狂っている

 狂っていると言われたことが一度ある。何年も前の話だ。俺は小学生で、ヨル子さんがまだこの街にいた頃のことだ。狂っていると直接言葉にして告げたのは黄色。そして目でそう告げたのは他でもない、愛しいヨル子さんだった。
 目は嘘をつかない。俺はそれをよく知っていた。だからこそ、俺を見たヨル子さんの目は俺の中にたちの悪い火傷みたいに焼きついていて、触れると今でもじわりと痛んだ。

「猫が、死んじゃった。私が死なせてしまったの」
 風さえ吹かない暑い日だった。
 すべてを腐らせるような熱量を孕んだ日差しが遍く街中を照らしていた。ヨル子さんは突っ立つ俺の影の中で、うつむいて座りこんでいた。腕の中に何か抱えているのが見えた。死んだと言いながらもしっかりと抱き込んでいた。
 蝉が鳴いている。俺が無言のまま立っていてもヨル子さんは細々と言葉を言う。会話ではない。これじゃまるで罪の告白だった。神様なんてどこにもいないのに。
「車に轢かれそうになってるのが見えて、慌てて飛び出して助けたの。……助けた、つもり、だったの。なのに潰れちゃった。必死すぎて、夢中すぎて、きつくきつく抱き締めすぎて、気づいたらもう首が折れてひしゃげてた。潰れて死んじゃってた。私が殺しちゃった」
 蝉が鳴いている。どこで鳴いているのだろう。蝉の声は街のどこにいても聞こえるのに、俺はいつだって蝉を見つけることができない。俺の影の中で、ヨル子さんはまだかたくかたくその子猫を抱きしめたままだ。俺の顔など見上げもせず、切々と、俺の愛するその声で懺悔の言葉を並べていく。
「私が何もしなくても、この子は車を避けられたかもしれない。私が何もしなかったら、この子は死なずにすんだかもしれない。……殺しちゃった。私が」
 ヨル子さんは泣いているのかもしれない。声が震えている。肩が震えている。冷たくかたくなった子猫を手放すでもなくずっと抱き寄せている。これだけ暑い日ならば腐敗も早いことだろう。
「ヨル子さん」
 俺はかがんでヨル子さんと目線を合わせようとした。ヨル子さんはまだうつむいている。
「ヨル子さん」
 もう一度呼ぶと、ヨル子さんはようやくゆるゆると顔を上げた。赤く潤んだ目と視線が絡む。今、ヨル子さんの目を舐めればしょっぱいのだろうか。涙はしょっぱいんだとマッシロは言っていたけど本当なのかな。唇を舐める。ヨル子さんの眼球を食べたくなった。
 ねえ、ヨル子さんは許してほしいの? 自分の所業のせいで小さな命が消えたことの重責に耐えられないの? その猫はきっとヨル子さんが何もしなくても死んでたよ。猫の死なんて、今ここで車に轢かれようが、この先どこかで野垂れ死のうが俺にとっては同じことに思えた。どうせ同じく最期を迎えるならばヨル子さんの腕の中で死ねたその子猫が、俺は、羨ましいよ。死体の分際で彼女の腕をこの真夏の一日分独占していたことも許しがたかった。死体相手に嫉妬して独占欲剥き出しなんて、醜い。それに、もし助けようしていたヨル子さんが轢かれていたら。その仮定は俺の全身の毛を逆立てさせた。
「……俺にも抱かせて」
 ヨル子さんは少しためらいがちに、壊れ物を扱うように、もう壊れているそれを俺に手渡した。汚い毛並みの三毛の子猫だった。ヨル子さんはよほど必死だったのか、本当に首が折れていた。何もかもが未発達の小さな体。俺は抱き上げてしばらく眺めた後、それをアスファルトの道路に叩きつけた。拾い上げて何度か叩きつけることを繰り返し、そばの民家の石塀にも投げつけた。かたくなりはじめていたそれはもちろん抵抗しない。されるがままに手加減なく投げ飛ばされ、容赦なく叩きつけられた衝撃をその小さな体で受け止めている。十回投げたあたりで数えるのをやめた。
 もうそろそろいいだろう。顔の判別ももはやつかないほどボロボロになったそれを、ヨル子さんがしていたようにもう一度やさしく抱き上げる。骨がぐちゃぐちゃになっている感触がした。
「この猫は今死んだ。俺が殺した」
 ヨル子さんに向き合って、目を見た瞬間、寒気がした。こんなに暑い日なのに一瞬にして熱が消え、蝉の声さえ遠くなった。ヨル子さんの目は見開かれていた。薄く薄く薄く薄く薄い灰色。それから細く鋭く目が細められた。細められた双眸から、つ、と嘘みたいに綺麗に涙が一筋流れた。こらえていたものなのか、今溢れたのか、それはわからない。ヨル子さんが泣く理由なんてどこにもないのに。やさしすぎる彼女が哀れだった。子猫の痛みはあなたの痛みではないはずなのに、こんな弱そうな子猫の死さえ悼む。そんなんじゃいつかあなたが先に壊れるよ。他人の痛みを自分の痛みと錯覚して、そんなの疲れるでしょう。俺はヨル子さんの心がこんなちっぽけな子猫ごときに揺らされるのが我慢ならなかった。でもわかっていた。そんな彼女だからこそ俺はヨル子さんが大好きなんだ。俺にも汚い子猫にも平等にその両腕は伸ばされる。猫じゃなくて俺を抱いてよ。俺なら壊れない。どれだけ強く抱きしめられても、もう離さないという勢いでも、俺なら幸福のままでその腕の中にいられるのに。そんなことは幼稚すぎて言えるはずもなかった。
 俺はヨル子さんに泣いてほしくなかった。ヨル子さんは猫を助けようとしただけなんだ、殺してなんかいないよ、とただそれだけを伝えたかった。
「泣かないで」
 無言のままのヨル子さんにそう言っても彼女は何も言わなかった。夜明け前の薄明を映すような灰色の目がはっきりと俺に告げていた。「狂っている。」


