道連れ

 サクが運転している貨物用の軽バンは俺たちが子どものころから使われている代物で、走行距離はもう十五万キロ以上にもなる。年季のせいでエアコンも壊れかけているのか、今もぬるい風しか出てこない。窓を開けていた方がいくらか涼しいのではないかと思うぐらいだ。よく見るとシルバーの車体には傷や小さいヘコみが随所にあるし、錆も浮いている。素人目に見ても次が最後の車検か、廃車になるのが先か、というような有様のオンボロ車である。今となってはこうしてサクがたまに乗る程度なのだけれど、サクは物を大事にするタイプなので、洗車や空気圧のチェックを結構こまめにやっている。
 バンはガタガタと揺れながら国道を走っている。たまたま学校の外で出会ったサクはエンジンオイルの交換をしに出かけるところだというので、前から南区に行きたいと思っていた俺もついでに乗せてもらうことになった。おまえ血相変えて走ってたから何事かと思って思わず呼び止めちまったよ、というサクには笑ってごまかした。後輩から逃げていたなんて言えない。
「なんかヘンな音がすんな。もういよいよダメかもなあ」
 サクがぼやきながらシフトチェンジをする。
「寿命?」
 俺が聞くと、サクはうーんと唸る。直るんなら直してやりたいけど、たぶん修理費高いから払えねえだろうな、と寂しそうに呟いた。車内では雑音まじりにカーラジオが流れていて、少し舌っ足らずなDJが曲紹介をしている。退屈なリクエスト・エピソードのあと、最近始まったTVドラマの主題歌が流れ始めた。おっいいね俺この歌結構すきなんだよ、ドラマは面白くなかったけど、とサクが鼻歌でイントロをうたった。
「うちの畑もなくなって昔みたいに荷物乗せるわけでもないし、別にもう車が必要な生活でもないってわかっちゃいるんだけどな。4WDで燃費も悪いしこれ」
「サク原付持ってなかったっけ? 最近はあっち使ってると思ってたけど」
 そう聞くとサクは途端に嫌そうな顔をした。染め直したばかりと思しき金色の髪が日光を反射して俺の目を焼く。
「ああ……あったよ。あれなバカが勝手に乗って壊しやがったんだよ。そのまま廃車。今思い出してもムカつくぜ!」
「えっマジ? あっちが先に壊れたんだ……バカって誰、友達とか?」
「あんなもん友達じゃねえよ!!」
 サクが声を荒げた。
「めちゃくちゃ喧嘩になったんじゃねーのそれ?」
「あぁ……」
 珍しく歯切れが悪いので、おや? と思った。
「……短気は損気って、学んだんだ、俺も。グッと堪えて許してやったんだよ」
 そういう横顔はどう見ても穏やかではなかった。眉間に皺を寄せて前を睨みつけ、ギリギリと奥歯を噛んでいる。少なからず驚いた。俺が知っているサクなら絶対手が出ていたはずだから。ちっさい頃からサクは女の子みたいな名前をからかわれることが多くて、そのたびにすぐ怒っては喧嘩していた。サクが嫌がるから、いとこの俺でも名前ではなくて名字からとったあだ名で呼んでいる。桜井だからサク。サクは相手が年上だろうが不良だろうが大勢だろうが構わず殴りかかっていくぐらい短気で無鉄砲だった。喧嘩っ早い癖に無敵かといえばそうでもなく、普通に返り討ちにあっているところもよく見た。
 そんなサクが、原付を壊されても我慢するなんて、あまりイメージができない。
「ふーん……」
 なんとなく腑に落ちなかったが、サクが大人になったということなのかもしれない。反抗期が終わった? 感情のコントロールや手加減を覚えた? 時間が経てば、人は変われるのだろうか。そういうふうにできているのか。……俺も? 俺もそうなんだろうか? これが単なる疑問なのか期待や希望の類なのかわからない。
