ポーラスター

 その夜、慧は雨に濡れた道路を自転車で走っていた。夕方の雨が嘘のようにすっきりと晴れわたり、見上げれば夜空の星々が綺麗に見えた。蒸し暑かった日中に比べると、風が吹けば涼しい程度の気温になり、散歩するには気持ちの良い夜だった。街灯の少ない夜道も仄明るいほど月も大きく、慧は爽やかな気持ちになった。日付が変わりかけているような時刻で、学生としてはさっさと帰らなければならなかったが、気分の良い慧はなんとなくいつもと違う道を選んで走っていた。北区の夜は静かで、慧の自転車のチェーンとライトから鳴る、チキチキ、ジイジイ、という音がやけに大きく聞こえる。少し先の交差点の信号が赤に変わったのが見えて、慧はペダルをこがずに緩やかにスピードを落とした。
 しばらく見ない間に高速道路のインターチェンジ降り口近くにあったパチンコ屋が閉店していた。信号待ちの間の景色に何か違和感を感じたのはそのせいだった。普段ならまだギリギリ営業している時間帯だったはずだ。三叉路の交差点に面する立地のため、車では入りにくそうだと慧が常々感じていた店舗だ。かつては賑やかだった駐車場の入り口に張られた立入禁止のロープのたわんだところから、ピチャ、ピチョ、と雨の滴が垂れて水たまりを控えめに揺らしていた。
(ここ、ないなるんやな)
 駐車場の奥の方に工事用の重機が何台か停まっているのが見えた。すでに解体は始まっているようで、建物は一部崩されており瓦礫が散らばっている。人影はなく、しんとしていた。工事のせいなのかもともとのつくりが粗い駐車場なのか路面はデコボコで、あちこちに水たまりができている。
(次は何になるんやろ)
 信号が青になり、道路を渡った慧は自転車を停めて工事現場を眺めた。
 何年も前に慧が引っ越してきた時からここはパチンコ屋だったからあまり想像ができなかった。車やと入りにくいのは変わらんやろうけど、コンビニでもできりゃあ便利やろな、と思う。
 そのとき慧がそこで足を止めたのはただの気まぐれでしかなかった。いつもと違う道を通ろうなんて思いつかなければ、なんとなく中を覗き込んだりさえしなければ――彼女に会うことはなかったのに。

(――?)

 誰もいないはずなのに、慧の耳はかすかな音を拾った。小石の転がるような音だ。視界の中の水たまりの一つにポツリと波紋が生まれたのが見えた。映り込んだ月がゆらゆらと揺れている。崩しかけの建物の近くにある瓦礫の山からコンクリートの欠片か何かが転がり落ちたらしい。耳をすませばまだコンクリート片同士がぶつかっているようなコツコツとした音が静かな夜に響いている。
(野良猫でもおるんかな)
 慧の心は躍った。慧は人並み以上に猫好きである。寄り道をするなら徹底的に、と思い自転車のスタンドを立ててカシャンと鍵をかける。立入禁止の文字に一瞬躊躇ったものの、ちょっと猫を見たら帰りますから……と心の中で知らない誰かに謝りながらロープを跨いだ。
 波紋が起きたのが見えた水たまりのあたりに歩いていく。瓦礫の山は、道路から見るとちょうど重機の影になる位置にあった。いるかもしれない猫を驚かさないように、足音を立てないよう地面を注視しながらそうっとそうっと回り込んでいく。何かが転がったり崩れたりするような音はどんどん大きくなっていく。慧の脳裏では可愛い猫が瓦礫にころころとじゃれている映像が流れている。そのとき、一際大きな音とともに慧の足元に灰色のコンクリート片が転がってきた。近くにいる! と慧は慌てて顔を上げ――そして目を見開く。
 結論から言うとそこにいたのは野良猫などではなく一人の人だった。
 それも、とびっきり美しい。


