一方通行

 ガラスが割れた。
 放課後、美術室へ向かう途中に通る、職員室の目の前の廊下の窓に段ボールが貼られていた。昨日までは何事もなかったのに。まあ割れたっつーか、割られたんだろうけど。もう何枚目だか数えてないが、相当な数になるはずだ。段ボールの雑な継ぎ接ぎを見つめる。
 ここ最近ものがよく壊れる。ガラス以外にも学校の備品が次々と壊されている。器物損壊が横行しているのだ。これは学校だけじゃなく街全体に広がっていて、なんとなく街には嫌な空気が流れている。なんてことない平凡なこの田舎町には珍しいことで、大人たちは街の風紀が荒れることを心配し、若者の心が荒んでいるからなどと言い始めている。全校集会が増えたりして面倒くさい。
 問題は誰も犯人を知らないことだ。目撃者もいない。俺は何度か街で破壊の残骸を見たことがあるが、実に派手なものだった。どれも中途半端では済まされず完膚なきまでに破砕されていた。自然と身震いし、鳥肌が立つような凄惨さ。畏れさえ抱く。破壊。あれはまさしく破壊と呼ぶにふさわしかった。犯人をはじめとして、どうやって壊しているのか手段も謎だった。ガラスを砕くくらいなら道具があれば俺にでもできそうだが、商店街の看板や道路標識から公園の遊具まで破壊の対象はバラエティに富んでいる。それだけのものを、目撃者もつくらせないほど短時間でぶち壊せる人間がこの街にいる。一体何を使って、どうやって。なぜ。
 人通りの多い場所の物も平気で壊しているうえ、犯行が昼夜を問わない様子なので、まるで見られても気にならないみたいだ。その大胆な手口と似たような壊し方から同一犯とみられているが、結局犯人はまだわかっていない。動機も理由も法則性もわからない。愉快犯の線が強い気がする。自己顕示欲、ってやつなんだろうか。
 一時期、学校に犯行が集中したことから犯人は学生の線が濃厚だと言われていた。学校に恨みを持つ卒業生だとも。でも多分、学校のガラスを割っているのは壊し屋だけじゃないと思う。どさくさにまぎれた模倣犯がいる気はした。真似するバカが増える前に犯人が捕まるか事態がおさまるかするといいんだけど。
 しかし学生の間ではこの「壊し屋」がちょっとしたヒーロー扱いになりつつあった。壊し屋に関する様々な噂や憶測が飛び交い、それぞれの壊し屋像が好き勝手に語られた。そわそわと浮かれた熱。退屈な街の非日常。次は何が壊されるのか、壊し屋は誰なのか。少しの期待と興奮と謎。皆、徐々に壊し屋の存在に慣れていく。心が麻痺する。破壊に対する感覚が鈍っていく。
 ガラスが一枚割れたところで、もうなんとも思わない。
 これ以上大事にならなきゃいいけどなと思う。こういう面倒なことは俺に関係のないところで起きててほしい。そう願って美術室のドアを開けた。

 テレピンくさい美術室には先客がいた。入り口に背を向けて座っている。後ろ姿ですぐ彼とわかる撫で肩の男。向こうもドアの音で気づいたのか振り向いた。俺だとわかると笑顔になって、軽く手を挙げてきた。俺も手を挙げ返す。
「ここで会うの久しぶりやない?」
「そういやそうだな」
 撫で肩とは二年生になってから同じクラスになった。絵に描いたような優等生の撫で肩との間には共通点を思いつかないが、俺らはなぜか気が合った。人に警戒心を抱かせないこういう懐の広さが撫で肩の人気者たるゆえんだろう。
 撫で肩はいつものように建造物関係の本を見ていた。美術室には美術教師個人が集めている美術関連の蔵書がたくさんある。撫で肩はその中でも建造物関係の本を閲覧することを目的にときたま美術室にやってくる。それがきっかけで俺と話すようになり、なんとなくつるむようになった。
「今日は何見てんだ?」
「寺やね」
「へぇ。最近お気に入りね、寺」
 撫で肩が見せてきたのは京都の寺のフルカラーの写真集。修学旅行の定番って感じの寺が並んでいる。撫で肩は写真がある本しか見ない。特に寺に興味があるわけじゃない俺にはどれも同じに見えるが、撫で肩は「これがお気に入りなんや」とページ右上あたりの写真をさしている。