 サクは人差し指でせわしなくハンドルをトントンしている。
「向こうで暮らしてる間に知り合ったやつなんだけど本当に最悪だ。俺がこっち帰ってくるのに合わせたみたいにこっちに拠点移しやがってさあ、おかげでまーだ顔合わせなきゃなんない」
 サクはイライラしているようだが運転に影響が出ることはなく、バンはスピードを落として緩やかに左折していく。目的地であるところの、サクの馴染みのガソリンスタンドは南区のショッピングモールの近くにある。平日の夕方ということもあり、社会人の帰宅時間と重なり始めたのか、南区へ向かう国道はそこそこ混んでいた。日は傾き始めているがまだ十分に明るい。サクがアクセルを踏みこむとエンジンからグウンと音が響いた。その音量のわりにスピードは上がっていない。意識して音なんか聞いてなかったけれど、たしかに調子が悪いのかもしれない。
「でも嫌な話だな、弁償とかしてもらってないの?」
「ナイナイ、ぜーったいない。罪悪感もない、これっぽっちも」
「マジか。悪びれもしないのはヤバいな。たしかに友達にはなれない」
「あー相ッ当イカれてる。しかもそいつら双子なんだ。鬱陶しさは二倍じゃきかないけどな」
「双子?」
「そう、男女の双子でな、俺によく絡んでくるのも原チャリ壊したのも弟の方なんだけど、ぶっちぎりで怖えーのは姉の方だな。誇張抜きで化けモンだよ、俺マジで街で会いたくねーもん」
 嫌な予感がした。次の交差点の信号が黄色に変わる。サクがちぇっと言いながらシフトダウンし、エンジンブレーキをかける。花火大会の日の記憶。男女の双子。曰く人類最高の姉を探していた気味の悪い弟。俺たちは二人で一つ、でも一人が二つ……。宇宙人のような姉弟。信号は赤になった。
「そいつもしかして伊藤って名前じゃない?」
 バンが急にとまった衝撃で俺は少しつんのめった。シートベルトが食い込んで、喉の奥からグエッと声が出た。ダッシュボードに置いてあった箱ティッシュもはずみでラバーマットの上に落ちた。赤信号で停止したというには停止線の手前すぎる。後続のセダンも俺たちがここで止まると思っていなかったのか急ブレーキをかけたらしく車間距離が異様に近い。ルームミラーにはドライバーの驚いた顔が映っていることだろう。
「びっくりした」
 端的にそう呟いて運転席を見るとサクの方がびっくりした顔をしてこっちを見ていた。目を見開いているせいで黒目が小さいのがよくわかって、三白眼が際立っている。その表情のまま俺の方に軽く身を乗り出してきた。
「びっくりしたのこっちだっつの! そうそいつ、俺が言ってんの伊藤のこと。なにおまえ知り合い?」
「いや……うーん、弟の方に一回声かけられただけだけど。姉ちゃん知らないかって。なんだか不気味なやつだったよ。姉貴の方は……見たことないな」
 サクのリアクションは伊藤のことを黄色に聞こうとしたときの俺のようだった。あっけにとられていると、後ろから控えめなクラクションが聞こえた。気づけば信号が青になっている。サクがハッとしてギアを入れアクセルを踏んだ。サクはハンドルに向かって深く深くため息をつく。
「よかった、あんまり関わり合いにはなってないんだな。うん……その……その印象のままでいい。ろくなことにならねーから。俺はそのことに気づくのが遅すぎたから、なんていうか、もう知り合っちゃったっつーか、友達になりかけたっつーか、縁が腐ったっつーか……まあそんな感じで、今更無視もしづらいような関係になっちまったけど。アイツとそんなことになっちまったのは今んとこ俺の人生最大の不幸だし、このままその記録は更新されない気がしてならん」
