあと十分も歩けばつくというところだ。虎谷が思い出したように自転車のライトを点灯させる。ジイイ、とライトの音が響いた。
 躊躇いがちに口を開いたのは北里の方だった。
「なあ虎谷」
「ん?」
「さっきの、どういう意味」
「さっきのって?」
「灰村が、羨ましいってやつ」
 北里なりに悩んでの問いかけだった。聞かない方がいいかもしれないと思ったからだ。あいつが羨ましい、そう言ったときの虎谷の表情に北里はゾクリとした。虎谷にそういう顔をしてほしくなかった。虎谷にはいつも笑っていてほしい。虎谷とて人間であり、悩んだり葛藤したりすることぐらい北里も理解している。けれど、自分のエゴとわかっていても、北里は虎谷に笑っていてほしかった。いちいちヘラヘラすんなと言葉では言いながらも、北里は、そうやって笑っている虎谷が好きだった。虎谷の笑顔が、虎谷が笑顔でそこにいるという事実が、北里の心を何度も救った。
 虎谷はあーあれね、と吊り眉を下げて困ったような顔をした。
「今日の布袋との健闘は勿論、北里がもう一度ちゃんと野球に向き合うようになったのもあいつのおかげだろ」
「……まあ、そうなるな」
「俺は……」
 虎谷は歩みを止めた。気づいた北里も三歩ほど先で立ち止まる。なんでもハキハキと話す虎谷にしては珍しく、視線を彷徨わせながら、話し始めた。
「俺は、本当は俺はさ、俺が……そうしたかった。俺はキャプテンだ。チームを鼓舞すんのは俺の役目だ。俺がやりたくてやってるんじゃないなんて言い訳はできない。去年布袋に負けた後、俺は俺なりにチームの士気を上げて立ち直らせようとしたんだ」
 知っている。痛いほど知っている、けれど、知ってる、と軽々しく北里は言えなかった。チームの勢いを取り戻すのに時間がかかった理由は他ならぬ自分だったとわかっていたからこそ口にできなかった。無言の北里を気にする様子もなく虎谷は続ける。
「だけどさ、どうしてもうまくいかなかった。今日みたいな、あの雰囲気、次も頑張ろうっていうあの感じは、俺がどんなに与えたくても与えられなかったもんだよ。……俺にはできなかった。キャプテンである以前に、俺はおまえの友達なのに、あのときのおまえにかけるべき言葉もわからなかった。おまえが傷ついてるってわかってるのに、何も、してやれなかった」
 北里が目を瞠る。虎谷はうつむきがちで気づかない。虎谷自身も少し戸惑っていた。虎谷は、ここで、こんなことを、ここまで言うつもりはなかった。虎谷はちゃらんぽらんではあっても無責任な放蕩者ではないし、キャプテンを任されたからには自分なりにやり遂げると決めていた。そして、キャプテンとして強くあるために、絶対的な弁天のシンボルであるために、仲間に心配をかけぬよう弱みを見せないこともトップに立つ者として必要だと虎谷は思っていた。だからチームメイトであり副キャプテンの北里に、こんなふうに弱気な心情を吐露するつもりなんかなかった。北里と同様、虎谷も灰村への感謝の裏に潜む嫉妬に苦しんでいた。
 戸惑っているのは虎谷だけではない。けして短くない付き合いの北里も、初めて見るような弱気な虎谷に心が揺れていた。衝撃を受けていたと言ってもいい。いつも笑顔の虎谷が、バカ虎でちゃらんぽらんでも決めるべきときは決めるし皆に慕われて頼られていたこいつが、そんなふうに思っていたことを、わかっていなかった。キャプテンである以前に友達だと言いながらも、いつの間にか虎谷は、キャプテンとしてしか北里の前にいられなくなっていたのかもしれなかった。
 この先を言ってはいけないと虎谷は思っていたが、一度溢れた弱音を止めることができなかった。

