我慢ならない気にいらない

 膝小僧から脛を緩慢に伝い落ちる水が、砂で汚れた靴下にまでじわじわとしみこんでいく。校舎裏の手洗い場の蛇口は太陽に照らされてすっかり熱を帯び、出てくる水も生ぬるかった。
 グラウンドの方からはサッカーボールが転がる音と、男子の掛け声、時々女子の歓声が聞こえてくる。蛇口をつよめに捻ると水が勢いを増して、声を少しだけかき消した。代わりに、勢いよく水流を浴びせた膝小僧の傷口は鮮烈に痛むこととなった。思わず青野が膝を動かして避けると、たくさんの水が洗い場のタイルで跳ね返ってあちこちに飛び散る。じくじくと痛む真新しい傷口から散った血が白いタイルに映えた。
「行儀悪ッ」
 からかうような声に振り返ると、黄色が口元に手を当てながら笑っていた。目元をにんまりと細めており、汗ばんだ頬は日に焼けて赤らんでいた。青野は面倒なやつに見つかったと嘆息し、黄色は面白いところに遭遇できたと喜んだ。
「皆の手洗い場に足つっこんじゃって、ヤダヤダ、猫背クンの育ちの悪さが出ちゃってるよオ。どおしたのそれ」
「さっきの試合ですりむいた」
「転んで?」
「……あー、そうだよ」
「無様に転んで?」
「なんで聞き直すんだよ!」
 青野は語気の勢いと同じようにきつく蛇口をしめながら言い返した。老朽化してタイルに細かいヒビの入った手洗い場は、蛇口の方も駄目になりかけていて、力強くしめたそばからポタポタと水滴が垂れる。青野の血の混ざった水は排水溝へ吸い込まれていった。この天気ならあっという間にタイルは元通り乾くだろう。青野が手洗い場の淵にかけていた足を下ろすと、まだ血の止まらない傷口から赤い筋がいくつか脛を伝った。黄色が露骨に顔をしかめる。
「うわ、全然止まってないじゃん。ひくわァ」
「砂はもう落とせたから、いい」
「よかァないでしょー。保健室行きなよ」
「球技大会中に無様に転んで怪我しちゃいました~、って言いに行けってか? ハハ……」
「根に持つなよ純粋に心配してやったのに」
 グラウンドから一際大きい歓声と拍手が聞こえた。誰かがゴールを決めたのだろうなと二人は思った。球技大会は学年ごとに分かれて行われており、青野たちの学年は総当たり形式でクラス対抗サッカーをしている。黄色のクラスは先程試合が終わり、ちょうど試合のない時間帯だった。顔でも洗おうかと思ったがグラウンド側の手洗い場は混み合っていたので、校舎裏の手洗い場までやってきたのだ。青野のクラスは今まさに試合中だが、肝心の青野は突然受け取ったパスに焦ってしまい足がもつれて転ぶという失態を犯して、傷を手当てするという名目で場を離れてきたところである。傷口を洗うにあたってせっかく人目につかなそうな場所を選んだのに裏目に出てしまった。
 黄色はバシャバシャと顔を洗い、水が錆臭いと文句を言った。何につけ一言は文句を言わないと気が済まないやつだと青野は思う。顔を上げた黄色は、水浴びをした犬のように頭を振って水気を飛ばした。当然、近くに立っていた青野にまで水滴が飛び散ったので「やめろや! タオル使え!」と抗議する。光を浴びながらキラキラ飛び散った水滴は乾ききったセメントの地面に触れて一瞬灰色の染みをつくり、すぐに見えなくなった。黄色はケラケラ笑って、首にかけていたタオルで顔を拭いた。黄色は日焼けすると赤くなるタイプで、顔を洗った後も火照ったように赤かった。「鼻が赤くなってんぞ」と指さしてからかってやると黄色は顔をしかめ「カッコ悪くなるから嫌なんだよねェ」と鼻の頭をこすった。
「猫背も俺と同じでわりとすぐ日に焼けるよね。黒くなる方だけど。その方がいいよな~俺ってば生まれつき色白なうえに赤くなってすぐ戻るタイプだからさあ、ほら黒く焼けた方が男らしい感じになるじゃん、ワイルドな、羨ましいや。元の色が白いとさ日焼けしてもシャツ跡とかくっきり色が分かれてダサいし、かといって日焼け止めガッツリ塗るのも男子高校生がそこまでするか? って感じでちょっと気恥ずかしいし、焼けてないとそれはそれでなまっちろいインドアモヤシボーイって印象を与えてしまうし、ヒリヒリするばっかでいいことないよ、ていうか猫背のそれって地肌? 年中わりと浅黒いからさ、見た感じスポーツ少年みたいだよねェ! 陸上やってんのとか似合いそうなのにね」
 黄色は受けた一を十にして返さなければ気が済まない。青野の眉間に皺が寄った。蓋を開ければ青野の方こそなまっちろいインドアモヤシボーイに過ぎないのに”スポーツ少年”のように勘違いされることは実際のところ過去に多々あった。青野は長身の父親の遺伝か、小学生の頃は平均以上に身長があった(そして今ほど背筋も曲がっていなかった)。背が高く日焼けしている青野少年は、なんとなく運動ができそうな印象を多かれ少なかれ周囲に与えてしまう。結果として生まれる、運動していそうに見えるのに実際は苦手というマイナスなギャップのせいで、周囲の人々が勝手に落胆することに青野はさんざん嫌な思いをさせられてきた。青野君、かけっこ早そうなのにね。とがっかりしたように話す女子の声が思い出される。あれはいつの運動会だったろう。
 俺が一言でもそう言ったのかよ?