 月下で踊るその人から慧は目を離せなかった。瓦礫の山のてっぺんにいる彼女は、驚くことにその場で円を描くようにクルクルとターンしているのである。フィギュアスケートやバレエの演技のように優雅でしなやかな回転だった。どうやったらこんな不安定な足場でそんな芸当ができるのか慧にはまるで見当がつかない。そうして踊る彼女の足元から時折こぼれ落ちる瓦礫が音を立てていたのだ。徐々に回る動きがゆっくりになったかと思うと、重量をまるで感じさせないステップで軽くふわりと飛び上がり、空中でも綺麗に二回転した。それは予備動作なしの跳躍にしてはあまりに高く長い滞空だった。さながら彼女だけが宇宙空間にいるようだ。追うように見上げれば、ちょうど彼女が月光を遮りながら月を背負っているように見えた。
 それは人間離れして美しかった。
 見えている景色をスロー映像のように錯覚しながら、慧は、妹が大事にしていたオルゴール箱の細工を思い出していた。ねじを巻いて蓋を開けると、陶器でできた小さな女の子がメロディに合わせて回りながら踊るのだ。妹はそれを大変気に入って繰り返しねじを巻いていたものだった。
 彼女がひらりと再びてっぺんに降り立つと、着地したつま先からバチバチと大きく火花が散って一瞬あたりを照らした。着地しただけで火花などが散ることも、比較的細身で軽そうな女性とはいえかなりの高さから着地したはずなのに瓦礫が揺らがないことも、冷静に考えればおかしな話のはずなのに、慧はそれらをなぜだか不思議だとは思わなかった。一歩も動けないまま、ただただ凝視していた。
 彼女の足元からはまだ不規則に火花が眩く爆ぜ続けている。そのおかげで照らされている間、慧から少しだけ彼女の顔が見えた。顎ぐらいまでの長さの髪の毛は、静電気を帯びたようにあちらこちらへ跳ね上がっている。長めの前髪で目元は見えにくかったが、左目を何かで覆っているようだった。惚けていた慧は、彼女が瑞々しい生足を大胆に曝け出すミニ丈のスカート姿なことに今更のように気づいて、顔に熱が集まるのを感じた。風はないはずなのに、スカートの裾は意思でもあるかのようにひらひらと揺れている。思わず俯いた。こんな角度から見上げていたら、パンツを覗き込んでいると思われるかもしれない。そもそも知らない人をこんなにじっと見つめているの自体が不躾だったと反省したが、その反省は遅かった。
「誰アンタ」
 静謐な空気を割くように慧の頭上から声がかかる。大きくはないが凛としてよく通る声で、疑問の中に明らかな不機嫌さがあった。慧がぱっと顔を上げると、瓦礫の山のてっぺんから見下ろしてくる彼女と目が合った。
 視線が絡み合ったその瞬間、一等大きく火花がはじけた気がした。しかしそれは慧の心の中で起きたものだった。
(なんて綺麗なんやろう!)
 声のとおり彼女はやはり不機嫌そうな表情をしていた。黒い眼帯で左目は覆われていたが、つり気味の片目だけでも相当雄弁に苛立ちを語っていて、こちらにミリ単位も好感のない冷たい表情が放つ圧は畏怖すら感じさせた。重厚そうな眼帯は、慧が昔読んだ絵本の海賊船長を思い出させた。
(もしも両目で睨まれとったら見つめ合っとるだけで死んでしまいそうや)
 慧は瞬きした。絶世の美貌、傾国の美女――というような完成された美しさとも違う。彼女はおそらくまだ慧と同年代か少し上の年頃で、冷ややかな美しさの中にも十代の少女が持つあどけなさを残している。そのアンバランスな未完成さが、より慧を惹きつけた。慧は咄嗟に、こらアカン、と本能的に感じていた。関わったらダメや、深入りしたらきっと取り返しのつかんことんなる、と。
 あっけにとられたような顔で自分を見つめたまま、何も言わない――言えないでいる慧に、彼女は露骨に顔を歪めた。空気がピリと張り詰めたことを野性的に感じ取った慧の肝がスンと冷える。音もなく瓦礫の山から飛び立った彼女が、身構える間もなく慧の眼前に降り立った。相変わらず重力など関係ないような動きだった。関係ないというより、意図的に無視しているようにも思えた。