 俺の知る限りサクはわりと不運な方の人間なのだけれど、そのサクが最大というのであればそれはおそらく相当なもんだ。たしかに俺から見た伊藤もかなりの変わりもんだった。ほんのわずかな時間での邂逅だったがあのときの雰囲気を思い出すと鳥肌が立ちそうになる。チンピラ……というのともまた違うんだろうが積極的に関わりたくはない人種だ。
「うまく説明できねえけど、こう、常識的じゃアないんだよ。バカなんだ二人とも。バカだし理不尽や横暴を押し通す力があるから余計手に負えねー。どっちもアレだけど姉貴に関わるのはさらにマズい。姉貴は左目に、なんっつうのかな、アレ、ものもらいんときとかに目ぇ隠すやつ、武将でもアレつけてるやついんだろ、えーと……」
「あー、が、眼帯?」
「そうそうソレ、左目見えねーらしくて眼帯つけてることが多いから、それらしい女見かけたらとりあえず逃げろ。そいつの視界に入るな」
「眼帯ね……」
 覚えとこ。サクの注意事項はなおもつらつらと続く。
「もし出会ったり万が一揉めたりしそうになったら絶対俺に相談しろよ。で、最悪からまれても俺の身内ってことは黙ってた方がいい、俺との関係がバレると因縁つけられて余計面倒なことになると思うからよう……」
「わかった。サンキュ」
 今カーラジオから流れている歌は、洋楽には全然詳しくない俺でも知っているような有名な曲のはずなんだけど、さっきからタイトルが思い出せない。今日はこの曲でお別れです、それではまた来週のこの時間に、とDJが続ける。電波が悪いのかラジオが悪いのか雑音がひどくなり、肝心なタイトルが聞き取れなかった。
「なんだっけこの曲」
「んーなんだっけな。音楽の教科書にも載ってたやつだ。サビで繰り返されるフレーズがタイトルじゃなかったか? あ、おまえどこでおろしてやればいいの?」
「あー、スタンドまで行っていいよ。そっから歩いていけるし」
「でも暑ィだろ。目当てが西館か東館か教えてくれたら駐車場まで寄せるぞ? どうせ車なんだから途中どっか寄ったってそんなに手間かわんねーし、遠慮すんなよ」
「さすがサクやさしーな。じゃ東館の前まで頼むよ」
「オッケ。何買うんだ?」
「絵の具」
「絵の具? あァおまえ美術部だっけ。画材も売ってるデケー文房具屋あるもんな、一階の本屋の横らへん、あそこ目当てか」
「そ、部活用の買い出し……」
「最近も描いてんの、絵」
「まあ」
「ふーん」
 サイドミラーを流れていく景色を見ているふりをした。絵について深入りされなくてなんとなくホッとしたものの、その後思い出したように付け加えられた質問にドキッとした。
「でもおまえんちの近くさ、フツーに画材屋あんだろ。商店街の、ほら、神社の裏手んとこらへんの……あるよな? しかも同級生んとこの店だっつってなかったか? そこは潰れたんか?」
「や……、えっと、営業してるよ」
「ならわざわざンなとこまで来なくてもそっちで買ってやりゃいいじゃん。近いし、店の儲けにもなるだろうし。そいつも喜ぶんじゃねえの?」
 息を吸う。大丈夫。後ろめたいことも深い意味もない、落ち着いて答えればいいだけだ。なるべく軽い声になるよう意識して返事をした。
