<PM 18:45 黄色・ハツ>

 「殺そうとしてた」?
 言葉の持つ意味の重さとは裏腹に、あまりにあっけらかんとした口調だったので、冗談かと思った。「おっとっと」何度目かのトスでメダルは床に落ちた。さっきの天野という青年のことは、深入りすべき話題じゃないのかもしれないけれど、どうしても気になった。それは、目の前のこの先輩の名前をどこで聞いたかようやく思い出したからである。
 それは、藍だ。美術部で活動する聡明な同級生であり、私の数少ない友達、その彼女が『黄色さんというひとを私はどうにも許せない。こういうことを言ってはいけないけれど、あのひとは、たちが悪い。魂が腐っているの』といつか言っていた。藍が誰かを悪く言うのを聞いたのはそれが初めてだった。藍は耐え切れずといった様子でこぼしたけれど、その愚痴すらも後で悔いているみたいだった。悪口を言ってしまったことに傷ついてしまうような、あんなに心優しい子に魂が腐っているとまで言わしめるこのひとが、なおかつ、殺そうとした人間とはどういったものだろう? それとも「殺そうとしてた」などとさらりと言ってのけられる軽薄さこそ藍の厭う『たちの悪さ』なんだろうか?
「殺そうとしてたって……」
「ハツちゃんはさァ、『自分は特別じゃない』って気づいたのはいつ?」
 黄色先輩はメダルを拾い上げながらなんでもないことのように言った。何その話題、急に何……ただでさえ会話が得意ではない私は焦ったけれど、なんとか応じる。質問としては簡単な話だ。
「私は自分が特別だと思ったことなんかありません」
「えぇ? 本当に? 全然まったく? ただの一度も? だとしたらずいぶんつまらないナァ」
「なんなんですか……。たとえば……小学生のとき仲間内で一番対戦ゲームがうまかったから自分は強いと思って調子にのってたら、そんなのはあくまで極々狭い世界の基準の話で、実際はもっと化け物じみた強さの人がゴロゴロいることに気づいたときとか、そういう感じの話ですか?」
 自分の話でひとにがっかりされると本当にみじめになる。このひとはわざとなのか露骨に顔にも出すから余計に傷つく。別にこのひとに気を遣う必要はこれっぽっちもないのに、まじめに考えてしまった。だというのに先輩はこちらの気も知らないで(知っていて?)能天気に笑った。
「ははは、まさに井の中の蛙ってやつだねェ」
「たとえばの話です。私のことじゃない」
「そういえば俺さ~井の中の蛙って昔『胃の中の蛙』だと思っててさァ、蛇に食われちゃったカエルを想像して、大ピンチのたとえだと思ってたん……」
「知りませんよ。そんな話どうでもいいでしょう。何が言いたいんです?」
「怒ンなよ、君ホント気が短い……」
「兄に似ず、ですか」
「言ってナイじゃん?」
「思ったでしょう?」
「思うことまでは罪じゃないだろ?」
「……まあいいです。結局何の話ですか? 私が聞きたいのはそんな話じゃない……」
 黄色先輩はメダルをポケットにしまった。
「俺はね。『特別』になりたいんだ。今も昔も」
「とくべつ」
「そう。もっというなら、俺は自分のことを特別だと思ってたんだよねエ。昔っから要領よかったし、同級生たちに比べりゃア大抵のことが上手だった。ちょちょいと努力のひとつやふたつすれば思いどおりにできた。基本的には羨ましがられる側で、自分は他の奴らと違うって思ってたよ。……あーあー、君はそんなこと言わなそうだけれど、人間は誰だって一人ひとり特別なオンリーワンだなんて鳥肌の立つ一般論はよしてよ? わかるだろ?」
「はぁ。私だってそんな綺麗ごと好きじゃないですから……。先輩が言ってるのは、有象無象から抜きんでている、秀でた者、資質を持つ者、そういう意味での特別ってことでしょう? エースなりリーダーなり天才なり」
 それなら尚のこと私は自分のことを特別だと思ったことはない。特別になりたいと思ったことがあるかすら怪しいものだ。並も並、平々凡々、十把一絡げの雑草。父母と兄と団地暮らしのどこにでもいる高校生。たしかにつまらないと言われても仕方がないかもしれない。特別でなくても、なりたい何かのビジョンなんて、掲げたことがない。