 降り立った地面に衝撃波が起きたように、パンッ! と小気味よい音を立てて足元の小石がはじけ飛ぶ。飛んできた石が脛にぶち当たり慧は思わず「痛ッ」と声に出した。先程よりはるかに近い位置で向き合った彼女は、慧をねめつけると、不機嫌に引き結んでいた口を開いた。
「声出せるんじゃないの。何あたしを無視してくれてんの? 言葉わかんないわけ?」
 初対面の人間にぶつけられるには辛辣な言葉だった。慧は優しげな見た目とそれを裏切らない柔和な人柄のおかげで、こういった喧嘩腰の言葉を投げかけられることに慣れていない。目を白黒させながら、とりあえず謝らなければ、と思う。「ご、ごめんなさい」と平素より上ずった声でひとまず謝罪を述べると、いきなり選択肢を誤ったのか彼女は余計に目を吊り上げた。背の高い慧の方が見下ろしているはずなのに、相当な迫力があった。圧が凄い。
「ハ? 何に謝ってんの?」
「声かけてもろたのにすぐこたえられんくって。あと勝手に見ててスミマセンッ」
 反射的にシュバッと下げた頭の上から、チッという舌打ちが降ってきた。舌打ちだってされ慣れていない。慧は凹んだ。
「あーあーあー、愚弟も撒いてせっかく気分よかったのに台無し……どーしてこううまくいかないのかしら」
 おそるおそる顔を上げると、彼女は苛立った様子で荒々しく目を細めていた。毛を逆立てた猫を思わせる表情に慧の心は曇り、初対面の女性の機嫌を損ねた罪悪感は募る。長男だと名乗れば誰もが納得するような、責任感の強い少年なのだ。慧はもう一度深々と頭を下げる。
「ホンマに、覗き見るような真似してスンマセンでした。けど、その……あんまりにも素敵やったから。俺、あなたみたいに綺麗に踊る人、見たことなかったんです。アカンと思ったんですけど目が離せなくて。すごかったです。ごめんなさい」
 ほぼ直角にお辞儀をしている慧の視界は地面でいっぱいなはずなのに、先程見つめた彼女の目が網膜に焼きついて離れない。こっそりと左胸に手を当ててみる。脈を確かめるような真似をしたのは久しぶりだった。手のひら全体に自分の鼓動が伝わってくる。……有り体に言えば慧はドキドキしていた。怒られたことが理由でないのは、明白だった。
 ドッ。
 ドッ。
 ドッ。
 感じている。聞こえている。これは心臓の音だ。
 十年前にもこんなことがあった。人生が変わってしまった夜があったことを、慧は忘れられないでいる。
「ハッ!」
 彼女が鋭く吐き捨てる。張り詰めていた空気が一瞬緩んだ気配がした。慧には、耳の近くに心臓があるみたいに、脈を打つ音が大きく聞こえている。暑い……? 温度が上がった? いや、そんなわけない。夜だもの。急に気温が上がったりしない。きっと気のせいだ。自分の体が熱くなったんだ。
 ドッ。
 ドッ。
 ドッ。
 頭蓋を直接ノックされているように鼓動が響く。砂利を踏みしめる音とともに慧の視界に彼女の履いたパンプスのつま先が入り込んだ。心臓が送り出した血液が体中を勢いよく巡っているのがわかる。慧の体はジンジンと汗ばんできた。
「アンタ、バカでしょ」
 言葉とは裏腹に歌うような軽快な声色。慧がゆるゆると姿勢を起こすと、彼女は腰に両の手を当てて夜空を見上げているところだった。そらされた喉とほっそりした顎のラインを慧が目でなぞっていると、彼女は空を見るのをやめて向き直った。顔を戻した反動で前髪が落ちかかったその眼にはもう苛烈な光は宿っていない。うっすらと笑っているようにも見えた。
「はー……も、いいわ。帰る」
 彼女はくるりと踵を返して歩き始めた。パンプスのヒールがカツカツと音を立てる。慧のお世辞でない褒め言葉で、少しばかりご機嫌が回復したのかもしれない。この時の慧は知る由もなかったが、機嫌を損ねた彼女に見逃してもらえるというのは実際のところかなりのラッキーチャンスだった。しかし慧は姿勢よく遠ざかろうとする後ろ姿に焦り、思わず手を伸ばし、声をかけた。