「ああ、でもやっぱりちっさい店だからさ。そこじゃ取り扱ってない色とかメーカーがあるんだ。俺が今回買いたい絵具ってちょっと珍しい色なもんで、置いてるところが少ないんだよ。だからなるべく大きい店に行きたいわけ。商店街の方に買いに行ってもあれはあるけどこれはないってなると、結局こっち探さないといけなくなるし領収書も別になって面倒だし、それで毎回最初からこっちまで買いに来るんだよ。それにさ、その店のやつも美術部だから、あんまり自分ちの店で備品買ってるとヘンに思うやつがいるかもしれないだろ? 絵具代は部の活動費として学校が出してる経費だし。妙な疑いをかけられてもお互い困るからさ。売上に貢献できなくてマッシロには悪いんだけど」
「マッシロ? ……あー、あの店の子か。色の話してんのかと思ったぜ。そーいやあっこは眞白画材っつーんだったな。思い出した思い出した。……なーんか色々気ィまわして大変なんだな」
 納得したサクは特にそれ以上何も言わなかった。俺が言ってることは別に嘘ではないから話に破綻はないし、当然っちゃ当然だ。俺はサクを騙しているわけじゃない。だから罪悪感を感じる必要もない。それらしい理由をあれこれ並べ立ててはみたけれど、俺の話は嘘ではない代わり本当でもない。語られなかった部分の方が、真の理由だからだ。
(……ただ行きたくないんだ、なんて)
 しかめっ面はさしこむ西日が眩しいせいだと思ってほしかった。誤魔化すように頬杖をついて外を眺める。また信号にひっかかった。そのときふと気づく。
「あれ?」
 対向車線側の郵便局の近くを歩いているあの高校生は、ハツじゃないだろうか。うちの学校の夏服セーラー。肩より上で切り揃えられた黒髪、小柄で細身な後姿。……やっぱりハツだ。あの格好、学校に行こうとしていたのは本当らしい。なんでこんなところにいるかはわからないが、とりあえず無事そうじゃないか。よかったな、撫で肩に報告してやろう、と携帯電話を取り出したが、よく見るとハツの隣には連れがいる。サクが窓の外をじっと見ている俺に気づいて怪訝な反応をした。
「どした?」
「や、あそこ歩いてるの同級生の妹っぽくて」
「あの男連れ?」
「やっぱそう見えるか?」
「喋ってるし知り合い同士だろ」
「うーん……」
 そう、ハツと歩いているのは大人の男だった。180センチはゆうにありそうだ。かっちりとした服装をしている。姿勢が良く、車道側を歩く姿は颯爽とした印象を与えてくる。少なくとも学生ではなさそうだし、俺の知っている人間ではない。ハツが学校をサボって年上の男とデートしている……なんて絵面はまるで想像もしていなかったが、まさかの展開だ。
「あの子、今日学校来てなくてさ。兄貴がえらく心配してたんだ。声かけようかと思ったけど取り込み中かなアレ」
「学校フケて男とデートってか? 近頃の女子高生は大胆不敵だな」
「俺の知ってる後輩でもあるんだけど、そういうタイプじゃないんだよなー」
「ふうん? まあ、嫌がってる素振りもないし誘拐やナンパって感じでもなそうに見えるな。なんにせよ行方不明とかじゃなくてよかったな」
「たしかに。通り過ぎるとき相手の顔見てやろうっと」
「俺も」
 信号が青になった。走るバンと歩く二人の距離が近くなる。すれ違ったときに見えたハツはいつもどおり口を真一文字に結んだ無表情でまっすぐ前を見ていたし、男の方はハツとは正反対に何か楽しそうに話しているようだった。一瞬しか見えなかったが、目鼻立ちのはっきりしたハンサムな男に見えた。仮にデート中だとしたら、視線すらくれてやらないハツの態度はなかなか冷めたもののように感じる。っていうか男の方は彼女があんな態度だったらショックなんじゃないだろうか。もし俺があの男の立場なら、ハツに対してあんなふうにテンション高く話し続けることはできない。それかハツがポーカーフェイスなだけで内心すごくはしゃいでいたりするんだろうか? そこも理解しているほど深い仲なんだろうか?
