作用、反作用

 俺と藍の間に共通点と呼べるものがあるとすればそれはふたりとも踏切が好きなことだった。それを知ったのは夕方から雨が降り出した日で、朝は晴れていたのに学校から帰る頃になって急激に降りだした。俺は折り畳み傘を持っていたので特に困ることもなく帰路についていた。
 水たまりをよけるために地面を見ながら歩いていて、いつもの踏切の近くに来たとき警報機のあの音が聞こえてきた。胸の高鳴りを感じて顔を上げたら見覚えのある鮮やかな色の傘が目に入って立ち止まった。
 まるでフラミンゴみたいな色の傘だった。
 俺はその傘を知っている。あれは、藍の傘だ。
 絶え間なく警報機は音を鳴らし続け、雨は勢いを増しながら降りつづけている。
 もうすぐ列車が通る。
 俺は自分の存在がバレないようになるべく傘を藍の方に向けながら差して、遮断機のすぐ傍に立っている藍の反対側へ立った。バレたくないなら隣になど立たなければいいだけの話なのに、なぜだか無性に藍の顔が見たかった。
 藍はどんな顔をして遮断機が開くのを待つんだろう。
 ただそれに興味があった。こっちを見るなこっちを見るなと思いながら、そっと傘をずらして藍のほうをうかがった。
 思わず息を呑む。
 藍の目はどこまでも真摯だった。驚いた。藍が踏切を見る目に熱がこもっていることが不思議だった。藍は真剣に踏切を見ていた。遮断機を見ていた。警報機の音を聞いていた。それから電車が来る方向へすいと視線を向けた。列車が来るのがこっちからじゃなくてよかった。藍が踏切から視線をそらしたことによって、藍の顔は見えなくなってしまった。
 なぜだろう。なぜ藍はあんなに真剣に踏切を見ているんだろう。
 答えは簡単だった。藍は踏切が好きなのだ。俺と同じように。
 藍の傘をじっと見つめていると不意に傘の持ち主が振り返った。あ、と思ったものの顔をそむけることも傘でガードすることも間に合わなかった。なんとなく振り返っただけかもしれないが、見透かされていた気がして鳥肌が立った。降りしきる雨も残念ながら俺たちを隔てる壁にはならず、目が合った藍は、元から大きい目をさらに丸くした。そして嬉しそうに笑った。普通の美的感覚を持ってる人間なら誰でも好感を持たずにはいられなさそうな笑顔。五人に一人くらいは恋に落ちるかもしれない。
「先輩! 奇遇ですね」
 藍が駆け寄ってきた。
「藍」
 俺は今気づいた風を装った。ガッツリ目が合ってしまったのでさすがに無視できない。
「まだ通れませんね」
「ここ長いよな」
「でも私、好きです。この待ち時間」
「……なんで?」
「列車がですね、通り過ぎる瞬間が好きなんですよ」
「列車が」
「そう。列車が、ガーッて走り過ぎていくとこを見るのが好きなんです」
「俺と一緒だ」
「え?」
「俺も好きなんだよ。ガーッて行くとこ見るの」
「本当ですか?」
 カンカンカンカンカン。
 藍がまた嬉しそうに笑った。つやつやした頬が、見る間に桜色に染まる。
 本当ですか。それは俺が藍に言いたかったことだった。本当に藍も好きなのか? 藍は躊躇わず教えてくれたけれど、俺は踏切が好きだなんて誰にも言ったことがなかった。なんとなく、人に理解を得られるものだとは思っていなかったからだ。初めて理解を得られたのがまさか藍だなんて。一番相容れないと思っていた人間と意外なところで交わってしまった。
「どういうとこが好き?」
 カンカンカンカンカン……視界が雨でけぶって警報機の赤いランプの輪郭が滲んで見える。列車はまだ来ない。
「そうですねえ……あの瞬間って圧倒されるじゃないですか。一瞬、こっちと向こうが切断されてしまうような錯覚。あれが好きなんだと思います」
 そこまで一致してしまうのか。俺は共感を得た喜びと、その相手が藍であるという複雑さを同時に抱えてしまった。
 俺と藍。藍と俺。
 俺たちの間には、反発しあう何かが流れている。
 それはどうしようもない、言うなればもはや先天的なものだった。違和感。俺は藍に対して、存在のレベルから違和感を感じる。