 慧には確信があった。
 目の前にいる彼女こそが、自分がどうしようもない救いを求めていた人物であると。

「あなたが――貴女が、”壊し屋”さんやったんですね」

 その時には慧は全身が心臓になってしまったような気がしていた。その言葉を聞いた彼女は足を止めて振り向く。慧を訝しげに見、眼帯で覆われていない目をすっと細めたが、興奮した慧はそれに気づかなかった。頬は上気し、喉がからからに乾き、指先が細かく震えていた。
「おれ……おれは、あなたに会いたくて、あの、おれ、あなたに――」
 紅潮した顔とうわずった声で語りかけてくる慧に対して、彼女はうんざりした表情を見せた。先程までは爪の先ほどとはいえ僅かばかり穏やかな様子も見せていたが、今や不穏な静けさが二人の間に横たわっている。凪いだ海の雰囲気とも違い、引き絞った弓の弦のようにピリリと張り詰めていて、平素の慧ならとても口を挟めるような空気ではなかったのだけれど、思慮深い慧も今ばかりはそれどころではなかった。
 彼女は否定はせず、ただ鬱陶しそうに返事をした。
「はぁ……なぁんだ、アンタもその手のヤツ? だーからあたしだって好きで壊してんじゃないんだって。壊れちゃうのよ、勝手に。しょうがないでしょ。脆い方が悪いの」
 慧の心臓がさらに跳ねる。やっぱりそうなんや。この人が壊し屋なんや。
 慧は壊し屋に聞いてみたいことがたくさんあった。そのはずなのに何から口にすればいいかわからず、舌がもつれ、「あ」「う」と意味のない音だけがこぼれていった。こんなところで会えるとは思ってもみなかったのだ。イメージが圧倒的に足りなかった。
「おれ……」
「あーもうメンドいからさ、あたしを警察に突き出そうとか、アレを壊してくださいとか、ダルいこと言い出さないでよ」
「そ、そういうんやないんです、えっと……俺はなんていうかその……ファン、ていいますか……」
「ハァ? 何言ってんのアンタ……。初対面なのに意味わかんないっての」
「救われたんです! あなたに。あなたの、行為に」
「あたしは誰のためにも壊してない。なんか勘違いしてない? やっぱバカなんでしょ。……まあなんでもいいわ、興も削がれたし。あたしがここにいたことは誰にも言うなよ。それじゃ」
 どこまでも返答は素っ気ないものだった。本格的に呆れた様子を見せ、彼女は今度こそ慧に興味を失くして立ち去ろうとした。それを見た慧は、手汗で滑る指で財布から一枚の古い紙きれのようなものを引っ張り出し、それを掲げながら無我夢中で叫んだ。
「あのっ!!」
 声量に驚いたのか、去りかけた彼女は再度慧を見た。丸くなった目がキッと吊り上がる。驚かされたことに腹を立てたのか、歯を剥きだすように怒鳴りつけた。
「大きい声出すんじゃないわよバカ!」
 彼女の声の方がよほど大きかったが、そんなことを言っている場合ではない。慧は必死に言葉を募らせる。
「十年前に火事があったんです。俺、十年前にたまたま、火事を見てっ」
「あァん……?」
「これ、その、写真なんです。俺が撮ったんです。あの、遠足の後やったから、使い捨てカメラが部屋にあって、その火事は俺んちの、すぐ近くで、燃えて。俺びっくりして、夜なのに遠くまですごく明るくなってて、火がごおごお言ってて、熱くって」
「だから何? 何の話してんの?」
「野次馬がわあわあ騒いでて、妹は怖がって泣いて、あんまり泣くような子やないんです、そんで皆が一生懸命消そうとしとったけど、その日は風がとてもつよくて、黒い煙がぼうぼう出てて、火がおれんちの方にもくるんじゃないかって、目も乾くし喉もヒリヒリして、それで……それで結局その家は焼け落ちちゃって、そこの子は学年違うし話したことなかったけど、一家みんなで焼け死んじゃって」
「あぁもううっざいわね! なんなのよ、だから!」
