理由

 駅前の花屋の前であいつの母親に会った。顔色は相変わらずよくなかったけれど葬式のときよりはいくぶん元気になったように見えた。気温も日々鰻登りだというのに、いかにも熱を吸収しそうな黒いワンピースを着ていた。照りつける日差しの中、色とりどりの花が咲き誇る店頭にそのいでたちで突っ立っているせいでひどく浮いて見えた。それが死者を悼んでの服装なのか、それとも単に黒が好きなのかはわからない。視線を感じたのか、彼女が俺に気づいた。
「あら、あなたは……」
 どうやら参列した俺のことを覚えているようだ。途中で抜けたことには気づいているのかいないのか、笑顔で会釈してくれた。葬式のときの精神的に参った姿しか見ていなかったが、こうして見るとなかなか感じのいい女性だった。目尻の笑い皺が印象的。
「ども」
 俺もおじぎをする。自分の服を見る。皺の寄ったTシャツに膝に穴が開いてしまったジーンズにサンダル。どうでもいい格好をしているときに限って知り合いに会ってしまうのはなんなんだ。
 目の前の彼女はたぶん知らないだろう。死ぬ前日にあいつが俺と会っていたこと。俺はそのことを誰にも言わなかった。あれが自殺だったとして、俺が何かきっかけになったと思われるのも嫌だったし……あいつの問いかけをはねつけた俺自身にも、そうじゃないそんなわけないとはっきり否定しきれない部分があるからだ。現場の状況的に事故の可能性は低く、かといって遺書もないし手掛かりが何もないという話だけれど、俺はあのメモのことを教える気にはなれなかった。自殺の可能性をほのめかしたところで何の救いになるっていうんだ。
「この間は来てくれてありがとうね」
 俺としてはその件をあまり思い出させたくなかったのだけれど、やはりその話題になってしまう。路上で彼女が泣いたりしてしまったらどうしようと心配だったが、予想外に湿っぽさはなく落ち着いた声だった。大人だということなのかもしれない。
「いえ、俺こそ、息子さんとは仲良くさせてもらってたんで……」
 それらしいことを言った。「ありがとう」と繰り返す彼女に首を横に振る。
「いいやつでしたよ。死んじまったのが残念です。俺の周りは死ななくてもいいやつから死んでいく気がする」
「そう言ってもらえたら母親としても嬉しいわね。あなたみたいな友達がいてあの子も幸せだったと思う」
 幸せ。
 あいつは幸せだったんだろうか。俺の存在が救いになったことなんかあったんだろうか。深く考えたことはなかったが、俺たちはたぶん友達だった。けれど、俺が最後にあいつに与えたのは明確な否定の言葉だった。どこか切実な様子で同意を求めるあいつの、理解を拒んだ。わからねぇよと、そう言った。
「……ここで何してたんですか?」
「花を見ていたのよ」
 花屋の前にいるんだからそりゃそうか。俺は夏の植物ならいくつか知っているが、店頭に並ぶのは名前も知らない花たちばかりだった。俺が育てたことのある花なんてごくごく一部に過ぎないのだろう。
「うちはあっちの山のところの霊園にお墓があってね。あの子に今度は何のお花をもっていってあげようかなと思いながら通りかかったら、この花が咲いてたから」
 彼女が指差したのは、枝から咲く大きな花弁を持つ白い花だった。やっぱり知らない。
「好きなんですか、これ」
「あの子が好きだったの」
 間髪入れない返答に少し怯んだ。「私も好きなのよね」と彼女は笑う。笑い方があいつに似ていた。夏がまるで似合わない、儚い笑みだった。なんと答えたものか悩んでいると、彼女は花から視線を外した。
「じゃあそろそろ私は失礼するわね。夕飯の買い物の途中だったの」
「はい。さよなら」
「さようなら。元気でね」
 息子を失ったこの人にとってもこうして日々は続いていくんだ。夜はやってくるし夕飯の時間も訪れる。どうしても。俺は母が死んだときのことを思い出して、立ち去っていく彼女の背中を見ていた。すると彼女は少し歩いてから立ち止まって振りかえった。青空が似合わない、夜の闇のような色のワンピースの裾が翻る。後姿を見送っていた俺と目が合った。彼女は入道雲を背負っている。少し離れているのに彼女の声はよくとおった。
「そうだ、質問してもいい?」
「あ、え、なんでしょうか」
「あなたはさっき、『自分の周りでは死ななくてもいい人間から死ぬ』みたいなこと言ってたわよね」
「あー……そんなこと言いましたね」
「じゃあ、あなたにとって死ななくてもいい人ってどんな人? 死んでもいい、死んだ方がいい、死ねばいいのにって思うのはどんな人? 言い換えるなら、生きてる価値があるのはどんな人?」
 向こう側に見える民家の前でおじさんが打ち水をしている。大きな犬の散歩をしている女の子が隣を通り過ぎる。どこかで車のクラクションが鳴ったのが聞こえる。生ぬるい風が吹き抜けて彼女の髪を揺らした。店頭の花もかすかに揺れる。彼女はあいつと同じ顔で笑う。
「……あなた自身はどうなのかしら?」