イグニッション

 学校をサボる決意をしたハツはとりあえず、自分がかつて壊し屋に遭遇した場所まで天野を案内することになった。案内を頼んだ天野は妙なポーズで「犯人は現場に戻る!」とキメた後にもうワンポーズとって「探偵は足で稼ぐ!」とも高らかに宣言した。漫画ならばババーンとでも効果音の付きそうな派手さを見てもハツは例によって適当な相槌をうつに留まったが、天野の方も相変わらずそのことを気にしていなかった。反応をまるで期待しないこの感じは無視され慣れているなとハツは思った。
「アンタ車とか持ってないんですか? 歩きで行くにはここからだとちょっと遠いんですけど」
「すまない、オレは免許を持っていないんだ……」
「そうですか」
 頼りない大人だと思われたと感じたのか露骨にしゅんとしてしまった様子の天野を見たハツは、慌てて「大丈夫ですよバスで行けるから。バス停に行きましょう」と取り繕うように声をかけた。すぐに天野が目を輝かせて「ならばバス代はオレが出そう! 必要経費だ!」と宣言するのを見てホッとした後、なぜ自分がこの胡散臭い探偵の気分の上下にそこまで気遣わないといけないのかと馬鹿らしく思った。
「たかだかワンプレイ分でエラソーにしないでください」
「ワンプレイ? ああ、そうか君はゲームセンターにいたのだから……ということは運賃は百円なのか」
「はい。町内をぐるぐる回ってるバスがあるんですよ。それなら定額百円で乗れるんです。バス停はここから道路沿いに少し歩けばありますから」
「今日もいい推理をしてしまった!」
「聞いてんの?」
 ハツたちが出会った場所から最寄りのバス停まではそう遠くなかったが、バス停について時刻表を見てみると次のバスが来るまで十五分ほど待ち時間があった。天野がいれば、バス停についた瞬間にバスが来たりするのだろうかと身構えていたハツは少し拍子抜けした。ほとんど面識のない人間と一緒にバスを待つ時間としては中途半端に長くて嫌だなと思ったが、天野の方は勝手に話し続けるのでそこまで手持無沙汰な気持ちにならずにすんだ。
 歩いていた間もバスを待っている間もひたすら話し続けている天野の話題の九割はくだらない与太話だった(としかハツには思えなかった)が、その合間にはきちんと事件に関わる質問もあった。
「ハツちゃん、壊し屋というのはどういう人物だったんだ?」
「えーそうですねぇ……。最初は人間とは思いませんでしたよ。この世のものじゃないと思っちゃいました」
「む? それはどういう意味だろう、幽霊か何かと見間違えたということかい?」
「いえ、なんというか……あー……こういうこと言うのなんか恥ずかしいんですけど、そのひと、ほんとに、その――綺麗だったんで。なんか現実味がなかったんですよ。今から神様の啓示でも受けるのかと思ったぐらいで」
「はっはっは、それはまるで天使のようだな!」
 そう言われると、年甲斐もなく絵本の世界に憧れているような感じで恥ずかしくなる。耳の上あたりをガシガシとかいたハツを見て「なあに、照れることはないさ」と天野は言う。
「なるほど、件の人物はそんな神々しさをハツちゃんに感じさせるほどの男前ということか」
「男前? いや、あれは女でしたよ。私よりは年上だと思うけど、アンタよりは下に見えました。そんぐらいの、まだ若い女の人で」
「えっ?! そうなのか、オレはてっきり……そうかそうか、そうだなあ、これは思い込みだ。破壊の痕跡から、犯人に対しては屈強なイメージがどうしてもあったものだから。年若い女性を勝手に犯人の線から消してしまっていた。うーむ、自ら視野を狭めるなんて名探偵にあるまじきことだな。反省、反省」
 天野は浅慮を恥じるように頬を指でかいた。ハツは首を横に振る。
「まあ……そう思うのが道理だと思いますよ。ゴリラみたいなやつを想像すんのが普通でしょ。私が説明不足でしたね」
「至らないオレを慰めてくれるのか? やっぱり優しいんだな、ハツちゃんは」
「いちいちそういうのいいですから。私だって見たときはまさかあのひとが壊し屋だなんて思わなかったし」