 でも目の前のこのひとは違う。かつて自分を特別と信じ、喪失した確信を取り戻そうとしている。バカバカしいと笑うことはできなかった。黄色先輩は満足気に笑う。
「そ、そゆこと。もちろんさァ、そんな自己評価なんざ褒められ慣れたガキんちょが誰でも抱いてたような全能感に過ぎなかったかもしれないよ? それでも少なくともその頃の俺は俺にとって特別だった。でも俺は俺よりずっともっと特別なやつに出会ってしまって、あっけなく夢から覚まされた。俺の愛らしくいとけなき幼年期の終わり、それがアイツだ」
「……天野晴々?」
「ウン」
 黄色先輩は急に「喉乾いたねェ」とこぼし、自動ドアの近くに併設されている自販機に向かって歩いていった。その隣にある葉っぱの黄色くなった観葉植物を見つめていると、思い出したように先輩が振り返って「ハツちゃんは何が好き?」と聞いてきたので「あ、え、コーラ……」と応えた。頷く先輩。ガコンと缶が落ちる音が聞こえた。戻ってきた黄色先輩はオレンジジュースを片手に「そんでアイツのことなんだけど」と話を再開する。あれ? 今の流れは私の分も買ってくれたのかと思った……。黄色先輩はプルタブを器用に親指だけで開けながら嬉しそうに笑う。
「あれェ? 俺はハツちゃんの好みを聞いただけだけどォ。もしかして買ってきてほしかった?」
「いえ全然。喉乾いてません」
 この先輩はろくな死に方をしないだろうな。食い気味に即答しながら苦々しく思った。ねえ藍、魂が腐っているってのはこういう話なの? 先輩はケラケラ笑いながらグッと缶ジュースを煽った。ほぼ垂直に傾けたまま一気にぐびぐびと飲み干し、はぁー、と息をつく。少しの間の後、先輩はぽそりと呟いた。
「……ホントに続き聞きたい?」
 先輩の唇がオレンジジュースで濡れて光っている。もしかして迷っている? 本当は話したくない? でもさっきまでは自分でペラペラと話していたし。わからない。この質問もおちょくるための誘導なのかもしれない。ただ、慎重に言葉を選ぶのも面倒に思えて、反応は若干投げやりになった。
「まあ、先輩がなんであのひとを殺そうとまで思ったのかは、気になりますね。私にはいいひとに見えたから……」
「いいひとか。アハハ、そうだねェ。アッパレはいいやつだよ」
「なら……」
「たとえばさ。アイツ、今までの人生で風邪ひいたことないんだよね。まあバカは風邪ひかないっていうけどさァ」
「?」
「たとえば。アイツめちゃくちゃ頭悪いんだけど、赤点はとらない。テストで記号問題だけは全問正解するから」
「はあ……。勘がいいんですね」
「たとえば。俺はアイツが赤信号で止まってるのを見たことがない。実際、ひっかかったことないって本人も言ってた」
 それがどういうことかわかる? と先輩は続ける。二十五年生きていて一度も? そんなこと有り得るんだろうか? 少し背筋が冷えた。先輩はなおもつらつらと続ける。
「ひいたくじは必ず当たる。傘を持たずに出かけてるときは絶対に雨は降らない。夜空を見上げれば当然のように星が流れる。極端なことを言えば、穴を掘れば温泉だって出てくるだろうね」
「それって……」
「そう。アイツは、アッパレは、人知を超えた絶対的幸運の持ち主なんだよ」
 ゴッド・ブレス。
 神に愛されたひと。
 今度こそ私はぞっとした。
「それはつまり……有り得ないほどに、ツイてるって言いたいんですか。青のときしか横断歩道に差し掛からないような、神懸ったタイミングで生きていると?」
「そのとーりだよ。バカバカしいでしょ? でも実際そうなの。誰も抗えないんだよ。アイツの前ではどんな努力も才能も思惑も駆け引きも意味がないんだ。アイツはさァ別に探偵として優秀なわけじゃないよ。ああ見えて体力はないし、荒事はからっきし、頭も空っぽ、推理なんかてんでダメ。図体がでかいだけで超絶バカ。本人には何の秀でた能力もない。何やらせても平均かそれ以下だ。だけど、究極的にアルティメットに『運がいい』。ただそれだけだけど、最強だ。その豪運でただ”結果”を引き寄せてしまう。迷い猫探しぐらいの単純な依頼なら一発ツモだよ。アイツが捜査すれば、もう解決しかありえないの。なぜかっつうとアイツは”とてもラッキーだから”。ハツちゃんもゲーム好きならなんとなくわかるでしょ、攻撃も防御も全部捨ててラックっていうステータスに極振りしてんのがアイツなの。すべて補って余りあって勢い余って天井をブチ抜くほどに、とにかく、運が良いんだ」