 徒競走で負けるよりよほどその方が悔しかった。どうしてどいつもこいつも勝手に期待しては勝手に離れていくんだろう。買いかぶられる才能のことについて初めて考えた頃の話だった。今通っている高校の同級生は、小中学校でも学区が同じだった見知った人間が多く、青野が運動が得意でないことをわかっているので、そういった屈辱を味わう機会はとんとなくなっていた。皆が順調に成長期を迎えたおかげで青野がノッポ扱いでなくなったことも大きい。青野は早熟なだけだったようで、平均よりは高いという程度で落ち着き、今では当時チビキャラとして認識されていた眞白の方が青野より背が高いぐらいだ。
 黄色はその頃の青野のことを知らない。青野と黄色とはそう長い付き合いではないのだ。それでも、黄色の羨望の言葉と見せかけた裏返しの悪意に気づかないほど浅くもない。息継ぎもなしによく俺の気分をわざと害するためだけの台詞をそれだけ吐けるもんだよと青野は感心すらする。言い返してやりたかったが、黄色は「どうして褒めたのに怒るの? 被害妄想だよォ」とかなんとか言って泣き真似でもするだろう。ならいっそ傷つける意図に気づかなかったふりをするのが最善だ、と思い直して「おぉ、赤くなるよりはカッコいいだろ。羨め羨め」と言った。なんでこいつはいつも俺に構うんだろうと思いながら。黄色はその反応を残念がるわけでもなく、頭の後ろで手を組んで「うん、ホントそう思う。来世に期待だなア~」とわざとらしく素直にため息をつく。黄色には青野が辿り着いた結論なんてお見通しだった。卑屈なこの友人が褒め言葉を真っ当に真に受けるわけがないことぐらいわかっている。怒って言い返してこようがこうして面倒がって無視しようが、傷つけられればそれで良かった。黄色だって、青野の平然とした反応と見せかけた精一杯の抵抗を見過ごすほど浅くはない。
 とりあえずグラウンド戻ろうよ、試合中なんだろ、と黄色に促されて歩き出す。すりむいた場所が悪く、歩くたびに傷口がつっぱって地味に痛んだ。
 体育嫌いの青野はただでさえ球技大会に気乗りしないのに、皆が見ている前で恥ずかしいミスをしてしまい、最悪の気分だった。人数合わせみたいなものなのにそれでも迷惑をかけてしまう。これだからチーム競技ってやつは嫌なんだと舌打ちをする。自分の協調性と身体能力のなさを思い切り感じないわけにいかない。むやみに劣等感を刺激される。大体なんで俺にパスしてきたんだ。同じクラスのやつなら俺の体育の時のダメさ加減を知っているはずなのに……と青野は思い返して腹を立てた。そして同時に申し訳なくなった。せっかくパスしてくれたのに、うまくやれなかったなあ。立ち上がった後はなるべく人と目を合わせないようにコートを去った。
 傷が痛むからと自分に言い訳しながらなるべくゆっくり歩いた。とはいえさほど距離があるわけでもないので、あっさりとグラウンドに辿り着いてしまった。試合に目を向けると、真っ先に同じチームの眞白が目に入った。集団の外から見ると彼の白髪頭はやはり目立っている。眞白は運動神経が良い方で、体育をやらせればそこそこうまかった。ただ、ボールやラケットを扱う競技はどうも苦手としており、どちらかというとただ走ったり泳いだりするのが上手なタイプなので、球技大会の中の活躍度合いは中の上という感じだった。
「さっきのはおまえのチームの方が入れた点だったっぽいね。おまえのクラス全勝なんじゃない? やっぱサッカー部多いの有利だよねェ」
 マッシロちょこまか動き回ってて面白いね、と黄色が笑う。あいつスタミナだけは無駄にあるからな、と青野も笑う。スコアボードを見ると二対一で青野のクラスが勝っていた。体育館でバスケットボール大会をしている女子たちも、青野のクラスは試合の合間の待機時間だったらしく、半分ほどがグラウンドに応援に来ていた。黄色が近くで座って観戦している女子グループに「ねえ誰が点入れたの? オレンジビブスの方」と声をかけた。「慧くんだよ」とメガネをかけた子が指をさした先では、二人の友人である慧が生き生きした表情でサッカーボールを追っていた。青野はスポーツに詳しくないが、サッカー部員に遜色ない活躍をしているように見えた。慧が絶妙にパスカットし、女子グループから歓声が上がった。青野は黄色の質問に応えてくれた子をちらりと見て、誰だっけなこの子、バレー部の子だった気がする、とぼんやり思った。
 青野と黄色のそばを通り過ぎる男子二人連れが、試合を横目で見ながら「あーやっぱ慧うめえなあ」「なんでアイツサッカー部入んなかったんだろ、勿体ねえよなあ」「悔しいけどサッカー部の俺よりうまい」「しかもイケメンだし、不公平だわ」などと話している。それを聞いた青野は撫で肩やっぱりうまいんだなと納得した。あれこれ感想を言いながら観戦していた女子グループの一人がふと気づいたように青野を見上げる。
「あれ? そういえば青野くんあっちのチームでしょ? こんなとこで何してんの、戻んなくていいの?」
 あまり話したことのない女子に不意に話しかけられて青野は驚いてしまった。他の女子たちもつられて青野を見る。彼女たちはどうやら青野の無様な転倒シーンを見ていなかったらしい。不思議そうな顔をしている女子の目を直接見ることができず、彼女が日よけのために頭に乗せているタオルに描かれたコミカルなキャラクターをじっと見ながら言葉を探した。ていうかなんだこのキャラ……犬?