 初めて会ったときからそうだった。季節は春、恒例の新入部員の自己紹介のとき、緊張したように指で髪留めをいじりながらも笑顔で自己紹介する藍を見て、可愛い子だなと素直に思った。なのに目が合ったその瞬間、あ、違う、この子はなんか違うと感じた。わかった。わかってしまった。そして、藍も俺のことをそう思ったのがわかった。それがなんでか説明しろって言われても難しい。それは今もそうだ。そう感じる理由がわからないままでいる。わかってしまったんだから、としか言いようがない。とにかく言葉さえ交わさないうちから、俺らふたりの間には合わせ鏡の間を跳ねる光のように、おかしな共通理解が素早く往復した。他人とそんなふうに通じ合うのは初めてのことだった。
 だから極力関わらないようにしようと思っていたのに、藍の方はなぜか俺のことを気に入ったかのように積極的に関わってきた。俺も、ただなんとなくというだけで嫌うわけにいかないので一応先輩として接してきた。そんなふうに付き合っていくうち、俺さえ藍はいい子だと認めざるを得なかった。藍は実際、可愛いし賢いし礼儀正しいしいい子だ。誰にでも好かれるし、頼りにされる。後輩としては花丸をあげてもいいくらい。だけど理由のわからない違和感はいつまでたっても少しも拭えず、むしろ少しずつ大きくなっていた。
 決定的な衝突があったわけでも、言い争いが頻発するわけでもない。だけど俺たちは互いに違和感を持っている。俺に限って言えば、嫌悪感にも近い。それなのに、何もわかってませんよという顔で擦り寄ってくる藍のことがわからなくて、俺は藍のそういう人間性に触れるたびに戸惑う。でも藍の何が他の人と違うのかわからない。ただ俺と藍は根本的に合わないんだと思う。磁石のN極どうしみたいに。そんな人間が存在することを、藍に会うまで俺は知らなかった。
 カンカンカンカンカン……。
「それにしても、先輩も踏切が好きなんですね!」
 はしゃいだような藍の声で俺は現実に引き戻される。
「え、ああ。うん」
「私、自分以外で踏切が好きって人に会ったの初めてです」
 藍がにこにこ笑う。雨で見えづらい、まだ遠い向こうから列車が来るのが見えた。もうすぐ通り過ぎるだろう。その瞬間が好きで心待ちにしているふたりの前を通り過ぎるだろう。空間が切断される。一瞬の風、そして何事もなかったかのような静寂、そしてあがる遮断機、もう一度繋がるこっちとあっち。その瞬間を待っている。我ながら、変なの。藍もそう思っているだろうか。隣に立つ藍の傘はやっぱり何度見ても鮮やかな色をしていた。


 使おうとしている色がちょうどその日の藍の傘の色に似ていたので、そのことを思い出していた。そういえばあいつが死んだのもあの踏切だ。
「こんにちはー」
「あ、部長」
 ドアを開ける音と挨拶が聞こえたので手を止めて顔を向ける。いつものようにメガネをかけた部長がいた。背中まで伸ばされた髪を払いながら鞄を机の上に置く。夏服に衣替えされたセーラー服の白地が眩しい。部室に入るとき、部長はいつもきちんと挨拶をする。若者っぽいノリで「お疲れー」と声かけするのは、別に疲れてないのに……という単純な違和感があるらしく、大抵は「こんにちは」「さようなら」だ。
 反発の力が作用する藍とは逆に、俺は部長からは滲み出るような引力を感じる。言葉にできない、微弱な引力だ。部長の何がそう思わせるのか、俺はその源泉が知りたかった。
「お、ハツちゃん来てる」
 部員でもないのにたむろっていることに負い目でもあるのか、俺には興味を示さないハツも部長が来たときだけは一応目を向けて会釈ととれなくもないぎこちない動きをする。ハツにしては挨拶っぽいモーションとはいえ先輩に対する態度としてはかなり微妙なラインだが、寛容な部長は特に気にしていないようだ。
「先生の方は今日も来てないかー」
 部長は呟いた。うちの美術部の顧問は滅多に顔を出さず大体は準備室に引き篭もっている。先生連中の間でも変わり者で通っているらしく、あまり人と関わりを持とうとしないし無口で愛想も悪い。まあ、そんな彼が顧問なおかげで自分の絵に余計な口出しされないし、自分の絵にとやかく言われるのがひどく苦手な部類の美術部員の俺にとってはありがたいんだけど。