 気の短い彼女は怒声を張り上げた。それに呼応するように慧の足元の地面に走っていたヒビが、ビキと音を立てて少し広がる。慧はそれに気づいているのかいないのか、驚いた素振りもなく、どこか途方に暮れたような表情で彼女のことを見据えたまま一方的に話を続けている。彼女は、理解不能なものや意味不明なものを軒並み嫌っていた。今目の前にいるこの少年の言動はその最たるものだ。火事? 写真? よく見えないが、たしかに彼が自分に向けて必死に突き出しているボロそうな紙きれは写真なのかもしれない。だけど、それがなんだって言うのだ? 昔話をし始めてから彼はまるで別人のようになってしまった。幼い子どもが話すように、話は断片的で、要領を得ない。
「それで……その日から、おれ、なんかおかしいんです。おかしくなってしもうたんです」
「知らないわよ! んなことあたしに何の関係があるのよ?!」
 導入が唐突すぎて思わず耳を傾けてしまったが、これ以上は完全に時間の無駄だと判断した。頭のおかしい輩に構っている暇はない。思い切り跳躍してこの場を離れようかと彼女が思っていたとき――今度こそ立ち去られてしまう気配を感じ取った慧が、彼女の名を呼んだ。
「待って! 待って、ください、――伊藤さん!」
 彼女の――伊藤の動きが止まった。一瞬目を瞠ると、探るように慧を今一度上から下まで見た。それでもやはり伊藤の方には慧に見覚えがなく、警戒のこもった目つきになる。
「……なんで、アンタあたしの名前知ってんのよ。あたしはアンタのこと知らないんだけど」
「あ……ビックリしますよね。すんません。友達が教えてくれたんです。”壊し屋”さんは伊藤さんって名前やって、それだけ」
「友達ィ……? 誰よ」
「黄色……あっそれはあだ名やから……」
 しかし伊藤の方はそれでピンときたらしく、表情が激変した。それを見た慧は自分が何かしらの地雷を踏んでしまったことがわかった。とてもじゃないがそれは共通の友人の名前を聞いたときにする顔ではない! 鬼のような形相の伊藤から放たれる圧がビリビリと肌に刺さって、どこか夢見心地でいた慧も完全に我に返った。命の危機を本能で体が感じたからだ。
「アンタ、アイツの知り合い? あ゛ぁクソムカつく!!」
 伊藤は鋭く叫び、瓦礫の山に向かって思い切りよく脚を振り抜いた。慧は武道には詳しくないけれど、”稲妻のような一撃”というのはこういうもののことをいうのだと確信できる鋭さだった。危ない! と慧は思った。残像が見えるような神速のキックは、少女がかたいコンクリートに向けて放つにはあまりに勢いが良すぎた。なにせ彼女は素足にパンプスを履いているだけなのだ。ただではすまない。もしかしたらストッキングぐらい履いていたかもしれないけれど、それがガードの役目を果たすとはとても思えなかった。感情任せの行動で怪我をしては可哀想だ、伊藤は脚のラインだってとても綺麗なのだから。――とまあこれはあとになって思考が追いついてきたことで、実際はそのときの慧にこんなに物事を考える余裕はなく、慧が「危ない」と思う「あ」のあたりで事はすでにすべて終わっていた。
 伊藤の蹴りが吸い込まれた瓦礫の山が、木っ端微塵に吹き飛んだ。爆散した瓦礫が上空にまで四方八方に飛び散り慧にも降り注いでくる。咄嗟に腕で頭をかばった。何個か瓦礫が当たり「痛たた!」と声をあげる。ガラガラガラと音を立てて瓦礫が地面に散らばった。舞い散る砂埃にむせこみながら目を開けると、伊藤はもうどこにもいなかった。
 軽くほうけていた慧は、あたりの事故現場のような無残な状況に我に返ると、慌てて自分の自転車まで駆け寄った。このあたりは住宅地ではないけれど、近所の人たちは派手な音に気づいたかもしれない。このままここにいるわけにはいかなかった。ペダルに足をかけてもう一度振り返ってみたけれど、やはり伊藤の姿は影も形もなく、崩れ去った瓦礫だけが物も言わず横たわっていた。