「あ……えーと」
 そこでちょうど試合終了のホイッスルが鳴った。女子たちもぱっとコートに目を戻す。あーやっぱりあっちが勝ったねー、大本命だもんねーと笑いあっている。もう青野のことなど忘れたようだった。オレンジのビブスをつけたクラスメイトたちは、戻ってきた青野にまだ気づいておらず、整列するためにコート中央に小走りで向かっていた。笑顔で言葉を交わし合いながら、時折ハイタッチしたりしている。戻るタイミングを完全に失してしまった青野はとりあえずコートのライン際でそのままなりゆきを眺めた。ありがとうございましたッと元気よく挨拶が響いたあと、パラパラと拍手が起きる。観戦していた女子たちから飛んだ「お疲れ様ー!」という大きい声に、グラウンドの男子たちも気づいて手を振った。そのときたまたま慧と青野はバチリと目が合い、目を丸くした慧を見て青野は反射的に「ヤベッ」と思った。やっぱり慧くんカッコイイねー、という声が聞こえた。
「はは、サボってたのが真面目くんにバレちゃったね」
 黄色は「次はまた俺んチームだ、休憩短いなあ」と言いながらグラウンドへ歩いていった。女子グループも「そろそろあたしたちも出番じゃないっけ?」「やばーい!」と言いながら立ち上がり、パタパタと走りながら体育館の方へ戻っていった。いろんなところからキラキラした視線を浴びながら、慧はまっすぐ青野の方に向かってくる。
「猫背! 戻ってきとったんなら教えてやあ、なかなか戻ってこんから転んだとこヤバかったんかと思って心配したやろ」
「あー、悪い、なんか終わりそうだったしもっかい入るタイミングつかめなくて」
「審判のセンセに言ってそのまま入ったらよかったやんか」
 呆れたような表情の慧は青野の膝に目をやってギョッとした。
「いや全然治ってないやん! まだ血出てるやんか」
「や、これは血が乾いた跡だよ。もう流れてない。傷は洗ったからセーフ」
「セーフちゃうやろ、靴下にまで血いってるやん。どっちみち試合は無理やったんやなあ。はよ痛くなくなるとええなそれ」
 息も整えないままクルクルと表情を変えながらこちらを心配してくる慧を見ていると青野の心は少しあたたまった。離れたところで水筒のお茶を飲んでいた眞白も二人に気づいて寄ってきた。「いつの間に戻ってきてたのさあ」と言った後、眞白も青野の膝を見て目を丸くした。
「うわ痛そーじゃん、大丈夫?」
「おお、もう大丈夫」
 実際、まだズキズキと鈍く痛んでいたが、青野は微妙に強がった。眞白は「そんならいいけど」と笑った。慧が眞白のビブスを指さし「マッシロまだそれ着とるんか、次の試合で使うらしいからビブス脱いで渡しといてや」と苦笑しながら促すと眞白は「忘れてた!」とバタバタとコートに戻っていった。「忙しないやつ」と呟き、青野は慧に声をかける。
「また勝ったんだな。優勝すんじゃね? 俺らのチーム」
「他人事みたいな言い方やなあ」
「まあ俺なんも貢献してないんでね……」
「んなことないって」
 慧の優しさが今度は逆につらかった。俯きかけた青野はばっと顔を上げ、思い出したように糾弾し始める。ビシリと音が聞こえそうなほどの勢いで人差し指を突きつけた。
「ていうかそうだよおまえ! おまえだろあんとき俺にパスしたの!」
「え? あー、そうやな、俺がパスしたな」
「なんっで俺にパスすんだよ、外すに決まってんだろ」
 気圧される形になった慧の顔には、なぜ責められているのかまるでわからないと書いてあった。顎を指でかきながら慧は応える。
「いやおまえちょうどええところにおったし、あの試合中一回もボール触ってなかったやろ。ちょっとぐらいボール構わんと試合出ててもおもろないかなと思て……」
「余計なお世話だよ、俺は万が一にも誰の邪魔もしないようにおとなしく試合終了を待ってたの。ボール触らないとサッカーが面白くないなんてのはなあ、できるやつの理論だぞ! こんな大舞台でボールまわってくるとこちとら心臓がキュッとすんの! いいか二・度・と運動中の俺に期待をするなよ、ひとかけらもだぞ。いないものと思ってくれ。そうだ次の試合も俺は出られない、傷が痛いからな、ああ痛い、膝も心も痛い痛い」
 勢い込む青野に、慧は眉を下げてころころと笑った。
「あはは、大舞台って。大袈裟やなぁ。ちゅうか、おまえさっきマッシロに膝もう大丈夫って言ってたやん、ふふ、悪かった、悪かったって」
 慧の笑顔は不思議だった。整った顔立ちということもあるのだが、外連がなく誰もが好感を持たずにはいられない。笑わせることができたことが、その笑顔を向けてくれることが誇らしくなるような、そういう種類のものだ。少なくとも青野はそう思っていた。そのとき、慧は別のクラスメイトから呼ばれた。慧はそちらに返事をすると「お大事に。チーム編成はまあ、なんとかしとくわ」と言い残してこの場を離れた。
 一通り慧に文句が言えて満足した青野は一息ついた。慧は人気者なので、こういう行事のような人の多い時に青野と絡むのは実際珍しいことだった。慧はいつも彼を慕うたくさんの人に囲まれていたし、青野とは学内での交友関係も行動範囲もそんなに重なっていない。だから二人の交流はあの美術室でのささやかな時間に凝縮されている。そのことを知らない同級生たちから見れば”目立たないクラスメイトの青野に対しても優しい慧”が親切に声をかけているように見えるだろう。