「俺は無力だ」

 ガシャアン。
 静まり返った住宅街に、虎谷の自転車が倒れる派手な音が響いた。虎谷は一瞬何が起きたのかわからなかったが、すぐに、自分が今北里に荒々しく胸倉を掴まれているのだと理解した。自転車が倒れたのはそのせいだ。10センチ近い身長差があるため下から睨み上げる形になっている北里の瞳と視線がかちあった瞬間、虎谷は北里が本気で怒っていることがわかった。カラカラと倒れた自転車のタイヤが回る音がしらじらしく聞こえる。
「何すんだ北里、どうしたんだよ」
 状況をうまく飲み込めていない虎谷が頭上にハテナマークを浮かべている間に、北里は「てめぇ」と低い声を漏らした。地獄の底から響いてくるような声音に虎谷の背筋が思わず伸びる。
「てめぇそれ本気で言ってんのか?」
「え?」
「無力だったって、何もできなかったって、本当にそう思ってンのかよ」
「……」
 北里の言わんとすることがわからず、虎谷は困ったような顔をすることしかできない。北里は胸倉を掴んで引き寄せたその顔を間近で眺めながら、この荒れ狂った心を、後悔を、どう伝えればいいかわからず、カッターシャツの襟元を掴む手に力を込めることしかできずにいた。
「俺ァたしかに去年の夏大で一度腐っちまったよ。自分に才能がないことぐらいわかっちゃいたが、それでも死に物狂いでやってきたんだ。布袋とも、三上とも、いい試合ができるって思ってた、いや信じたかったんだよなぁ、甘かったんだよとんだ甘ちゃんだったのさ。俺はあのとき、人生で一番の負けを味わったとき、自分のすべてを否定されたような気がして、何もかもがどうでもよくなったんだ。野球のことも自分のことも……おまえらのこともだ」
 立ち直り始めたとはいえそれはけして遠い過去の記憶ではない。思い出すだけで北里は耐え難い屈辱感と喪失感に襲われる。虎谷の胸倉をぎゅうと握りしめた拳がカタカタ震え、掴んだシャツに深い皺が寄る。
「やめちまおうと思ってたんだよ」
 吐き捨てるような言葉に虎谷が息をのんだ気配がした。北里は耐え切れず少し目を伏せた。
「野球やってると何してても布袋とやったときのことを思い出しちまって体が震えたんだ。俺の居場所はここにしか、マウンドにしかないのに、投げられない俺に意味なんかねぇのに、俺は信じられないほど無力だった。それをうまく受け入れられなかった。どれだけやっても勝てないなら努力に意味なんてねえ。俺らじゃ、俺じゃ、甲子園になんて、絶対に、行けやしないんだって……。だったら野球なんかやめた方が楽になれると思ったんだ」
 徐々に低くなる声。絞り出すように語られる言葉は、北里自身もはっきりと口にしたことのないものだった。虎谷が想像するしかなかった心情だ。瞬きもできずにいる虎谷の目ともう一度北里の目がしっかりと合わされる。互いの表情が互いの瞳に映った。
「けどな、俺は、野球部をやめなかった。何度もやめようと思ったぜ、でもな、どうしてもやめられなかったんだよ。惨めな結果に打ちひしがれて現実を思い知っても、あんなに焦がれたマウンドに立つことに恐怖さえ感じるようになっても、それでも離れられなかったんだ。なんでかわかるか」
 虎谷は、答えられなかった。ぎこちなく首を横に振るしかなかった。北里は愕然とする。こいつは何もわかっちゃいない。虎谷は北里が心の底から野球を愛しているからやめなかったのだろうかと思ったけれど、それでは何かが足りない気がした。そしてそれは実際にあたっていた。北里はもちろん野球を愛してやまない。北里は性根は歪んでしまっているが野球に対する愛情は素直なものだ。だけどそれだけではない。それだけではないのだ。北里の中でやり場のない感情が煮えたぎり膨れ上がり、行き場を探してグルグルと暴れまわり駆け巡った。
「てめぇは本当にバカ虎だ……」
 それだけ言うのがやっとだった。伝えたいことが喉元にたくさんこみあげているのに何一つ言葉にできず、はくはくと口が動く。おまえは強い人間だと思っていたから、おまえはいつも笑っていたから、俺はそれに甘え過ぎていた。おまえはおまえで苦しんでいたのに、見て見ぬふりをしていた。おまえは俺の分まで強くいようとしてくれた。おまえが強くなる必要性を生んだのはこの俺の弱さだ。副キャプテンの俺は、いや、おまえを大事な友人だと思う俺は、おまえを支えなきゃいけなかったのに。
 俺はこんなにおまえに救われてたっていうのに。
「おまえらがいたから俺ァなァ……」
 虎谷も坂巻も、どんなに北里が荒れていても見捨てようとはしなかった。夏大明けで北里が一番苦しんでいる時期に、感情を暴発させてひどいことを喚き散らしたり物にあたったりしても、北里の心が穏やかになるまで宥めてくれた。坂巻は人との適切な距離をとるのがうまいたちで、北里を一人にした方がいいときと一人にしない方がいいときをきちんと見極めることができた。口が悪く素直でない北里も、物腰穏やかな坂巻には剣呑な態度をとらずにいられた。虎谷は元来明るくやさしい人間だ。彼の笑顔やバカな振る舞いは北里の毒気を抜いた。分別のない子どもをあやすような二人の態度に北里は神経を逆撫でされて余計に腹を立てたりもしたが、二人といると心の波がおさまるのを感じざるをえなかった。そんな二人に、野球をやめると言いだせなかった。野球を心底嫌いになることも諦めきってしまうことも、どうしてもできなかった。
 虎谷たちは布袋に負けて腐っていた頃の北里を肯定することはしなかったが、かといって否定も突き放しも諦めもせず、ただつかず離れずそこにいてくれた。どれだけそれが北里の心を救ったかこの男はわかっていないのだ。北里は今まで謝罪も感謝の言葉も言えずになあなあと過ごしてきたが、今になってそのことをひどく後悔した。言わなくても伝わるなんてそんなわけがないのに。寄りかかるだけ寄りかかって、甘えるだけ甘えて、ガキだ。まるで自分だけが傷ついたような顔をして、俺は本当にバカだ。