 「絶対にもっかい会わなアカン」。その決心は心にとどめられず、思わず口をついた。慧は自分の渇望をつよくつよく感じた。焦燥のままにサドルから腰を浮かし、ぐんぐんペダルを回していく。熱い汗がこめかみのあたりから吹き出した。
 風を切りながら自転車は夜を疾走していく。だらしなく開きっぱなしの口から犬のようにはぁはぁと息を吐いて無心で漕ぎ続ける。唾液が垂れるのも気にならなかった。彼を知る人がすれちがえば驚くだろう。心臓はポンプになって全身に熱い血潮を走らせる。もっと、もっと、もっと。知らず慧は身を乗り出して、ハンドルに顎が付きそうなくらいの前傾姿勢になっていた。慧は己の体を通う血潮のごとく一心に進み続ける。握力の限りハンドルを握りこんだこぶしが白くなる。遅刻しそうなときですらこんなに全力でスピードを出したことはなかった。これ以上漕げば車体を制御しきれなくなると頭ではわかっていても止められなかった。
 案の定最後は派手にすっころんで止まることになった。団地の前までたどりついたあたりで、石か何かにつまずいて車輪の向きがそれ、自転車がガクンと浮いた。勢いのままに慧は投げ出され、アスファルトの地面に背中から叩きつけられた。自転車の方もただではすまず、道路に接触した拍子にベルが吹っ飛んだようで、遠くへ転がっていく音が夜の底に響いた。
「いっ…………てえ~っ」
 息が詰まるほどの衝撃に、慧は動けなくなりそのまま大の字になった。急激に動きを止めたことで、呼吸はより一層荒くなった。心臓は痛いほど脈打っている。痛みを逃がすためにも息を大きく吸って吐いてを繰り返した。頭を打たなくてよかったと妙に冷静に思った。打ちつけた背中は痛むものの、痺れもなく、嫌な痛め方をした様子はなかったのが幸いだ。擦ったのだろう腕が追ってズキズキと痛み始めた。瓦礫で受けた傷も混じっている。肘にぬるりとした感触があるのはおそらく血だ。
 雨が乾き切っていないアスファルトに直に接している腕の裏側やふくらはぎがひんやりと湿っていく。熱を吸い取られるようで気持ちが良かった。自然と空を見上げる姿勢となった慧は夜空を見つめる。星は変わらず光っているはずなのに、先程までとは決定的に何かが違ってしまっている気がした。少し頭を動かして団地の方を見れば、すでに寝ついたのだろう家も多く、明かりの透けた窓はまばらで、不思議な模様を描いているように見えた。少しずつ呼吸が整うにつれて頭が冴え始める。まだ興奮は冷めやらなかったが、ようやく物事を考えられるようになってきた。
 目を瞑り先程の出来事を思い返せば、現実の星明りよりまばゆい光が目蓋の裏の闇を彩った。
 俺はどんな星の光よりも圧倒的な光を見てしもうた。ありゃあ稲妻や。落雷のように苛烈で、閃光のように眩しくて。無慈悲に不誠実にただそこに破壊を齎す力。意味もなく、理由もなく。闇ではじけた雷光はやがて火となり炎に変わっていった。あの火事の日の炎だ。何もかもを焼き尽くしてしまうもの。俺の心の中であの日から一度だって消えてくれないもの。
 たまらず目を開くと、星空が滲んだようにぼやけていて、アレッ、と思ったけれど、それは目に涙があふれていたからだった。汗だと思った熱い滴は涙だった。怠い腕を持ち上げると、パラパラと細かい砂が剥がれ落ちた。手の甲で涙をぐいと拭い、何度か瞬きをする。慧はポケットにしまっていた携帯電話と財布のことを急に思い出し、慌ててポケットを探った。吹っ飛んだり破損したりせずになんとか無事にそこにあってほっと息をつく。