 球技大会後半戦を休む大義名分を得た青野はやれやれと座り込んだ。あとは適当に観戦してやり過ごせばいいだろう。本当は涼しい日陰に座りたかったけれど、良さそうな場所は大抵埋まっていたので、適当にその場に腰を下ろした。膝が曲がるときにズキリと痛んで、顔をしかめる。痛みに苛立ちながら目の前の地面を見つめていると、そこに影が落ちた。誰かが目の前に立ったのだ。
「なあ」
 大方、眞白が戻ってきたんだろうと思いながら顔を上げた青野の視線の先にいたのは別の男子生徒だった。げっ! と青野が声に出しそうになったのは、ムスッとしていることを隠そうともしない顔で自分を見下ろしてくる日比野のことを苦手としているからである。声に出さずとも表情にはバッチリ出てしまったらしく、日比野の不機嫌ゲージが高まったのがわかった。降ってくる声の温度がさらに低くなる。
「さっきの見てたんだけど」
「何の話?」
「いたろ、裏の水場んとこ。他の人も使う水道で足洗うとか有り得ないんだけど。不衛生すぎるし。考えて使えよな」
 おそらくそれが正論なので青野は言葉に詰まった。まさか見られていたとは。
「あー……そう、だな。ごめん」
「僕に謝ったってしょうがないだろ?」
 んじゃどうしてほしいんだよとは言わず飲み込む。口論になるのも面倒だった。
「悪かった。でもそんとき言ってくれりゃよかったのに」
「そういう問題じゃないだろ。話そらすなよ」
 論点をずらしたいのはおまえだろ、と再び飲み込む。日比野に話しかけられるのはきまって青野が一人のときなのだ。あのときは黄色がいたから寄ってこなかったのだろう。そして今、わざわざ慧がいなくなったのを見計らってから現れた。
「あとさぁ、自分がミスったからってパスくれた相手に文句言うのもおかしいと思わないの。何様のつもりなわけ」
 ザアと風が吹いて埃っぽいグラウンドの砂を巻き上げる。日比野がメガネのつるをおさえるのを見ながら、ああこりゃ長くなるなあと内心舌打ちをした。


 声をかけてくる級友たちとの話がひと段落した後、慧が単身保健室に向かったのは、自分の怪我にやけに無頓着だった青野に絆創膏の一つでも差し入れてやろうと思ってのことだった。まだどの学年も試合を消化中で校内にいる生徒はまばらである。体育館の方からはバスケットボールが弾む音と上履きが擦れる音が聞こえる。途中、ばったり廊下で出会った眞白がすでに同じ理由で絆創膏を持っていた。ビブスを返しに行ったあと姿を見なかったと思ったら、絆創膏を取りにそのまま教室に戻っていたという。
「マッシロ、絆創膏なんか持ち歩いてるんか、意外やな」
「うん、おれのっていうか、ずっと前に猫背がくれたやつが鞄の底に残ってた」
「ああ、アイツは持ってそうやなあ、なんかわかる気がする」
 腕組みした慧は歩きながらうんうんと頷く。
 木登りしたり走り回ったり飛び降りたりととにかく動き回るのが好きだった眞白は、幼い頃はしょっちゅうあちこちに小さい傷をつくっていた。いつしか青野はそんな幼馴染のために絆創膏を持ち歩くようになっていた。おまえバカなんだから走り回んなよいっつも転んでんじゃねえかバカしょうがねえなと文句を垂れながら、土で汚れた眞白の顔を拭い、洗った傷口に絆創膏を貼ってやった。眞白自身は、擦り傷ぐらいでいちいち大袈裟なやつだなあと思わなくはなかったけれど、慎重に絆創膏を貼る青野の真剣な指先が好きだったから、任せていた。
「猫背はさあ、自分のことは結構適当なくせに、おれが怪我とかほっとくと怒るんだよね」
「たしかに、なんか潔癖っぽい雰囲気あるくせに基準がよくわからんよな。さっきの怪我のこともそうやけど」
「というか、何しても怒るときもあるなあ。ムツカシイんだ」
 絆創膏をきっかけに眞白は慧に思い出話を始める。
 眞白がかつて利き手を深く切ってしまったことがあった。そのときの眞白は思いのほか血が出たことに対する驚きが先に来て、あまり痛みは感じず、ただ「ありゃりゃ……」と間抜けな声が出た。その間もダラダラと流れ続ける血を見て青野が口を半開きにして顔面蒼白になっていたのをよく覚えている。
「そんときはさ、アイツのお気に入りだったコップを割っちゃったんだ。大事なモン壊しちゃって慌てた俺が思わず割れたコップ拾って握りこんじゃってザックリ」
「うううう」
 想像してしまったらしい慧は腕をほどいて右手をしきりにさすった。
 眞白は血の溢れる傷口を反対の手で押さえたけれど、止まらない血は指を伝ってボタボタと台所の床に落ちた。漠然と、やべえ掃除しなきゃ、と思っていると、時間が止まっていたようにかたまっていた青野が急に烈火のごとく怒り始めた。
「もーメチャクチャ怒ってさあ。血相変えて俺の手をとって自分のシャツでおさえこんで、おれむしろそれが痛えの、おさえられてるのがさ、だから痛いとかおまえのシャツ汚れちゃうよって言うんだけど、全然聞いてねえの。なんっで気をつけねえんだバカやろ危ないだろうがこのノロマって、なんていうんだっけ、そう怒涛の勢いってやつでまくしたててんの、さっきまで青かった顏が真っ赤になっちゃってさ……」
 幼馴染の尋常でない様子に眞白は焦った。青野がこんなに怒るほど大事なコップを壊してしまった罪悪感で胸がいっぱいになる。ごめん、ごめんね、と繰り返し言い続けたが、青野はあまりに切羽詰まった顔をしていて、耳に届いているのかもわからなかった。