 虎谷、おまえだってチームの希望だ。俺らの唯一無二のキャプテンなんだ。俺と違って灰村に代わりはできねえ、弁天の大事な柱なんだよ。

「無力だなんて、口が裂けても言うんじゃねえよ」
 グス、と鼻が鳴って初めて北里は自分が涙ぐんでいるのに気づいた。あれ、どうして俺が泣いてるんだよ、と北里は他人事のように思った。違う、泣きたいんじゃない、被害者面したいわけじゃねえんだ。俺はこいつに伝えなきゃいけない。俺は野球をやめなくてよかった。おまえがいてよかった。おまえがいるから、俺は今こうしてここにいられるんだよ。伝えなきゃいけないのに、どうしても、言葉にならなかった。
「そんなこと言わないでくれよ、虎、頼むからさ……」
 懇願は涙声になった。胸倉を掴んでいた手から力が抜ける。目尻から涙がこぼれそうになって慌ててぬぐった。オーバーヒートしたように熱くなった頭ではもはや何を考えることもできなかった。


 嗚咽をこらえながらバカ虎、バカ虎と繰り返す北里を見て、虎谷はすっかりかたまってしまっていた。掴まれていた手は離されたのに、動くことができない。襟元を正すことも、自転車を起こすことも、必死に涙を流すまいとする北里に声をかけることもできずにいた。北里、泣くなよ、そんなんおまえに似合わねえよ、おまえはいつもみたいに偉そうな顔してドーンと構えてろって、俺がバカやったらおまえがすかさず叱ってくれて、バカだなっておまえが笑ってさ、俺の思慮の足りないところはおまえや力が補ってくれてさ、俺がキャプテンでおまえが副キャプテン様で、俺らは同じチームで、投げて、打って、俺はそれが好きなんだ、なあ泣くなよ北里、いつもみたいに、笑ってくれよ。

 なあ、北里。

(無駄じゃあ、なかったのか?)

(俺はちゃんとキャプテンやれてたって、おまえの力になれてたんだって、自惚れてもいいのか?)

 俺ッ俺~~…、と時折何か言いかけてはまた言葉につまる北里を見ているうちに、虎谷は急に胸の奥につかえていた何かがストンと落ちたような気がして、どうしようもなく泣きたくなった。
「そっ、かあ……」
 ようやく口を開いた虎谷を、北里は涙で潤んだ目で見つめ返した。いつもの顰め面と違ってどこかあどけなさの残るそのきょとんとした表情に虎谷はふはっと吹き出す。
「あはは、北里、なんだよそれヘンな顔」
「あ゛ぁ?!」
 北里はゴシゴシと乱暴に目元をこすってキッと虎谷を睨みつけた。いくら怖い顔をしても目元の赤いのは誤魔化しようがなくて、それに虎谷はまた笑う。そのあっけらかんとした表情に、北里は途端にさっきまでまじめな話をしていた自分が気恥ずかしくなった。虎谷はケラケラ笑いながら、ずっと倒れっぱなしだった自転車をよっこらしょと起こす。北里の中でグルグルと渦巻いていた思考も言葉も吹っ飛び、ズズっと鼻をすすって条件反射で虎谷に噛みついた。
「何笑ってんだよ! 今笑うとこじゃなかったろーが! 超まじめな話してたんだぞ!」
「わかってるけどそうは言ってもなあ、おもしれーんだもん今のおまえ」
「……とら、」
「笑いすぎてさ、涙が出るよ……」
 虎谷は笑った。
 北里の好きなその表情で、北里の好きなその声で、北里を呼ぶ。
 いつものように。

「帰ろうぜ、北里」