 ついでに財布から大事な写真をまた引っ張り出して眺める。幼い慧が使い捨てカメラを震える手で握って撮った写真には、画素の粗い火事現場が写っている。初対面の女性に嬉々として見せるような写真でないことはたしかだった。下手くそな写真だが、それでも鮮明な炎の迫力が慧には伝わってくる。御守りのように財布にしまって肌身離さず持ち歩いているこの写真は、同じ区の子どもが死んだ火事の写真を撮っていたなんて不謹慎で誰にも見せたことはなかった。降ってきた瓦礫に驚いたときに端っこを少し握りつぶしてしまっていたことに気づいて皺を伸ばす。
 あのとき伊藤には、壊し屋の彼女にはこの写真が見えただろうか。見えていたとしてもきっと何のことやらわからなかっただろう。慧の話だって、全然意味伝わっていなかったに違いない。(それで……その日から、おれ、なんかおかしいんです。おかしくなってしもうたんです)まるで幼いあの頃にトリップしてしまったような、拙くお粗末な己の語りを思い出して思わず苦笑した。熱に浮かされた譫言と変わらない。順を追って説明しようとするあまりろくでもないプレゼンテーションになってしまった。
 時間も遅いし、体も痛いし、そろそろ起き上がって、自転車を起こして、家に帰らないといけない。風呂入って寝な。そう思っているのに体が動かなかった。知り合いが通りかかったらぎょっとするやろうなと他人事のように考えながらも、手に持った写真から視線を外せなかった。慧がじっと見つめていると、写真に写る炎が浮かび上がって踊り始める。夏の夜の闇にまぎれる慧の顔をぼおっと照らし、輪郭のはっきりした頬にはたしかに熱を感じる。汗が乾いていく。屋根が燃えながら轟音とともに崩れ落ちる様。熱い風とともに撒き散らされた煙のにおい。泣いていた妹。誰も消せなかった炎はグラグラ動いておばけみたいに見えた。慧はすべてをあの日の温度のままに今も思い出せる。思い出すたびにむせこみそうになる。あの日から、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。気が遠くなるような回数、繰り返し巻き戻して再生してきた景色だ。

「俺なあ、火事に興奮すんの。抗えないぐらい。性的に」

 慧の口から思いがけずぽろりと言葉がこぼれた。この場にいない伊藤に向けて話したかったことが、今になって溢れてきた。ずっと、誰にも言えなくて、心にずっと閉じ込めてきたこと。友人に協力してもらい、己を傷つけてもらってでも無理やりに押し込めてきた衝動だった。
「火事に、って言うたら厳密にはちょっと違うんかもしれん。火事が一番ええけど爆破とか雪崩とかでもええんよ。あの火事の日から俺は、劇的に無慈悲に暴力的に失われゆくものに、たとえようもないくらい感動と興奮を覚えてしまうようになった。自慰、するときンだって、綺麗なネエちゃんよりあんときの火事想像する方が断然調子がイイ。この写真はオカズなんですわ。ハハ」
 平素の慧であればしないような自嘲的な笑いが漏れた。
 いつだったか、このろくでもない胸の内を友人に打ち明けてみようかと思ったこともあった。結局かなわなかったけれど、慧は目の前にいない友人に向かって、懺悔を始めた。
「ごめんなあ、猫背、俺が美術室に通ってるのはオカズ探しみたいなもんなんや。おまえいつか俺がいつもみたいに本見てたとき言ってくれたな、『よっぽどそういう細かい造形の建築物が好きなんだな俺もその装飾のとこ結構好き』ってさ、俺嬉しかったよおまえが話しかけてくれてな、おまえっていつも難しい顔しとるし俺って制作の邪魔しとるんちゃうかなあって気にしとったからさ、な、違うんや、ごめん、サイテーやろ、俺は平気な顔して頷いたなあ、『そうそうこういうの好きなんや』ってさ。……こんなん思ったらアカンってわかってんのに。俺は建物が好きなんやない。正確に言うたら、ああいう完璧で美しい建造物が焼け落ちるところを想像するのが、どうしようもないくらい好きなんよ。歴史もあれば尚最高や。失われたものに取り返しがつかなければつかないほど……イイ、んよ。