「おれが何言っても、トロくせーことしやがっておまえは本当にバカだ何やってんだよ、ってずうっと怒ってんの。あんまりキレてるから絶交されるかもって思った」
 止血に使っていたシャツの袖が赤黒く染まりきって、ようやく青野はシャツを離した。シャツは傷口に少しはりつきかけていて、剥がされるとき眞白はその痛みにうめいた。ようやく痛覚が追いついてきたのだ。青野は注意深く傷口を眺め、傷の近くを指でそうっとそうっとなぞる。普段は絵の具で汚れるはずの青野の手が自分の血で汚れていくのがいたたまれなくて「何してんの? 汚れるから触んない方がいいよ……」と言った眞白にはじかれたように青野が目を向け、ようやく二人は目が合った。怒っていると思っていたのに、青野の瞳はゆらゆらと揺れていて、泣いてしまいそうに見えた。
 青野はギリギリと音の聞こえそうなぐらい眞白を睨みつけてから視線を手に戻し「ガラスの破片が残ってないか見てんだよ。確認する前に慌てておさえちゃったから中に入っちゃったかもしれない……」と早口で吐き捨てる。眞白の手を見つめる目はあくまでも真剣だった。「欠片が残ってたら元に戻せるかな?」と眞白が恐る恐る聞くと「は? 何言ってんだ?」といぶかしげな返事が返ってきた。
 慧は不思議そうな顔で話を聞いている。おそらく当時の青野と同じ意見だったのだろう。眞白は笑った。
「おれね、コップくっつけるために欠片探してんだと思ってたんだよ」
 嗚呼、と慧は理解し、ここにはいない青野に同情した。慧には青野の怒りの理由がわかっていたからだ。
 あの日の青野は、コップを割られたことに怒っていたわけではなかった。「欠片全部集めたら、くっつけたら元に戻せるかも」と泣きそうな顔で言う眞白に、青野は一瞬キョトンとした後、眞白が言わんとしたことを理解した。そしてその日一番の怒声を浴びせた。
「コップなんかどうでもいいんだよ! って怒鳴られて竦んじゃったよ。だって意味わかんねーもんじゃあなんでそんな怒ってんのって思ってさ」
「噛み合ってへんなあ。だってそれって猫背はマッシロが手をそれ以上切らんように見てたってことやろ?」
「うん。おれもそれに気づいて拍子抜けしちゃってさあ」
 自分がコップを割ったことではなく、自分が怪我をしたことに怒っているのだとようやくわかった眞白は余計に混乱してしまった。だって自分の怪我は治るけれど、青野のお気に入りのコップはもう二度と元に戻らないのだ。単に同じものを弁償すればいいわけではないのは知っていた。そのコップは亡くなった青野の母親が息子にくれたものだったから。なのに割れたコップには目もくれず、血眼で眞白の手を見つめている青野のことが不思議で仕方なかった。
「おれ、気が抜けたっていうか、そっちに怒ってんのかよって思っちゃって、そう言ったらあいつまたすんげー怒って」
「それはまあ……そうなるんちゃう? 火に油」
「今思うとおれ、たぶん言葉選び間違っちゃって。そんな心配してくれなくてもいいよ、おれが頼んだわけじゃないじゃんって言っちゃったんだ」
 そうしたら、怪我をしていないはずの青野の方がよほど痛そうな顔をして黙り込んでしまった。はっと息をのんだ音が聞こえたような気が、した。そんな顔をさせたかったわけではなかったから、眞白は困ってしまった。自分は大丈夫だと伝えたかっただけなのに。青野が自分の痛みのように抱え込まなくても平気だよとわかってほしかったのに。失敗した。あのときは結局なんと言えばよかったんだろう?
 慧は歯がゆく思って笑う。眞白のその言葉に、青野はおそらくひどく傷ついたはずだ。慧には眞白の気持ちも青野の気持ちもわかる気がした。けれどそれは今自分が何か言ったところでどうしようもない。
「それは……あいつも気の毒やなあ」
「おれ、そーいうときダメなんだ、うまい言葉が出てこなくって、あいついつも余計怒っちゃうの。そのあと病院いかされて、しばらくして傷は治ったけど、包帯とれるまで口きいてくんなかったからなぁ」
 苦笑する眞白の右の手のひらには、そのときの名残で白っぽい筋がうっすらと残っている。もうとっくに痛まないし、後遺症も何もなく、握ったり開いたりしても違和感はない。ペンだって筆だって元通り使える。だからただそこにあるだけの傷跡なのだけれど、見るとやはりどうしてもそのときのすれちがいのことを思い出す。眞白には最後まで理由がわからなかったけれど、眞白が選び間違えた言葉は実際のところ青野の心をガラスより深く抉ってしまっていた。あのとき現実世界には青野の血も涙も流れてはいなかったが、たしかに青野の中のやわらかいところが切り裂かれ、だくだくとあふれ出していた。何も言えなくなってしまった青野は、そのあとようやく一言だけ絞り出すことができた。

 絵ぇ描けなくなっちゃったらどーすんだよ。

 壊れ物に触れるように眞白の血まみれの利き手をなぞりながら、泣きそうな声でそう呟いた青野の声は今も眞白の耳に残っている。


「あれ、猫背のやつ日比野くんとおるな」
「日比野くん? ……って誰だっけ?」
「青野に話しかけてるやん。あのメガネの……三組のやつ。俺、美化委員会で一緒なんよ。何話してるんやろ、なんかもめとらん?」