 兄以外の誰かに褒められる経験がそうないハツにとって、事あるごとにお世辞抜きで大げさなほど褒めてくる天野の言葉はくすぐったい。くすぐったいを通り越して、痛がゆい気もする。こんなふうに他人のいいところばかりを探そうとしている人間を見ていると、不満ばかりの自分の欠陥を思い知らされるようでかえって少し悲しくなるのだ。
 ハツはあのとき出会った彼女のことを思い出してみる。街を騒がす破天荒な迷惑者の正体は、筋肉達磨の大男などではなく、意外なことにハツとさしてかわらないような年頃の一人の女の子だった。ひとくちに可愛いというに冷たくて近寄りがたい印象で、単に美人というには存在感が鋭すぎる、そんな……美しい――けれど触れればただではすまない、いうなれば研ぎあげられた業物の刀のような、そういう印象だった。
 ハツはわざわざ訂正しなかったけれど、本当は天野の言葉に口ごたえしたいところがあった。天野はハツが彼女のことを天使と見間違えたと思ったようだったけれど、そうではない。あのときハツは神様の御使いではなく、神様そのものに出会ったのかと思ったのだった。
 ハツにはもちろんそこまで赤裸々に語る義理はない。天野はといえばいつの間にか取り出した黒い手帳に聴取内容を書き留めていた。「壊し屋は、きれい、な、お、ん、な、の、ひと。っと」と書く内容をすべて呟きながら書きつける様子は、捜査中の探偵らしいというよりは社会科見学にきた子どもじみている。
「ありがとう。なんにせよ今はなんでもいいから手掛かりが欲しいところだな。その調子で、覚えていることがあればどんどん教えてくれないかい? 他にはどんな様子だった?」
「あとは……そうですね、なんか、歌を歌ってました」
「歌?」
「はい。一人で」
「ほう! 音楽を愛する心があるのであれば、悪い奴ではないな!」
「や、それはさすがに単純すぎんでしょ、あんだけモノ壊してる人間が善良な方が怖いですよ」
「ふふん、オレはセーゼンセツ主義者なんだ」
「セーゼン……? ああ、性善説。たしかにアンタそんな感じですね」
 いったん首を傾げた後、合点がいってうなずいたハツに天野は嬉しそうに笑った。
「おっ、ハツちゃんにもわかるのか? むかぁし、イエローくんに言われたことだ。実はそんなにちゃんと意味はわかっていないんだが……響きがかっこよくて気に入っている。あの子が言うのならきっとそうなんだろう。そういうわけで、オレは『セーゼンセツ主義の名探偵』なんだ。かっこいいだろう?」
 妙に得意げな顔で笑っている天野を見て、ハツは黄色に対して何度目かわからない同情をした。天野は年齢も体格も顔立ちもとっくに大人なのに、ため息が出そうになるような子どもっぽさを有している。黄色の本性を少しでも知っていれば、天野に「おまえは性善説主義者なんだナァ」なんて、皮肉でそう言ったに決まっていると容易に想像できる。それなのに、肝心の天野はそれを相棒からの賞賛だとでも認識したのか、今でもそのレッテルをこうして大事に抱えていて、自分で指でこすっては貼り直しているのだ。そんな相手ではあのひねくれ者はやりづらくて仕方がなかったことだろう。
「おっと、脱線させてしまったな。自分の言いたいことだけをたくさん喋るのはオレの悪いところなんだ」
 なんとなく、それも黄色にかつて注意されたことなんだろうな、とハツは思った。
「すまなかった。続けてくれ、ハツちゃん」
「ああ、えーっと……なんでしたっけ。そうそう、そのひと歌を歌ってたんです。とても惹かれる歌声でしたよ。理屈じゃないっていうか。思わず足を止めずにいられなくて。私は音楽って詳しくないし、何の歌だかはわかりませんでしたけどね。言語も別の国のものっぽかったし」
 聞いたことのないはずの歌なのに、それを子守唄に育ったのだと言われたら信じそうなほど、その声はハツの奥底に馴染み、芯から揺さぶった。それは「良い曲だな」「好きな歌だ」といったような感情とはまた別のところにある衝撃だった。出会い頭に電流を浴びせられたような痺れを伴ってその歌はハツの心に届いた。