焼かれて、崩れ落ちて、枠組みだけ残って、そんなもん最初っからなかったみたいに扱われて……。まじめに部活やっとる友達の横で俺はいけしゃあしゃあとそんな空想に耽っとった。最悪やろ。嫌なんよ、本当は。こんな不謹慎なこと……ちゃんと頭ではわかってる、火は怖い、火事は恐ろしい、なーんも残らん。火ぃなんかつけたらあかん。でも、俺にとっては夕焼けとか花畑と同じくらい、いやそれ以上に美しいものなんよ。どうしようもないんよ。美しいもん。綺麗なんやもん……。俺は怖いんよ。いつか自分でその景色をつくりだしたくなるときがくることが怖い。写真だけじゃ、映像だけじゃ、思い出だけじゃあ我慢できなくなる日が来ることが怖い。やから俺はね金を貯めてるんや。いつかのその日のために。自分の理想の家が、愛する建築物が、塵も残さず跡形もなく燃え尽きる様をこの目に焼きつけるために。まあ、ほら、自分の家ならさ、燃やしたって人にかける迷惑の度合いが違うやん。ちょっとは許されそうな気ぃせえへん? いやいや、自分ちが燃えるなんて、そんなん、嫌なのに。家族も呼んで死ぬまで住みたいやん夢のマイホーム。ローンまで組んどいて焼けたら嫌に決まってるやんか。俺は気が小さいからさ、きっと契約書にハンコ押すとき手が震えてまうんよ、そのくせ細部までこだわって設計に口出してさ、完成したら嬉しくてちょっと泣いちゃうかも。そんで愛着もって暮らしてさ、たまには友達呼んだり、もし子どもができたりしたら、柱に背ぇの高さの傷つけたりしてさ、そういう、思い出いろいろ積み重ねてさ。そしたら、そしたら……。あぁ嫌や、大事な家や、なくなってほしくない、本当なんよ、やのに想像するだけでわかってまうんや、その日がきたら、きっときっと、気が狂うよな快楽を得られるって。その場で雷に打たれて死んでまうような、そんな、そんなのが。ああ、ああ、すみません、こんな気持ち持っててすんません、捨てられなくてごめんなさい、変われないまま生きててごめんなさい。なんでなんやろ? ねえ、ゆるして……」

 だから慧にとっては”壊し屋”は気になる存在だった。あんなふうに、自由に破壊を行う人というのはいったいどういう人なのだろう。どうやってそれを可能にしているのだろう。単にできるできないという能力の問題だけではない。慧が鉄壁の精神力で最後の一線を超えずに踏みとどまっているのに、壊し屋は易々と破壊を繰り返す。捕まったらどうしよう? と不安に思ったり、罪悪感を感じたりはしないのだろうか? 壊せるという思考の構造はどういったものなのだろう。会いたい。話を聞かせてほしい。想いは募った。
 慧は理性的であり正義感もある人間なので、罪を怖れる心も、無差別な破壊行為を許せない気持ちも持ち合わせている。しかしながら、壊されたものを見るたびに、咎める気持ちの反面救われたような気持ちを味わっていた。満たされるにはまるで足りないけれど、破壊の残骸は、煙の充満する慧の胸のうちに少しばかり風穴を開けてくれた。まるで慧の衝動を、知らないうちに代わりに発散してくれているように思えた。都合のいい解釈だとはわかっていたけれど、この街のどこかにたしかにいるその誰かの存在に、救いを求めずにはいられなかった。いけないこととわかっていても、次の破壊行為をひそやかに願わずにはいられなかった。……そして、思わずにはいられないのだ。
 ――俺も、そうできたなら。
 思うたび、慧の善良な心は苦しめられた。振り払っても振り払っても、その感情はじわじわと慧を蝕んでくる。また黄色を呼ばんとなぁ、と慧は思った。欲望を捨て去ることもできず、かといって染まりきることもできない。そんな自分の存在そのものに対して募る罪悪感を、黄色との行為は少しだけ和らげてくれる。罰しておくれ、断罪しておくれ、赦しておくれ。
 慧は声を殺して泣いている。

「どうかしちゃってるんよ、おれ。」