 眞白も慧もその二人が話しているのを見たのは初めてだった。地べたに座っている青野に、メガネをかけた男子生徒――日比野が話しかけているのだが、遠目に見ても互いに表情が険しく、何かしら口論になっているように見えた。近づくにつれて会話の内容が聞こえた。どうも先程の試合のことについて話しているらしい。
「だーからさあ、俺にパスするのは悪手だってことをわかってほしかったんだよ」
「何それ? 自分が皆の前で失敗して恥ずかしかったのを責任転嫁して慧くんになすりつけてるだけだろ。慧くんは良い人だから笑って流してくれるけど、それをいいことにさあ、頭おかしいんじゃないの。どう考えても謝るべきなのは自分だろ?」
「…………」
「俺あんとき見てたけど君はノーマークのドフリーですっごいシュートチャンスだったんだよ。わかんなかったかもしれないけどさ、最高のパスだったわけ。それをシュート外すどころかこけるって、もうさぁ。結局慧くんが追加点決めて勝ったからいいけどあれで負けてたら目も当てられないよ。皆が君を見る白い目もすごかったろうね。だから君が慧くんに感謝することはあっても文句言う権利も筋合いも一個もないからマジで」
「わかったわかった……」
「なんだよその態度。悪いと思ってんの?」
 「嘘やろもしかして俺のことで喧嘩しとらんかあれ」と慧が小声で言う。争いごとを好まない慧にとって、他人のもめごとの中に自分の名前が出てくるのはなかなかショッキングなことだ。眞白は睨み合う二人に向かって能天気に呼びかけた。
「おーい猫背ー! 絆創膏持ってきたよ!」
「わっ、ちょ、マッシロ、ばっ」
 眞白の呼び声に、隣にいる慧は焦る。日比野はハッとしたように眞白の方を見た。そこに慧がいることに気づくと、ばつの悪そうな顔をして足早にその場を離れていった。青野はその背中に向けて舌を出している。隣まで来て絆創膏を渡してきた眞白に、青野はしかめっ面で愚痴をこぼした。
「なんなんだあいつ。何が気に入らないんだっつーの」
 ぶつくさ言いながら受け取った絆創膏を膝に貼ったものの、苛立ちのままに貼ったせいで茶色い粘着テープ面には皺が寄っている。
「何言われてたん?」
 少し緊張した声色の問いかけだった。青野は慧をチラリと見る。
「皆の水飲み場で足洗うなって言われたよ」
 慧は続きを待つようにじっと青野を見返していたが、青野はすぐに自分の膝に目を戻し、それ以上は何も言わなかった。その日の球技大会は青野のクラスが優勝し、賞品としてクラス全員に缶ジュースが配られた。


 球技大会の日は授業がなく、いつもより放課後が長くなる。アルバイトの時間まで中途半端な空き時間ができた慧は久しぶりに美術室を訪れた。美術室では、どうせあとは帰るだけだからと着替えるのを面倒くさがって体操服の上にエプロンをつけた青野が絵を描いていた。ドアが開く音で慧に気づいた青野は軽く片手を上げた。普段は画材のにおいがする美術室だが、今はシトラスの匂いがかすかに漂っている。おそらく青野が制汗剤を使ったのだろう。
「撫で肩。今日はお疲れさん」
「猫背もな。もう足は痛くないんか?」
「膝だからなあ動かすとちょっと響くけど、大したことない」
「そりゃよかったわ。五時半ぐらいまで時間潰させてな」
「どーぞどーぞ。今日はまだ俺しかいないし、好きにして」
 慧はまっすぐ本棚に向かっていき、分厚い写真集を手に取った。本棚の近くの席に座ってペラペラとページをめくり始める。そこに並ぶ世界各地の見事な名建築の数々は慧の心を癒す。洗練された完璧な構造。時を経たことで得たかけがえのなさ。目を閉じて想いをはせた。――そこで急に、日比野と青野の口論が目蓋の裏に浮かび、慧は目を開けた。
「おまえって日比野くんと仲悪いんか?」
「日比野?」
「ほら、今日なんか言い合いしてたやろ。水飲み場がどうとかって」
「あぁ、あいつか。知らねー、なんなんだろうな、いっつもああしてつっかかってくんだよ」
 青野は絵から目を離さず手も止めない。今ノっているところなのかもしれんな、と慧は申し訳なく思ったが、もう少し話を聞きたかった。青野の反応から見るに、日比野との確執(?)は今に始まったことではなさそうだ。
「なんでからまれるん?」
「俺が聞きてえっつの。だって俺あいつ……日比野と同じクラスになったこともないし、全然喋る機会ないわけ。なのにたまーに今日みたいにフラーッと寄ってきては説教かましていくんだよ。なんなんだマジで」
 慧が食い下がったことで、青野も嫌なことを思い出して勢いが削がれたのか、忌々しそうな顔をしてペインティングナイフを置いた。ペーパーパレットのそばに置いてあった缶ジュースを飲み、ため息をつく。
「なんで嫌われてんのか、心当たりがねえんだ。面倒くせー。ああいうの俺がひとりの時にしか言ってこねえから、マッシロも知らなかったと思う」
 慧にとっての日比野はそういうことをしそうな人間ではなかったので不思議だった。委員会で一緒に活動するときだって日比野はごく普通のいいやつという印象だった。皆の前ではっきり意見を言ったりするわけではないので特別目立つタイプではないが、委員会活動に対しても真面目だし、個人的には好感の持てる人間だった。掃除だって丁寧だ。だとしても、日比野の青野への注意は、美化委員会としての言葉として納得するにはあまりにも攻撃的な気がした。普段の物言いは穏やかそのものなのだ。ああいう厭味ったらしい台詞を青野に投げかけていた陰湿さが若干ショックですらあった。なぜ日比野は青野を目の敵にしているのだろう?