 今思えばそれはよく似ていた。青野が絵を描いているのを見たときに感じた気持ちに。
「では、壊し屋は、神秘的な美貌と魅力的な歌声を持つ若い女性……ということになるのか。ううむ、オレが勝手に持っていたイメージと驚くほど違うな」
 天野はまたもメモ帳につらつらと書き込みをする。書いているであろう量に対してやたらページをめくるので、文字を大きく書く癖があるのだろうとハツは推察した。メモし終えたページをペンの先端でトントンと叩きながら天野はふうむと唸る。
「歌声で蠱惑し、破滅を招く……まるでおとぎ話のローレライやセイレーンのようだなあ。オレも音楽を愛する者としてその歌声を聴いてみたいものだ。一緒に歌うのもいいかもしれない。壊されるのは嫌だが」
「人間は狙わないんじゃないですかね」
「なぜそう思う?」
「え……」
「今までがそうだったからかい? 君は怪我させられたというのに?」
「ッ……」
 天野の視線がひたりとハツにはりついている。平素から輝いているその目はハツの返答をじっと待っている。それがハツを妙に焦らせ、何か言わなければという気持ちにさせた。
「オッ、おん、女の勘ですかね……」
「なるほど!」
 何の気なしの一言をやけに鋭く突かれて思わずしょうもない返しをしてしまったハツは羞恥で自己嫌悪に陥ったが、天野はそれもしっかりと書き留めたうえに大事な証言だと言わんばかりにぐるぐると丸を描いて囲った。隙をついてあのページを破り取れないだろうか、とハツは思った。
「やっぱり君はやさしい子だ。壊し屋などと名を冠された相手だというのに、人を傷つけるものではないと思いたいということだものな。オレたちは信じよう。彼女だってきっとわかりあえる相手さ」
 ハツの気も知らずに天野はゆるりと目を細めて笑っている。あまやかな声にハツは舌打ちしたくなった。今まで考えたこともなかったが、私は"セーゼンセツ主義者"じゃあない。
 そうこうしているうちにバスはやってきた。オレンジ色の車体がゆっくりと二人の前に停車する。白髪交じりの運転手は制服姿のハツをガラス越しに見て不思議そうな顔をしたので、ハツはそれ以上目を合わさないように俯きがちにバスに乗り込んだ。中途半端な時間帯に学校とは違う方面行きのバスに乗ろうとしているのだから怪しまれても仕方ない。面倒ごとを避けるためにもなるべく目立たないようにしなければとひそかに思っていると、後から乗ってきた天野が運転手に「運転よろしくお願いします!」と大きな声で爽やかに挨拶したので「デカい声出すなッ!」と思わず怒鳴ってしまった。


 南区に向かうバスの車内は天野たちを除くと誰も乗っていなかった。総合病院やショッピングモールのある南区に用事がある住民は多いから、貸し切り状態は珍しいなとハツは思う。怪しまれずにすむからその方が助かる。車内は空調がよくきいていてその涼しさにほっと息をつく。
 車内だからかハットをとった天野が「オレは窓際に座りたいのだが、良いだろうか」とハツに問いかけた。了解をとるということは当然のように並んで座るつもりなのだろうが、ハツの方はそもそも隣に座る気などないので「好きなところに座りゃいいでしょ」と返す。天野がいそいそと席に座ったのを見届けたハツは、通路を挟んだ反対の窓際の座席に座った。それに気づいた天野が「えっ?! 寂しいじゃないか……!」と抗議の声を上げ、それを聞いたハツは想像通りの反応に少し笑った。知り合ったばかりの騒がしい男と隣り合って座るつもりがなかったのも本当だが、少しばかり悪戯心もあったのだ。
 天野はハツの元に向かおうと腰を浮かせかけていたが、バスが動き始めたので諦めておとなしく席につき、かっちりとシートベルトを締めた。わざわざ窓際に座ってもいいか確認したくせに、少しでも声が届きやすい距離がいいのか結局通路側の席に腰を落ち着けている。
 それを見たハツが涼しい顔で言う。
「目的地一緒なんだからどこ座っても一緒でしょう」
「そうは言っても、せっかくだから一緒の席でいいじゃないか。これじゃ話しにくいだろう」
「遠足じゃあるまいし公共交通機関の中でまでアンタに付き合いませんよ。お静かにしててください」