「そんな、そんなことって……」
 私が言葉を失っていると、先輩は髪の毛をガシガシとかいた。ピンクの髪の毛が何本かはらりと抜けて指の隙間から落ちる。
「アイツはマジほんまもんのバカだからそのことに気づいていないんだよねェ。全部最終的には自分の思いどおりになっていることを、自分の実力だと勘違いしてンの。『俺は頑張った、うまくいってよかった! 俺は名探偵だな!』ってな具合にさ。ま、バカだからねェ。そこにも俺は腹が立つんだけど、本当にムカつくのは、」
 黄色先輩は目を伏せる。
「……自分の存在がアイツの偶然やら運命の中に組み込まれることだよ。俺はそれが、本当に我慢ならない。だから俺はアイツが嫌いなんだ」
「自分の存在があのひとの偶然に組み込まれる……?」
 その言葉だけが要領を得ず、鸚鵡返しすると、先輩は両手で大きな円や線を描くようなよくわからないジェスチャーをしながら話を続けた。
「えーとねェ。なんていうかな。俺は俺の意思があって生きてるわけ。今日なんかも、たまにはこういうとこで遊びたいナァみんなで、とか可愛いこと思いついて珍しくゲーセンにも来たわけ。そしたらアイツがいた。"久しぶりにこの街に来て、寂しい気持ちになっているアイツ"と、”偶々”出会った。喜んでたろォ? こんなところで偶然会えてラッキーだとかなんとかさ」
「言ってましたね」
 なんとなく先輩の言いたいことがわかった気がした。今思えばあんな邂逅は、あのひとの本来の幸運を思えば取るに足らないおまけのようなラッキーだったんだ。
 先輩は、靴底にはりついた何かを剥がそうとでもするように、落ち着きなくザリザリと足を床にこすりつけている。白と紺のタイル模様の床が砂で汚れた。
「偶々なんかじゃないンだよ、つまりさァ。極論、アイツが、”知り合いがいなくて寂しい”と思ったから、俺たちはあそこで出会ったの。そうなると、俺が”今日はみんなと遊びたいと思って珍しくゲーセンに足を運んだ”っていうその行為が、まるでアイツに会うために導かれたみたいでしょ。アイツの運命に組み込まれてるように感じるってのはそういうコト。俺の感情すらもアイツの意に沿うために操られたみたいでさァ、マジ最悪、たまらない気持ちになンの……」
 先輩は親指の爪を噛んだ。あ、と思う。昔の自分のように、このひとにも爪を噛む癖があるのだ。私は、爪を噛んでいるのを見かけるたび注意してくる兄のおかげで、いつのまにかやめることができた。先輩には注意してくるひとはいなかったのだろうか。それとも、無視してきたのだろうか。
「最初、アイツの特異性に気づいたときは、事の重大さがわかってなかったから、利用してやろうと思った。俺も若かったわけ。アイツ頭が弱いから、喜んでつるんでくれたよ。『やっぱり探偵といえば助手だからなあ!』っつって。バカでしょ。言うこと全部バカっぽいの。アイツねェなんでもかたちから入りたがるの。あのみょうちきりんな服装は何個かバリエーションがあるけど、要するにアイツが思う探偵っぽい服装ってわけ。鹿撃ち帽にインバネスコートのセットのときは笑えるよ。……まあそんなわけで、助手を求めてたアイツは結局最後まで俺の下心にも全然気づいてなかった。さっきの反応見たらわかンでしょ、俺のこと今でもいい友達だと思ってンだよ。まあ、コツをつかめばグッドラックのおこぼれにあずかるのは結構簡単だったし、おもしろいようにうまく物事が運ぶから何事にも強気に出られるし、いろんな事件に首突っ込んだりして、俺にとってはなかなかエキセントリックな時期だったねェ。上手に生きられてる気でいたよ。俺はいい気になってた。……けどそんなのも長くは続かなかった。気づいちゃったわけ。俺が俺の感情で何をしてても、巡り巡ってアイツのためになってるだけだったってことに」