「昔のお寺は立派な木造やね。綺麗でええわあ」
 嬉しそうに写真を指でなぞる撫で肩。ついていけねーやと俺は内心笑う。撫で肩が木造建築フェチであることを知ってるのはクラスで俺だけだと思う。人気者であるこいつがこんなふうに京都の寺にニコニコしてるところをクラスの連中が見たらどう思うんだろう。意識しているのかしていないのか、クラスでそういう話をしているのは聞いたことがなかった。変わった趣味という自覚はあるのかもしれない。
 俺が絵を乗せるためのイーゼルの準備をしていると、撫で肩が後ろから声をかけてきた。
「なあなあ」
「何?」
 俺は背を向けたまま返事した。腰を落としてイーゼルの脚を広げる。
「おまえってさマッシロと仲ええやん?」
「……知らね。そうなんじゃねぇの?」
「えー何やその他人事みたいな感じ」
「だって、仲いいかって言われても、なあ」
 改めて考えるのは恥ずかしいだろそんなの。
「照れんな照れんな。ていうかこないだも一緒にファミレス来てたやんか。そもそもマッシロも美術部なんやろ?」
「部活にはあんま来ねぇからな。あいつ」
「へー。そういや俺がおるときには見かけんな。マッシロってどんな絵描くん?」
 古びてガタガタになっているイーゼルの高さを調節する。すっかり歪んでしまっているイーゼルをしっかり立てる。慣れたものだ。うろたえたりしない。
「どうしたんだよ、なんでそんなにあいつに興味持ったわけ」
「んー? だっておもろいやんあいつ。マッシロってあだ名のとおり髪やって白髪やしさ。しかも地毛やって言うし」
「あいつはただのバカだよ」
 イーゼルのねじを締める。ギュッと強く。きちんと固定されるように。
「ちょっと頭おかしいしさ。何おまえ、なんかあったの? あいつと」
「いや何もないよ別に、俺はマッシロと話すようになったの結構最近やし、おまえらすごい仲いいから、おまえから見てどんなやつなんやろーって思ってさ」
「……別に俺らはただの幼馴染だよ。よくあるだろ、家が近くて自然と話すようになったんだよ。あいつんち画材屋でさ、昔はよくあいつがちょろまかした絵の具とか使って一緒に絵ぇ描いてたんだ」
 そう。そんなことは昔の話だ。俺たちが並んで絵を描いていたのなんて。並んで、描けていたのなんて。
「そうなんかー。俺は生まれはこっちやないし、そういう幼馴染みたいなのってちょっと羨ましいな。まあ、よく考えたらわざわざ聞かんくたっておまえの友達やからええやつに決まってるよな」
 撫で肩は聞いているこっちが恥ずかしくなるような理屈で勝手に納得しながら本を閉じて、立ちあがって棚へそれを戻した。
「じゃあ俺はそろそろ行くわ」
「今日はもういいのか」
「一日一冊って決めとるんや。ながーく楽しむためにな」
「俺なら我慢できずに一気に見ちゃうだろうな」
「そうか? なんか意外やな。……ハツ! 俺行くからなー。鞄持って帰っとくで、そんぐらいは別にええやろ? また家でな」
「うわっびっくりした。ハツもいたのか」
 ぱっと撫で肩の視線の先を追う。美術室の一番後ろの壁際の席に、ゲームをしているハツが座っていた。耳にはイヤホンを突っ込んでおり、撫で肩の呼びかけにも応じない。聞こえていないというよりは聞こえていないことにして無反応を決め込んでいる。ハツがいたことにまったく気づかなかった。影が薄いというか、ハツは自分の気配を自在に消せるんじゃないかと思う。こんなふうにしばしば俺はハツの存在を見逃すことがある。
 ハツは撫で肩の妹だ。だけど撫で肩とはあまり似ていない。肩が描くラインは平均のそれだし、撫で肩のように方言も使わないし、性格にいたってはむしろ正反対だ。
 俺がハツと聞いて最初に思い出したのは焼肉だった。心臓。初めてハツに会ったときそれを素直に口に出したらハツはバカにしたような目で俺を見た。たとえ学問上の分類でもおまえのような発想レベルの低い低俗野郎と同じ種類の生き物だということを認めたくないといったような目だった。だから俺がハツのことを思い浮かべるときは真っ先にその顔が出てくる。