 天野を見ずにひらひらと手を振る。
「むう……たしかにハツちゃんの言うとおり、バスの中では静かにすべきだ。ハツちゃんと話すのが楽しくてオレは浮かれていたのかもしれない……休憩だと思って静かに過ごすとしよう」
 素直さは天野の美徳であったし、そういう態度はどこまでもハツの調子を狂わせた。天野の方を見ると、紫電一閃、有言実行、天野はすでに目を閉じて「休憩」していた。口を閉じ目を瞑った横顔には先ほどまでの寂しがりで賑やかな印象はまるで残っていない。その横顔を見つめながら、からかった方のハツがなんとも言えず複雑な気持ちになった。
 アンタさ、私なんかと話すことの何が楽しいっていうんだ。ほぼ無視してたようなもんだったじゃん。それに、そりゃあこっちにはアンタをどうこうしようなんてつもりは微塵もないけど、昨日今日知り合った関係ってのは互いに同じなんだから、アンタも降りるバス停すら聞かずに簡単に人のこと信用すんなよ。
 天野の唇が薄く開いていくのが見えた。そして、健やかで規則正しい深い呼吸音がハツにまで届く。これは、まさか寝たのか。走るバスがもたらす揺れはたしかに眠気を誘うけれど、それにしてもなんという寝つきの良さだ、とハツは呆れる。
 ――わからせてやりたいな、という感情がふいにハツの胸中をチリッと焦がした。
 生まれた気持ちにハツ自身戸惑う。ライターが散らした火花のようなそれが、暴力的な類の衝動だと理解したからだ。わからせてやるって何を? たとえば今ならさっきメモされた己の恥ずかしい発言の証拠を手帳ごと奪いとれるかもしれない。そうなれば、人前で簡単に気を許してこんな無防備に寝てはいけないと気づくんじゃないか。刹那の火花だったはずの衝動が、欲が、ゆらりと炎のように揺れる。ハツは知らず、座席を天野寄りに一つ分詰めていた。メモをとっていたボールペンがさしてあるベストの胸ポケットが手帳のかたちに膨らんでいるのが見える。この境界を越えて手を伸ばせばたぶん届く。私のことを、そんなことをするはずもないただの女子高校生とナメてかかっているからいけないんだ。自分だってさっき壊し屋が女だとは思わなかったとぬかしたばかりじゃないか。その舌の根も乾かぬうちに油断をしているこの間抜けな探偵に学びの場を与えてやるという名目でなら許されるんじゃないか……。
 ……許されるって、何が?
 そんなことをわからせてどうしたい?
 ハツは伸ばしかけていた手をひっこめて強く手を組んだ。触れ合う指先は冷えている。きっと空調がききすぎているんだと己に言い聞かせた。冷たくなった汗は肌を冷やし、前髪をそよがせる冷風を寒いと感じているぐらいなのに。
 炎だ。
 ハツの脳裏から炎のイメージが消えない。吹けば消えそうだというのにゆらりゆらりと輪郭を揺らがせながらも灯り続けている。蝋燭の炎のようなそれが内側からハツを焦がしている。どうして突然目の前の男に対してこんなにも嗜虐的な気持ちになっているのかわからない。こんなのはおかしい。すりあわせた指先はちっとも熱を持ってくれない。
 祈るように指をこすりあわせながらハツは理解してしまった。黄色の言うことは正しかった。こんなにもたやすく己のいびつさを引きずりされるのならこの男と関わるべきではなかった。ハツよりはるか昔に黄色もきっとこの炎に憑りつかれてしまったのだ。そしてその炎は消えることなく勢いを増して燃え盛り、今も黄色を焼き焦がしてはその身を苛み続けている。彼は焼け爛れた体を引きずって生きている。
 オレはセーゼンセツ主義者の名探偵なんだ。そう言って笑った天野の顔がもう一度見たいと思った。よくとおるその声で耳障りのいい綺麗ごとを聞かせてほしいと願った。しかし天野はハツの気も知らず時折フガッといびきすらかきながら深く寝入っている。当然、笑わないし語らない。ああ、ああ! この炎をどうしてくれる! ハツは座席に肘をつき、目的地に着くまで、眠る天野の顔を飽きもせず眺めていた。手帳の入ったポケットのふくらみは天野の呼吸に合わせて心臓の位置で動いている。