 是でも否でも、自分の絵に関することを聞くのは耳を塞ぎたくなるほどに恥ずかしく、絵を否定されると俺自身を否定されているようで身を切られるようにつらく、かといってもし手放しに褒められたとしてもきっと不安になってしまう厄介な性分を抱えている。ほとほと絵描きに向いてない自覚がある。
 でも。
「どうだい? 進んでる?」
 イーゼルに乗った俺の絵を眺めながら部長が言う。部長、俺の絵を好きだと言ってくれた部長。それは俺にとってはかなり衝撃的なことだったけれど、部長はたぶんそれを知らない。
(でも、もし部長がマッシロの絵を見たらこの人もきっとそれに魅了されるに違いない。俺の絵なんか眼中になくなるだろう)
 そう思うと少し暗い気持ちになった。マッシロは美術部に入っているくせに一度もここで絵を描いたことがなかった。その他大勢の幽霊部員のように、あまり部室に寄りつかず自由気ままにふるまっている。
「まだまだですかね」
 ペインティングナイフを洗面器に突っ込んで洗いながら答える。俺の絵は相変わらず抽象的で、完成に近づいているのかどうかさえよくわからない。徐々に青がオレンジに侵食されていっている。膨張色と後退色が混ざり合って画面は混沌としていた。
「好きだなーこの絵」
 部長がまたそう言うので。俺は跳ねた心臓を隠し、思い切って聞く。
「俺にはわからない。部長は俺の絵のどこが好きなんですか」
 前に聞いたときは「どこだろう……」で終わってしまって、アレ今のお世辞だったのかな? と若干凹んだけど。俺は真剣に気になっていた。けれど自分からはなかなか「この絵どうですか」とは聞けない。やっぱり俺はそういうタイプの人間なのだ。またはぐらかされるかなと思いきや、部長はんーとかうーとか言いながら逡巡し、考えながら少しずつ言葉にしてくれた。
「こんな言い方したら語弊があるかもしんないけど、別にこの絵は技術的に物凄いとかいうわけじゃないんだよね。正直何が描いてあるか全然わかんないし、稚拙で荒々しいところも目立つしさ」
 「あー怒んないでね?!」と絵から俺に目を向けた部長は少し焦った様子を見せる。「怒りませんよ」と俺は答えた。部長は安心したようにまた絵を見た。
「なのにさ、見るたびに自分の中の何かが動く気がするんだよね。物凄い絵を見たときみたいに圧倒されて大きく心を揺り動かされるというより、なんというのか、えーと、もらい泣き……もらい泣きみたいなものかなあ。プルプルッとちっちゃい震えが来るんだよね。その震えが、私の真ん中からちょっとずつ全身に伝わっていって、徐々に大きくなってくような……うーん、わかるかなあ。……オッケー?」
 自覚しているのかは定かじゃないが、部長は考えているとき片方の手の甲で鼻をこする癖がある。今もやっている。たどたどしく言葉を選びながら、なるべく正確に俺に伝えようとしてくれる部長のやさしさが嬉しかった。ぶっちゃけ部長が何言ってるのかは全然わからなかったけれど俺は指でマルをつくった。
「オッケーです」
「よかった」
 部長は安心したように笑った。俺も自分の絵を眺める。俺の絵の振動。俺には感じられない。それは俺自身も揺れているからなんだろうか。地に足つけて立ってる部長には俺の絵が発する微細な振動も伝わるけれど、酔っ払いみたいにグラグラ生きてる俺には自分が揺れてるのか周りが揺れてるのかもわからない。そういうことなのかな。
 表現することは怖い。表現されることも怖い。
 評価されることは怖い。評価することも怖い。
 部長は満足したのか席に着くと読書を始めた。部長は絵も描くが、本を読んだりして時間を過ごしていることも多い。この部は絵を描いている人間の方が少ないくらいで、サボリ部と呼ばれることもある。内申のためにも部活には所属しておきたいがまじめな活動はしたくないというような層の吹き溜まりということだ。漫画研究会が別に存在しているので、そっちに生徒が流れているのも理由の一つだろう。部長だって、絵の技能がどうとかいうより、出席率の高さを見込まれて部長になった節がある。もちろん俺は部長が部長でよかったと思っているけれど。
 ページを繰る部長と、絵を描く俺。とゲームをするハツ。ハツの好き勝手さと部長の無関心さが俺には心地よい。そんなことを考えていたら、ドアが開く音がした。そこにいたのは藍だった。思わず目をそらしてしまう。