 気づけば、彼に望まれる役割を演じさせられていただけだったのだ、と。そう先輩は吐き捨てた。
「”利用しようとして近づいた俺”は、相棒を欲しがっていたアイツに逆に利用されたんじゃないかってね、気づいてしまったらもう、駄目だった。陳腐な言い回しだけどさ、俺の人生の主人公は俺のはずでしょ。ちょっとォ、笑わないでよね。何を考え、どう生きるか、すべては自由だ。それが許されてる、素晴らしいことだよ。けどそのころは違ったんだ。中心にいるのはアイツなの。アイツという主人公が演じるくだらない物語の、しょうもない登場人物をやらされてたの。三文芝居のかわいそうなワトソンくん。道化もいいとこでしょ。場面を転換させるためのお助けキャラなんてそんな役回りは御免なんだよ。そっから俺の死に物狂いの努力が始まった。なんとか筋書を変えてやろうとしたよ」
 先輩が指先でグリグリと弄んでいたプルタブが千切れた。先輩はそれをつまんで缶の中に入れてしまった。
「俺ァ許せないんだよねェ。アイツのことが。俺を上回るすべてが」
「……だから殺したかったんですね」
「だって、狡いだろう? どうして俺にないものをアイツが当然のように持ってるの? 認めない、許せない、そんなの狡い。俺だって何者かになりたい。羨ましくてたまらないんだ。羨ましいと思っていることを認めるのにすら勇気がいるんだ。ああ憎たらしい。ああ口惜しい。アイツがいる限り俺は前に進めないんだよ」
 先輩は爪を噛むのをやめて、おどけた様子で肩をすくめてみせた。
「……だけど、ま、もう殺そうとしたりはしないよ。死んでくれるならその方がいいとは思ってるけどさ。アイツだけに構っている暇も今はないからね。俺は俺のやり方で、特別になってみせる。アイツ以上の何者かになるンだ」
 呪詛じみた執着と、極めて自己中心的なその在り様。信頼できる友人を以て腐った魂の持ち主だと言わしめる人間の語る夢。こんなふうに「〇〇になりたい」などと堂々と夢を語る人間も、高校生になるとめっきり少なくなってしまったものだなあと今更のように気づいた。大抵の高校生は、昔描いた壮大な夢はかないっこないと知っている。そんな夢想を口に出すのは恥ずかしいと思っている。現実に打ちのめされた大人でもない、夢見てばかりの子どものままでもいられない、そんな年頃の自分たちの中にあって、黄色先輩の意志の強さは眩しかった。このままじゃあだめだと思ってはいても何もしたくなくどこにも行けない自分と比べればずいぶんと徳の高い人間に思えた。
 先輩は弄んでいたアルミ缶を結局ベコリと握り潰してしまった。
「慧くんも何かに抗おうとしてんだよね。俺にはわかる……けど君はダメだな。生まれたってだけの理由でとりあえず生きてるような、その他大勢の凡人だ。んふふ」
 鼻に抜けるような笑われ方をされて激昂しかけたけれど、ギリギリ踏みとどまった。それこそ先輩のペースにのまれるだけだ。さすがに見え透いた挑発だったし、内容は事実だった。にしたって、いくらなんでも言いすぎじゃないか? とやっぱり腹が立った。
「好きに生きれば良いじゃないですか。私には関係のない話です」
「俺はいつでも好きに生きてるよ。文句言いたそうな顔してるくせにやりたいようにやらない連中をせせら笑うのが趣味なのさ。悪く思わないでくれよ」
「無茶言わないでくださいよ。フツーに気分害します」
「あははは! でも、アッパレに関わンなってのは、俺からのマジの忠告だから。じゃーねェ」
 黄色先輩は手を振ってあっさりと去っていった。一緒のタイミングで出ていくのも何か気まずい気がして、時間をずらすために近くのシューティングゲームのデモ画面を二周分ぐらいボーッと眺めて時間をつぶした。画面の中の機体が弾幕を避けながら必殺ミサイルを撃ち込んでいる。それを見ながら、先輩が「もう殺そうとしたりはしないよ」と言った言葉は嘘だったんじゃないかなあとなんとなく思った。無邪気かどうかはともかく、あんなに明るく笑う人にも心の底から死んでほしい人間が一人確実に存在しているという事実は少し気を重くさせた。やっぱり生きにくい。