 ハツは見下したような表情が本当によく似合うし、実際に俺はよくその顔で見られた。ハツは俺のことをバカにしている。ハツはそれを隠す気もない。もちろん腹は立つが、ハツにはあまりにもその表情がしっくりくるので面白くさえあった。
 ハツは今日もゲーム機を握っている。俺だってゲームは好きだが、俺の目にも四六時中携帯ゲーム機を手放さずに延々とプレイングしているハツは異様に映る。今も、仏頂面で画面を見つめて指だけを動かしている。撫で肩はため息をついた。
「無視かい……しゃーないやつやな。まー頼むわ」
「いいよ、どうせいっつもゲームしてるだけだし」
「なんか悪いな、あいつ美術部やないのに」
「それを言うならおまえだってそうだろ」
「あはは、それそっか。そしたら、またなー」 「ん」
 撫で肩は鞄を二つ持って美術室から出ていった。なんであいつハツの鞄持っていくんだ? なんか罰ゲーム? 撫で肩はアルバイトをやっているので部活には入っていない。俺が知らなかったこの間のファミレスも含めていくつか掛け持ちしているみたいだ。毎日忙しそうで、俺は素直に撫で肩をすごいと思う。撫で肩が出ていったドアを数秒見つめた後、もう一度ハツを見た。さっきと寸分違わぬ姿勢でゲームを続けている。
 ハツも最近美術室に来るようになった。毎日ではないが、気まぐれにやってきてはこうしてずっとゲームをしている。ハツの同級生の藍が美術部に所属していることがきっかけなのかもしれない。ハツとはあまり話さないから細かいところはわからない。
 そのとき、ハツで隠れていてよく見えなかったが、ハツの机の後ろの壁に松葉杖が立てかけられていることに気づいた。松葉杖? 気になってそばまで近づくと、かすかにハツのイヤホンから音漏れしているBGMが聞こえる。この松葉杖どうしたと聞こうと思ったら、その前に答えが明らかになった。ハツの紺のスカートからやる気なく投げ出された脚の足首あたりには痛々しく白い包帯がぐるぐると巻かれていた。上靴じゃなく学校の茶色いスリッパを足先でぶらぶらさせている。他にも何か所か擦り剥いたりしたのか、膝小僧やふくらはぎにガーゼが貼ってある。足が鞄と机の影に隠れていて近づくまで気づかなかった。松葉杖。
 知らず、喉が鳴った。
「どしたんだよこれ」
 俺が聞いても返事がない。こいつ聞こえてないふりしてんな。辛抱強く待った。俺もだいぶこいつの愛想のなさには慣れた。兄貴を少しは見習え。愛嬌を母親の腹の中に忘れてきたのか。立ち去らない俺を鬱陶しく思ったのか、ハツは画面を見たまま短く言った。
「怪我しました」
「怪我したのか」
 もう話は終わったと言いたげだ。顔にも小さくかすり傷があるし、髪の毛で大部分が隠れているがよく見ると頭にも包帯が巻かれている。結構な大怪我じゃないのかこれ。事故にでも遭ったんだろうか。撫で肩は一言もそんなことは言わなかったのに。ああ、だからあいつが鞄持って帰ったのか。そういう格好でもまったく同情を誘わせない雰囲気がハツにはあった。憐れませる隙さえ与えてくれないのだ。そんな怪我をしていてもハツは変わらずゲームを続けている。ロボットかよおまえは。
「……ゲームってそんなに楽しいか?」
 どうせ反応はないだろうと思って呟いた独り言のつもりだったその言葉に、ハツが初めて画面から目を上げた。ほんの一瞬だったけれど目が合う。俺が目を丸くした瞬間、ハツはまた画面に視線を戻し、面倒くさそうに言った。
「別に楽しいわけじゃないですけど。しないよりはマシです。消去法ですよ」
 ハツは意外と高い声で喋る。甘ったるい、女の子の声だ。たとえるならアニメの萌えキャラみたいな声。中性的な容姿と、敬語なのにどこか荒っぽい喋り方にそぐわないギャップ。ハツは自分の声が大嫌いだと言っていたことがある。ハツがあまり喋らないのはもしかしたらそのせいかもしれない。
「生きるのがつまんないのか?」
「アンタは面白いと思ってんの?」