「……なんか全然そんな甘い空気っぽくなかったな」
 サクも概ね同じ感想だったようだ。
「うん。たまたま出会った知り合いとかかな。あれなら声かけてもよかったかもしれん」
 メール画面を開く。『南区の郵便局の近くで誰かと歩いてるハツを見かけた。車ですれ違っただけだから話はしてない』と打ち込む。俺は文字の入力が遅いので、それだけの文章を打つのにもなかなか手間取る。そうしている間に次のラジオ番組が始まり、オープニングの一曲が流れ始めた。「あ」とサクが反応する。
「俺この曲知ってる。へえ、ラジオなんかで流れるの初めて聴くな」
「新曲ってこと?」
「いやその逆。相当古い歌のはずだな。どっか英語圏じゃない国で流行った歌でさあ、日本じゃあんまり有名じゃないと思う。俺も英訳版しか聴いたことないし、いつ聴いたのか思い出せねえや。けどなんていうか、メロディが覚えやすいのかな、印象に残ってて今も覚えてんだよなー」
 聴こえ始めた歌声はいくつか聞き取れる単語があったのでどうやら英訳版のようだった。どのみち英語が苦手な俺は何について歌っているかわからないけれど、軽快な曲調と時折聞こえるLOVEという言葉から、よくあるラブソングなんだろうなと思った。メール送信っと。


「ずいぶん懐かしい歌が流れていたなあ。ハツちゃんの年の子も知っている歌だろうか? どこだったかな遠い国の古い言葉で歌われている歌なんだが。 ……知らない? そうか残念だなあ。オレはこの間奏の口笛の部分が好きでね、よく練習したんだ。上手に吹けないけどね。軽やかなリズムだけれど、意外にもこの歌は恋人と無理心中をたくらむ男の歌なんだ。いや、恋人ですらなかったかな。想い人が手に入らないことが気に食わなくて、それならいっそ一緒に死んでしまおう、というような意味合いの歌詞なのさ。オレが初めて聴いたのが中学生の頃で、このノリのいい曲調を気に入って和訳を調べて、驚いたよ。男はお気に入りの一張羅に袖をとおして、とっておきの景色の場所へ、大好きな愛車に乗って出かけていくんだ。何も知らない彼女と一緒に死ぬためにね。オレは自分自身の主義として、悲しい歌は歌わないことにしているんだが、果たしてこの歌はどうしたものかと当時は悩んだんだ。全滅エンドは愛情が原動力でもハッピーと呼べるだろうか? ひとつの愛のかたちなのだろうか? ってね」
 ハツはなかば感心していた。合流してからもう半日以上になるが、ほうっておいても天野がずっとこの調子でいくらでも話し続けるからだ。終始ハツにとってはどうでもいいような話題ばかりで、ハツからは適当な相槌か生返事のようなものしか返していないのに、気分を害する様子もなくペラペラと流れるように言葉を紡いでいく。通り過ぎたガソリンスタンドでたまたま流れていたラジオの曲の話題でよくここまで話せるものだ。ずっとこの調子なのかと思うと、徒歩移動とはまた別の疲労を感じる。
「今もオレには答えがでないんだ。だから折衷案としてとりあえず鼻歌でしか歌わないことにしている。なあ、その、ハツちゃんもそんなふうに思えるほどの恋をしたことはあるかい? 殺してでも手に入れたいと感じるほどの、魂を焦がすような愛を感じたことは……?」
 ハツはおや? と思った。妙にうわずったというか、天野は少しそわそわとしている。急にどうしたんだろうと不思議に思ったが、ハツはなんとなく察してしまった。天野は歌の話がしたかったのではなくて、ハツと黄色の関係を遠回しに聞きたいのだ。もちろんハツに気があるからではなく、彼が「イエローくん」と呼ぶ旧知の友人の恋愛模様が知りたいのだろう。やはりガンツーでの一件であらぬ誤解を生んでいたらしい。誤解自体は不本意だったが、まるで子どものような探りを入れてきた天野のことは可愛らしいと思わないでもなかった。