 青野は再びペインティングナイフを握ったが、描き始めはせず、手の中で弄びながら話し続けた。
「けどまあ、今に始まったことじゃないかもな。昔からああいうやつはいたよ。俺は何かした覚えもないんだけど、なんでか俺のことが気に入らないやつってのがいんの。おまえはそういう悩みはなさそうだよなあ。顔も良いし、人当たりもいい。勉強も運動もできる。おまえのこと嫌いになれるやつなんかそうそういないだろ」
「なんや、おまえそんな、急に、褒めてもなんもないで」
「妬ましく思われることはあるのかもしんねえけどな。イケメン特有の悩みってやつ」
「それは……どうやろ。わからんなあ。あんまり感じたことないわ」
 撫で肩はふんわりと笑った。
「自分じゃ自分をイケてるとか思わんし」
「うわホントに好青年みたいなこと言いやがって。おまえでも人に嫌われて悩むこととかあんの?」
「あ……るよ。おまえ俺をなんやと思ってんの、完璧超人やと思ってるんか」
「わりと近い印象持ってっけどね」
「嬉しいけどなんか反応に困るわ」
「悩みったって、どうせ思春期の妹にウザがられてるとかその程度のことだろ」
「うっ……、まあそうなんやけど……」
「図星かよ」
 クックッと青野が笑う。切れかけた窓際の蛍光灯が二三度チカッと明滅した。青野はそちらを見つめた後、ふと日中のことを思い出して慧に聞いた。
「今日思ったんだけど。おまえって運動できるのに部活やってないよな。勿体なくない?」
「んん? ああー、こっち引っ越してくる前はスポ少で野球やっとったなあ。親に言われて始めたんがきっかけやったけど、結構好きやったよ。えー……中学あがるまで続けてたことになるんかな」
「やっぱやってたんだ、ポジションは?」
「ピッチャー」
「うわー……」
「うわーってなんやおまえ」
「いや、やってそ~っ……と思ってさあ」
「なんでちょっと含みのある言い方するんや」
 ぶすくれたような顔をしてみせる慧に青野は笑う。スポ少の時代とはいえピッチャーを任されていたということは、野球もうまかったんだろうな。想像に難くない。彼にはチームのエースがよく似合う。友情、努力、勝利。……それにしても、と青野は思う。
「こっちじゃ野球部には入んなかったんだな」
 慧は顎を指で撫でた。
「んー……まあそうやなあ。中学になると練習多くなって大変そうやったし、部活って何かと金もかかるしなぁ。あんまし家に負担かけたくなかったし、知らん土地でそこまでして続けたいわけやなかったし。引っ越したんを機に辞めた」
 青野の脳裏に慧の暮らす団地のことが思い浮かぶ。家庭の事情に不用意に触れてしまった気がして青野は気まずい気持ちになったが、それを察してか慧がおどけるように肩をすくめて見せた。
「何より坊主頭が似合わんのや俺、頭の形のせいかなあ。コンプレックスやったよ。やから野球に未練はないな」
「……そーかい」
 気を遣いかけたのがバレて反対に気を遣われたことに気づいて青野は頭をかく。
「けどおまえを欲しがる運動部なんかたくさんあっただろ?」
「入学した頃は誘ってもらえることはあったな。ありがたい話やね、求められるのは嬉しいし俺も運動が嫌いなわけちゃうけど、高校じゃ部活よりバイトしたかったから結局どこにも入っとらんねえ」
 なんでもないことのように話す慧を、青野は横目で見る。引く手数多だけれど決して驕らない、穏やかなこの同級生は、何に属することも選ばず、こうして時折アルバイトの合間にここで放課後を過ごしている。青野は目を細めた。
 見る人が見れば、勿体ないことなんだろう。慧は「嫌いなわけちゃう」程度の言い方に留めてはいたが、体育の授業なんかの様子を見ていれば彼が運動を好きなのは青野でもわかる。本人の身体能力が高いだけでなく、人柄の良さでチームにもよく馴染むし、周りをよく見ているからチームメイトを活かすポジションが似合う。今日の球技大会のときの周囲の反応を思い出す。そういう素質はきっと生まれながらのものも含んでいる。きちんとした運動部に所属していればより磨かれ開花する才能だろう。青野はスポ少時代の慧を知らないが、野球を続けていれば今もエースピッチャーだったろうし、他の競技でもそれなりにうまくやっていただろうと思う。そしてそれは本人もわかっているはずだ。けれど慧は笑ってそれを放棄している。執着せず、その未来を選ばなかった。傍から見れば苛立つこともあるだろうなあと青野は思った。
 俺がこいつを運動部に誘った側だったとしたら、自分より運動ができるくせに真剣に続けようとしない様に怒りを覚えたかもしれない。それにもし……絵だったらどうだっただろう。小学生のときだって、走るのが早いうえに俺より絵がうまいやつだって普通にいた。美術部だから絵がうまいわけじゃない。絵がうまいから美術部に入るわけじゃない。絵がうまいねと休み時間に皆に囲まれていた同級生は「漫画家とか画家になるの?」と聞かれて「えーなるわけないじゃん、ヘンなこと聞かないでよ」と無邪気に笑っていた。俺が一生懸命描いた絵より、同級生がなんとなく描いた絵の方が上手だった。あのときの気持ち。
 じゃあ、撫で肩は何を選んだんだろう。
 青野はただそれが気になった。
「バイトしたかったって、たしかにおまえ一生懸命アルバイトしてるイメージあっけど、金遣い荒い気もしないし、欲しいもんでもあんの?」
「ある。昔からずーっと。やからバイトしとるんや」
 きっぱりとした口調に興味がわいた。弄ぶのをやめてペインティングナイフを水洗いバケツにつっこむ。
「へー、なにがほしいわけ?」
「えー……笑うなよ。誰にも言ったことないんや」