「こんにちはー。あー、ハツは先に来てたんだね」
 しっとりとした涼やかな声。俺は声だけで挨拶を返し、絵の具の量を調節しているふりをする。部長が藍に声をかけた。
「あ、藍。ちょっと久しぶりだね。風邪ひいてたんだって?」
「そうなんですよ。夏風邪ひくなんてバカみたいですよね」
 二日ぶりに会う藍はもう元気そうだった。まっすぐで艶やかな長い髪が揺れる。シャンプーのコマーシャルにでも出られそうな綺麗な黒髪。苦笑しながら藍が後ろ手で美術室のドアノブをひく。閉めるたびいちいち派手な音のする古い灰色のドアが閉められる。バダン。その音で何かが変わる。カチリと長い針が12をさして日付が変わる瞬間みたいに、見た目では変わったように感じなくても、それを境にはっきりと変わってしまう。居心地のよかった空間に違和感があっという間に表面化してしまう。断じて恋愛感情云々による照れや緊張じゃない。その方がよっぽど楽だ。俺と藍のいる空間にはそれ以上にうまく言えない危うさがある。藍も絶対感じているはずだ。おまえ、いつまで知らないふりしてやってくつもりなんだよ。何が目的なんだ。
 厄介だ。
 二言三言、部長と言葉を交わした後、藍は俺に近づいてきた。そこまで近づかれたら無視を決め込むわけにもいかず、顔を上げる。視線が合って、藍が笑う。
「先輩、お久しぶりです」
「ん。もういいのか?」
「はい。おかげさまで大丈夫です」
「そっか。よかったな」
 何がおかげさまなんだろう。俺はそう思いながらアクリル絵の具をペーパーパレットに絞り出した。ナイフでぐちゃぐちゃとかき混ぜる。濁った色になってしまった。
 藍が明るい声色でハツに話しかけながらハツの隣の席に着く。藍はちゃんと絵を描く部員だ。藍はここのところ、もっぱら牛骨の鉛筆デッサンに励んでいる。今日も続きを描くらしく、いそいそと準備を始めた。入部当初飛びぬけてうまかったわけじゃなかったけれど、着実にうまくなってきている。成長具合に少し焦るぐらいだ。気にしないようにしながら俺は俺で描き進める。
 とつ、とつ。聞き慣れない音に振り向くと、ハツが松葉杖をついて歩いていた。俺の中で興奮の炎が爆ぜたが、冷静を装った。ハツの隣に、藍が付き添うように立っていたことも、冷静になれた要因だろう。ハツは俺の視線に気づいたのか、俺の横で立ち止まって言い訳するように言った。
「……充電切れたんで帰ります」
 言ってすぐに歩き出す。ハツはどこか悔しそうな顔をしていた。ゲームの充電切れたくらいでそんな顔しなくても。もしかしてセーブしてなかったんだろうか。俺としては予想より早くハツの松葉杖姿が見られて眼福なんだけどね。ありがたやありがたや。軽く頷いた。
「おー。お兄さんによろしく」
 まだ慣れていないのか、どこかぎこちない後姿。藍が支えたそうにしながら「大丈夫? ねえやっぱり一緒に帰った方が……」と言うが、ハツは「大丈夫、ただの捻挫だし」と返した。そっけない響きだが、ハツはハツで藍に迷惑をかけたくないのだなと感じた。部長が「階段降りるとき気をつけて帰るんだよ」と言い、ハツもうなずく。ドアが閉まってハツが見えなくなるまで松葉杖姿を堪能した後、少しばつが悪くなった。後輩の、それも友達の妹の怪我で興奮するなんて不謹慎だ。
 部長と藍が話している。
「ハツも災難だったね」
「部長はご存知だったんですか?」
「私は昨日もハツに会ったから。そんときはもうあんなだったしなあ。一昨日は普段通りだったし昨日なんかあったんだろうけど、聞いても教えてくんないし……藍はなんか知らないの?」
「それが、私にも言ってくれないんですよ。『転んだ』とは言うんですけど、それだけ。教室で誰かに聞かれてもずっとその調子で。そういう態度でいるとハツ浮いちゃうのに……でもなんなんでしょうね、心配ですよね、実際。事故だとしたら、相手の方のことを考えて黙ってるんでしょうか。それか誰かに脅されてるとか……」
「うーん、ハツが脅しに屈するイメージわかないなあ。それにしても藍にも言わなかったんだ。ハツはヘンなところで頑固っていうか、無口だねえ。まあ、言いたくないなら仕方ないけど」