 ハツは間髪いれずに俺の問いを殺し、面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
 ハツはいつもゲームをしているくせして楽しそうにやらないのが俺は不思議だった。常に無表情でやっている。楽しくないならやらなければいいのに。全然楽しそうじゃないのにゲームを手放さない。だから俺の独り言は皮肉混じりだったのだけど、それを知ってか知らずか、ハツは淡々とした口調で語る。
「それにゲームってわかりやすいですし。経験値ためたけりゃ敵を倒せばいいし、目的地は誰かが教えてくれるし、クリアすればそれで終わり」
 RPGを嗜む彼女は死んだ魚のような目をしてそんなことを言う。こいつ今まで生きてて心から面白いって思ったことなんかあるんだろうか。ハツの目は黒く澱んでいた。言葉を発している間もボタンを操作する手は休まらない。角が丸く擦り減った十字ボタン。
 なるほどゲームに比べれば現実や日常は複雑でややこしいし難しい。自分の選択が後の展開にどんな影響を及ぼすかもわかったもんじゃないし、攻略本もないし、何すればクリアなのかもわかんねーし。
 そもそもハッピーエンドなのかも。
「俺さ、松葉杖好きなんだ」
「はぁ?」
 唐突な話をした俺に驚いたのか、ハツはもう一度こっちを見た。手も一瞬止まった。不可解さを前面に押し出した表情。何わけわかんねーこと言ってんの、と言いたげな顔。俺はふとハツのこういうところを気に入ってんだろうなと思った。良くも悪くもハツは素直だ。俺はたぶん、自分に素直なやつが好きなんだろう。ハツは立てかけられた松葉杖と俺を素早く見比べた。
「何それ。どういうことですか」
「なんかこう……何が好きっていうんじゃなくてさ。昔っから好きなんだけど。フォルムの問題じゃなくてだな、いやそれも少しは関係あるんだけど、松葉杖の存在そのものじゃなくてだな、役割っつーか、松葉杖単体だとあんまりそそらないんだけど、セットだとな、なんだろうな、クるものがあんだよな、とりあえず……だから、今のハツは俺にとっては魅力的だ。松葉杖はその重要なファクターなわけ」
 自分でもよくわからない手振りをしながら説明した。信じられないほど下手くそな話だった。ハツは仏頂面で聞いていたが、きりりと吊り上がった眉を寄せ、目を細めた。
「……松葉杖のおかげで私が魅力的?」
「うん」
 ハツはバカにしたように薄く笑って、ゲーム画面に目を戻した。
「ふ……聞くだけ時間と脳みそと聴覚の無駄遣いでした。そんなバカなこと言ってる暇があったら、さっさと絵でも描いたらどうですか? 私のことはどうぞお構いなく」
 まあこうなるとは思ってたよ。松葉杖に心惹かれるのは事実だが、共感を得られたことはない。本当はハツにそれを使って歩いてほしいんだけどそんなこと頼もうものなら変態を見る目で見られた後「嫌です」と切り捨てられるだろうから、歩かざるを得ないとき、つまりハツが帰るまで待つことにしよう。俺は話を切り上げてイーゼルを立てた場所まで戻って、描きかけの絵を乗せた。そしてふと思いついて「なあ、ハツ」と振り向いた。するとハツがゲーム画面ではなく俺の方を見ていたので、驚いて思わず言葉も動きも止めてしまった。
 ハツは俺がそっちを向いた途端にぱっと画面に目を戻した。……俺の方を見ていたわけじゃない。俺、を見ていた。目が合った。一瞬、見開かれたハツの目。なんであいつ俺を見てたんだろう。いつもの澱んだような目ではなくどこか真剣な目つきだったので尚更驚いた。内心首を傾げながら疑問を口にする。
「ハツさ。なんでいっつもここでゲームしてんの? 家でやればいいじゃん」
 前から疑問に思っていたことだった。ハツは薄く口を開いた(ように見えた)が、結局何も言わないまま口を閉じ、もう画面から顔を上げなかった。今日はもう無理だなと思った。ハツがもう喋るまいと決めたタイミングがだんだんわかるようになってきていた。今日も結構喋ってくれた方だ。俺は諦めて絵の具を準備する。脳裏にはハツの白い脚と白い包帯と松葉杖が浮かんでいた。