 眉を八の字に曲げて言い渋る慧の様子はさらに好奇心を刺激する。青野は慧に体を向けて追及した。
「しないしない。なになに?」
 慧は本を閉じて、少し俯きがちに、恥ずかしそうにぼそりと言った。

「……家や」

 まったく予想だにしていなかった言葉に青野はつんのめるように驚いた。
「家?! もうマイホームのこと考えてんの、おまえ」
「まあ、そうなるんかなあ」
「ええー……家って……俺考えたこともないよ、どう、買えそうなもんか?」
「小学生の頃からコツコツお年玉ためとるしバイトも続けとるけど今はまだ頭金にすらならんなあ」
 青野には家を買うのにいくらぐらいかかるかすらよくわからないので、そもそも頭金が高校生に稼げるような額なのかもわからない。冗談言ってんのか? と青野は慧を見たが、彼はいたって真剣なようで、少なくともからかっているわけではなさそうだ。生易しくはなさそうな金額を目指して慧はアルバイトに精を出しているのだ。
 青野は目をつぶる。それが叶った未来を――赤い屋根の庭付きの一戸建てを想像してみた。ガレージにはピカピカのステーションワゴンが停まり、日の当たる庭には毛並みの良い大型犬が気持ちよさそうに寝そべっている。門の前で照れくさそうに笑っている慧(スーツを着てもやっぱり撫で肩だ)の隣では、優しそうな奥さんが可愛い赤ん坊を腕に抱いて微笑んでいる。絵に描いたような幸せな家庭。
 そういった新築一戸建てが集中しているのは南区の住宅街だ。南の方は開発が進んで、道路も整備されて綺麗になっているし、大きなチェーン店も増え、住宅地が整備されたことでベッドタウンとしての側面も持ち始めている。青野や慧が暮らす北区は、さびれた商店街と団地といった古びた街並みがメインで、同じ街でも南北で景観も住んでいる層も全然違う。はっきり言って南北というか明暗と言っても良い差だよなと青野は思っている。南区の中には北区の団地の子と遊ぶなという親すらいるほどだ。
「あの団地から引っ越すのが夢ってことか?」
「……うーん、そんなとこかなあ……」
「そうなのか」
 俺はあの団地わりと好きだよ、と続けた言葉が言い訳じみていた気がして青野は自己嫌悪した。
 噂を聞いたことはある。親の仕事の都合で遠くの街からあの団地に引っ越してきたという慧の家庭は、前まではまあまあ裕福だったけれど今はすっかり収入が少なくなってしまったんだと。青野は嫌でも想像してしまう。何不自由なく陽だまりで育ったように見られがちなこいつにも、こいつなりに人にわざわざ言わない事情が色々とあるんだろう。好きだっただろう野球を続けず、家を買いたいんだと笑い、勉学に励み、アルバイトに日々を費やす撫で肩。自分のように環境に不満や苛立ちがあるのだとしても、それをおくびにも出さない俺の友達……。難しい顏をしている青野を慧が「ちょっとちょっと!」と笑い飛ばした。
「おまえ、なんか今ヘンな想像しとるやろ。言っとくけどなあ、俺がせかせか働かなきゃヤバいほど俺んちの財政がアレなわけやないからな。言うなれば、俺ら兄妹二人進学しても大丈夫やけど、それなら学費安い国公立で奨学金もらいながらやないとさすがにキビシイかな、ぐらいのレベルや。よくある話やろ。そうやないとハツやってゲーセン通いなんか続けられんやろ?」
「そ、そっか。言われてみりゃそうだな」
「俺も今住んどるとこのことは好きやし、家がほしいっつうのは現状に不満があるってのとはちゃうよ。おまえが何考えてたんか、なんとなくわかるけどな」
 図星を突かれた青野が気まずく視線を彷徨わせたのを見て慧はくしゃりと笑った。誤魔化すのが下手な友人を愛しく思う。
「うちにはそりゃ昔より金はないなったけど、家族みんな元気やし、スポーツにそこまで真剣になれんかったのも嘘やない。俺は俺なりに今も幸せや」
 断言してニコリと笑った慧に、青野は安心したようにうなずいた。そのとき罪悪感を感じたのはむしろ慧の方だった。
 相手に失礼なことを考えてんのは俺も一緒やった。たしかに引っ越してくる前後の時期は、家の中もグチャグチャになったし、ハツも傷つくこといっぱいあったと思うし、さすがにキツいなあと思うことがなくはなかった。けど、面倒な家庭を抱えているのは俺やなく猫背の方やろ、とちょっぴり意地悪く思ってしまった自分が恥ずかしい。おまえやって、母親とは死別しとるし、気性の荒いアル中の親父さんはあんまり家にも寄りつかんらしいやんか。デリカシーに欠けるのが欠点のお喋りな友人が、聞いてもいないのに吹聴してきた事実。おまえが俺んちの事情をなんとなく察してるのもたぶん同じやつがきっかけやろ。世間的にはさ、おまえが見られとる目やって、俺に向けられている目ときっと似たようなもんなんや。片親のレッテルも、没落貴族のレッテルも、好きで貼られとるわけやないもんなあ。やから、貧しい家族を助けるために自分を犠牲にして頑張るような、そんな健気な撫で肩くんのストーリーを勝手に作られちゃ戸惑ってまうわ。俺はそんなやつやない。俺が家を買うために貯金しとるのはどこまでも己のためであって、己の欲望を満たすためだけのもんなんや。お綺麗な後付け設定されると、照れるを通り越して罪悪になってまう。
「早く買えるといいな、家」
 青野のやさしい声が耳朶を打った。心から言ってくれた言葉だとわかる。何とも形容しがたい感情が慧の喉元にこみあげる。適当に開き直した写真集を見つめて、なんでもないように応えた自分の声は震えなかっただろうか。
 慧には、まだ誰にも言っていない、言えない秘密があった。
「ありがとな。無事に建ったら、おまえも遊びに来てな」

 言えるわけない。燃やすために家が欲しいなんて。