「何はともあれ早くよくなってほしいですね」
「そうだね」
 結局、ハツの怪我の理由はわからずじまいか。明日にでも撫で肩に聞いてみるか。
 藍が作業に戻り、部長もまた本を読み始める。しばらくして先輩がトイレに立ち、美術室は俺と藍のふたりになった。最悪だ。こいつとのふたりきりが俺は本当に苦手だ。弱った。そんなことを思っていたら、デッサンをしていたはずの藍が隣まで来ていた。俺はビクリとする。ハツじゃああるまいしおまえまで気配を消すなよ。藍にはどこか年相応以上の落ち着きがあるので、落ち着きを失っているのは俺だけなのかと思うと癪だ。
 しかし、いつも落ち着いているはずの藍が今は珍しく少しヘンな感じだった。簡単に言うなら、そう、もじもじしている。えーと、その、と視線を泳がせながら口ごもっている。そして、意を決したかのように俺の目を見た。
「あの、せんぱい、ちょっといいですか」
「ん」
「お願いがあるんです」
「なんだよ」
「もし、もしですよ。いらなくなったら左腕下さい」
 ナイフ落とすかと思った。聞き間違いじゃないよな。俺は五秒ほど間をあけてから返事した。
「……左腕?」
「はい。いらなくなったらでいいんです」
「いらなくねえよ、俺左利きなんだから」
「両利きなの知ってます。字を書くのは右手なことも」
「そういう問題じゃないだろ」
「ねえお願いですくださいよ。いらなくなったらでいいんですよ。ください左腕。私にください」
 藍はなぜか、俺に対してだけはいつだって本気だった。藍は気の利いた冗談を言って他人を笑わせるユーモアを持ち合わせているけれど、俺に対して冗談を言ったことなど一度もない。だいいち冗談だったとしてもそんな冗談笑えない。必死でトンチンカンなことを言うからこそ、俺はいつも彼女が怖かった。藍の意図がわからない。駄々のようにお願いしますを繰り返す藍を止めようと俺は左の掌を眼前に突きだした。
「わかったわかったやるよ!」
「本当ですか!?」
 はしゃいだ声。両掌をポンと合わせて目を輝かせている。
「ただしいらなくなったらだぞ。もちろん今はやれない」
「やった、やったあ! 絶対ですよ、約束ですよ」
「いいよ。やるよ」
 俺は面倒くさくなってきて投げやりに返事した。左腕なんて、普通に生きてればいらなくなることなんてないものだから、ここで適当に返事していたって問題はないだろう。そんな機会は永遠に来ない。そんな約束なら無いも同じだ。それにしてもなぜ藍は俺の左腕なんか欲しがるのかな。やっぱりこいつちょっと頭おかしい。彼女はマッシロとはまた違った意味で俺の理解の範疇を超えている。
「約束ですよ!」
「ああ」
 藍は心底嬉しそうで無邪気で、ここまで嬉しそうな藍は見たことなくて、こんな素直に可愛らしい笑顔の藍も久々に見た。藍の笑顔は冗談じゃないくらいに可愛いのに。なぜ俺はこの子を笑顔にできたことを手放しで喜べないんだろう。藍の紅潮した頬を見ていると俺の脳は逆に冷えていく。
「ありがとうございますっ!」
「いや、まあ……うん」
「私が今予約しましたからね、他の人に譲ったりしたら怒りますよ」
「う、うん」
「本当に本当に、そんなことしたら怒りますからね、一生許しませんからね」
 そう言う藍の目は真摯だった。踏切を見る目と一緒で真剣そのもので、たとえば俺が今すぐ左腕を切断して他の誰かにあげたりしたら彼女にこの場で殺されそうな勢いだった。そのくらいの真剣さを湛えていた。ついていけない。やれやれだ、本当に。
 だいじょーぶ、んなことしねぇよ(ていうかおまえにもやらねぇよ)。そういう気持ちを込めて黙って首肯すると、藍は今にも鼻歌を歌いだしそうな感じの満面の笑みを浮かべたまま「ありがとうございます」ともう一度礼を言って顔をそらした。その顔を追って長い髪が揺れた。
 今、俺の左腕は藍のものらしい。さっきまでは俺の俺だけのものだったけどたった今藍の予約が入った。しるしがついた。今は左腕だけだけど、もしかしたらいつか――それを思うと少しぞっとした。
 藍が唇を舐めたのが見えた。その舌は俺のそれより赤かった。
 俺はもしかしたらとんでもない約束をしたのかもしれない。