「そうですね。彼のためなら死ねるかも。彼となら地獄におちてもいい。うーん逆かな、彼一人だけが幸せになるなら許せないから、それなら一緒に地獄におちてほしい。我儘なので、私。その歌には共感できますね」
 からかうつもりでそう返して天野に目をやると、ハツがまともに答えると思っていなかったのか内容に驚いたのか、口をポカリとあけた間抜け面をしていた。ハツと目が合うと、目がぐずぐずと泳いだ。
「そっ、そうなのか、クールなコかと思っていたけどハツちゃんは情熱的なんだなあ。愛は素晴らしい。イエローくんもそんなに想われて幸せ者だ。うんうん。けど、けどなハツちゃん、オレにとっては君たちふたりとも大切な友人だから、その、死んでしまうのは最終手段にしてほしい、差し出がましいようだがそうなる前に一度オレに相談してもらえないだろうか、オレはイエローくんにも君にも死んでほしくはない。それで君たちが幸せなのだとしてもだ……第三者のオレが口を挟めることではないのかもしれないが、それでも……」
 落ち着きなくハットを触りながらうろたえたように話す天野に、ハツはこらえきれず笑ってしまった。死んでほしくない大切な友人という響きが照れくさかったのもある。出会ったばかりの自分が天野の中でいつの間にそこまでランクアップしたのか。黄色にいたっては、向こうからは心底死んでほしいとまで思われている報われなさだというのに。
 なんで笑われたのかわからないという顔をしている天野にハツは教えてやった。
「あのねェ冗談ですよ、冗談……。私は恋なんかしたこともない。あの先輩と私はアンタが想像してるような関係じゃない。あっちが私の兄の同級生で、あのときたまたま同じゲーセンにいたってだけ。喋ったのもあんときが初めて。どちらかというと気も合わないと思います」
 天野はきょとんとしていたが、空を見上げて「こりゃあ一本取られた!」と大きな声で笑った。だからいちいちリアクションが芝居がかってンですよとハツは内心呆れた。
「イエローくんから恋バナを聞いたことはなかったから、無粋と知りつつ気になったんだが、そうくるとはなあ。真面目な顔をしているからすっかり騙されたよ。思い込みが激しいのが悪いところだと彼にもよく注意されていたのに、早合点の癖はなおっていなかったようだ。これではまたイエローくんにバカにされてしまうな」
「ずいぶん仲が良かったんですね?」
 今度はこちらからも探りを入れてみようと思い、ハツはさりげなく切り出してみた。天野は嬉しそうな顔をした。天野は本当に嬉しそうに笑う。晴々の名に恥じない、太陽のような笑顔だ。
「ああ、イエローくんはオレの助手だからな。しばらく会ってなかったが今でも仲良しさ。イエローくんは素直じゃないところもあるが、感情豊かでまっすぐな子だ。いろんなことに気づくし、知恵がよく働く。何度も彼の賢さには助けられた。自慢の助手だ。名探偵には良い助手が必要だからね」
「へー……」
 ハツから見た黄色は、たしかに感情豊かで頭の回転は早そうだけれど捻くれた意地の悪い男でしかなかったので、よくもそこまで好意的に解釈できるなあと思った。イエローくんに聞かせたらどんな顔をすることやら。ハツはなんともいえない気持ちになった。彼らの拗らせた関係性が憎み合いでないことがかえって悲しいかもしれない。天野は黄色との間にある友情を信じているままなのだ。肝心の黄色は最初から利用しようとして近づいてきたうえに、勝手に畏怖して殺意すら抱いているのに。天野の思うままの『イエローくん』は本当はどこにもいないのに。彼らの間にあるどうしようもない齟齬を思うと、なんだかかわいそうな気がした。
「しかしハツちゃん、君はもう一つ嘘をついただろう?」
 心当たりがないハツが「え?」と言うと、天野は悪戯っぽく微笑み、妙に勝ち誇った顔をした。それは推理を披露する探偵の顔だった。