 そりゃあおまえ、狂ってるなァ。
 黄色はそう言った。「なんでだよ?」と俺が聞くと、黄色は呆れたように頭を振った。
「それがわかんないってとこがまたおかしいんだよねェ」
 俺はただヨル子さんに笑ってほしかっただけなんだよ、ヨル子さんが殺したなんて、そんなんじゃないのに、あれ以上悲しんでほしくなかった、それだけだったのに何がいけなかったんだろう。恨みごとのように呟けば、黄色は笑う。 「俺おまえのそういうとこ好きよ。なんつーか救えないよなァ、かっわいそおー」  誰が可哀想だ、死ね。
 子猫は近くの公園に埋めた。勝手に埋めていいものかわからなかったけど、適当な場所が思いつかなかった。ヨル子さんも同行した。死体はヨル子さんが持っていた。ヨル子さんは何か考えているようにも見えた。戸惑っていたのかもしれないし、あるいは俺に怯えていたのかもしれない。なぜ俺が怯えられなければならないのかわからないが、灰色には僅かに恐怖の色が滲んでいた。そんな目をさせたかったわけじゃないのに。俺は途方に暮れた。俺は結局空回ってばかりだ。いつもいつも。
 穴をどれくらいの深さまで掘ればいいかわからず深く掘り過ぎてしまった。子どもが砂場で使うような小さなシャベルしか見つからなかったので、掘りづらかったが、とにかく手を動かしていないとヨル子さんの咎めるようなあの目が浮かんでしまうので、一心不乱に掘り進めた。
 「もうそのくらいでいいんじゃないかな」と言うヨル子さんの声で我に返った。このくらい掘れば、砂遊びする子どもが掘り返してしまうこともないだろう。俺は掘るのをやめ、子猫を受け取った。ヨル子さんの白いハンカチで包まれた子猫を穴の底へ下ろす。俺が殺した子猫。土をかぶせた。埋めるのは簡単だったが、掘る作業が結構な重労働だったので、埋葬が終わる頃には俺は汗だくになっていた。少しだけ土を盛った。小学校の校舎裏にある金魚の墓はこんなふうに土を盛ってあったのを思い出したからだ。ペシペシとシャベルの背で土の山を叩き、子猫の墓は完成した。
 「ありがとう」ヨル子さんはそう言った。俺の鼓膜は歓喜で震えた。「ごめんね」ヨル子さんは続けざまにそう呟いた。俺は謝られるようなことをしただろうか。わからない。
 何もかも融解しそうな温度の日だった。狂っている、そう俺を見たあの目も俺の記憶から融けて蒸発してくれればいいのに。そう願った。そうはならなかった。


「楽しかった?」
「何が」
「もう死んでる猫を殺してるときだよ」
「まさか。楽しいわけないだろ」
 俺の手に子猫を投げつける感触が蘇った。黄色が笑う。その続きを知っているとでも言いたげに、嗤う。壁に投げつけたとき、力なく重力のまま地面に転がる子猫を思い出して、俺は、呟く。
「何も感じなかったよ」