「『恋をしたことがない』、と。――それは嘘だ。一緒に地獄におちてほしいと言った君の言葉は真実だ。あのときの君の横顔はたしかに誰かを思い浮かべていたよ」

「…………」
 そんなはずない。
 とハツは思った。けれど言葉に詰まったその沈黙を肯定ととったのか、天野は慈愛をも感じる微笑を浮かべて「君の恋路に祝福があるように。ゴッド・ブレス・ユー、ハツちゃん」と内緒ごとを話すように言う。ささやくように、歌うように。
 だからアンタは言ってるそばから思い込みが激しいんですよなんでも色恋沙汰に結びつけたがってどっちが女子高生だかわかりゃしないと、そう言いたかったのに、黄色との関係を誤解されたときのようにそれは捨て置いておきたくない勘違いだったのに、ハツが自分でも驚いてしばらく声が出せなかったのは、一緒に地獄におちてほしいというのが本心だと指摘されたとき最初に思い浮かんだのが青野だったからだ。初めて彼を美術部員だと認識した日、夕日満ちた美術室でただ一人立っていた青野。
 断じて恋ではなかった。
 まるで自分だけが地獄にいるような形相で絵を描いていたあの日の青野に想うことは。
 たしかに鮮烈だった。春雷が如く。そんな顔をしてまで、何を思い、何を描いているのか知りたいと思った。興味がゆえの観察対象に近い。いうなれば自分は傍観者の立場だ。ほうら、冷静に分析できた、こんなもの恋慕の感情とは程遠いじゃないか――と思うのに。
(一緒に地獄におちてほしいわけじゃない。だってあのひとはすでに勝手に地獄にある。そういう顏をしていた。ならば、それでも良いと思うこの気持ちは? 好きなら幸せになってほしいと願うもんじゃないの? そう、だって私は……)
 楽にならないでほしい。
 もっと苦しんでほしい。
 何かを諦めないでほしい。
 ハツが青野に抱くのはそういった類の感情だった。そういうふうに絵を描いている青野を見るのが好きだった。どうか地獄にい続けてほしい。距離感をはかりかねている後輩からそんなひそやかな願いを持たれていることを、青野は知る由もない。恋をしたことがないハツでも、その粘ついた泥のような願望が、先輩に向けるには少々不適切な感情であることぐらいはわかる。ハツは自覚すらなかった想いを恋だの愛だのハッピーだのとひとくくりにはできなかった。歌にすることも到底できそうになかった。ハツの薄い唇の端が歪む。
「アンタはあるんですか? 恋をしたこと……」
「俺は皆を愛しているよ」
 よどみもためらいもない答えだった。ハツは思わず鼻で笑ってしまったが、天野は機嫌良さそうに笑うだけだった。
「ねえ、歌ってみてくださいよ。さっきの歌」
「え? でもなあ……」
「歌っても大丈夫ですよ。あれは悲しい歌じゃないですから」
「そうかい? ハツちゃんがそう思うのなら、君には歌ってあげよう」
 天野が歩きながら歌い始めた。思ったより大きな声量で朗々と歌うので、通りすがる人たちが驚いたように振り返ってはすぐに目をそらした。素面で昼間からこんな大声で異国語で歌いながら歩くような男とは誰も関わりたくないのだ。ハツは同類だと思われるのが嫌で、天野に気づかれない程度に少しだけ距離をとった。天野の方はそういった人目はまるで気にならないようだった。
 天野の歌は語尾の上がり方が独特で、音程の取り方はお世辞にも上手というほどではなかったが、よくとおって耳に残る綺麗な歌声だった。存外心地よい歌声にハツも面食らう。黄色もよく歌を聴かされたりしたんだろうか? 天野は後ろから見ていても伝わってくるほど気持ちよさそうに歌っている。あまりに堂々としているので本人の胡散臭い正装も相まってミュージカルの一幕に見えなくもない。本人の意志どおり、愛と希望について歌うのが似合う男なのだろう。
 ハツは目を閉じて、地獄に青野を迎えに行く想像をする。それは悪くない未来かもしれないと思った。