エスケープ

 何かの話の折りでその話題になったとき、青野は「え、意外」と言ったのだけれど、ハツは実は無遅刻無欠席の優良生徒である。だからといって学校が特別好きなわけではなくどちらかというとむしろ青野の抱くイメージどおり行きたくはないのだけれど、行く行かないを天秤にかけると「休む方が後々面倒」という結論が出るから、無気力ながらに今日もタラタラと学校へ通っている。
 朝から不運なことに、登下校に使っている自転車のチェーンが登校中に壊れてしまった。自力では直せそうもないので、帰りに回収してサイクルショップに持ち込むしかなさそうだと近くのコンビニに一度置かせてもらうことにした。足が治ったからと言っても徒歩で学校に行くのは疲れる。朝からすでに気温はむくむくと上がり、歩いているだけでじっとりと汗をかいてくる。このぶんだと昼間には三十度を超えるだろう。ハツのただでさえ少ない気力がどんどん目減りしていく。だるい、とハツから湿気たため息がもれる。ようやく北区と南区をつなぐ橋のそばまで来た。晴天が続いたせいか、川の流れも穏やかなものだった。ここまで来れば学校までは折り返し地点だ。
「おや? 君は……」
 反対車線の歩道の方から呼ばれた気がしてそちらを向くと、驚くことに昨日出会った青年がいた。あ、天野晴々……! ハツの脳裏に、一瞬にして昨日のゲームセンターでの気まずい空気が思い出された。天野は相変わらず気取ったハットをかぶり、この気温だというのに今日はベストを着てネクタイまでしめている。袖をまくった腕には、腕時計のかたちに日焼けの跡ができていた。ハツの反応といえば「あ……」と声とも息ともつかない音が口からもれただけにもかかわらず天野は満面の笑みを浮かべた。呼んでもいないのに左右の安全を確認してから道路を渡って駆け寄ってくる。
「やっぱりハツちゃんだよな! オレだよ、天野だ、昨日ゲーセンで会ったろう?」
 ハツとは顔見知りとも呼べないレベルの親密度のはずなのに、十年来の親友に会ったかのように心底嬉しそうに笑う。会えて嬉しいという気持ちが警戒心など抱きようもないほどまっすぐ伝わってきて、ハツは思わず目をそらした。あまり、そういうものを向けられるのに慣れていないのだ。
「おっ、お、おはようございます」
 なんと言っていいものかわからずどもりながら無難に挨拶をすると、天野も「グッドモーニング!」と返してきた。どこまでも爽やかだ。
「登校中かい?」
「はあ、そうです」
「そうか、また会えるなんて奇遇だなあ。オレも一緒に歩いていいかい?」
「まあ、お好きにどうぞ……」
 『また会えるなんて奇遇だなあ。』その言葉に昨日の黄色の話と壊れた自転車がフラッシュバックしてハツはゾゾッとした。この邂逅は単なる奇遇? ありふれた偶然? それとも……? 天野は怪我のせいで歩幅を小さくせざるをえないハツにさりげなく歩調を合わせていた。紳士的な男なのだ。そして黙っているハツを気にしているのかしていないのか、聞かれてもいないことを語り続けている。おしゃべり好きな紳士なのだ。
「オレはこの街のとある事件を解決しに来たんだ。まあこの前来たところだからまったく捜査は進んでないんだけどな。なんでも、この街では立て続けに物が壊されているそうじゃないか。ハツちゃんも知っているか?」
 ハツは一瞬足を止めそうになった。まさか、このひとがこの街に帰ってきたのは。
「『壊し屋』ってやつですか」
 ハツの言葉に天野が指をパチンと鳴らした。
「そう! そんなふうに呼ばれているみたいだな。やっぱりこの街じゃ有名人か。正体不明、誰にも知られず、何かを壊しては去っていく……法則性もなく、目撃証言もない。まるでマジシャンだな。警察も手を焼いている相手だとか。オレはそいつを見つけに来たってわけだ」
「誰かに頼まれたんですか?」
「うーん、今回はオレの個人的な興味で動いているところが大きいな。普段は雇われて動くことが多いけどね。どんなやつが何のためにそんなことをしているのか気になるし、それに、どうやって壊しているのかもぜひ見てみたい。ネットでいくつか画像を見たが見事なもんだった。人間ひとりの力で簡単にできることじゃない」
「仮に見つけたとして、どう解決するつもりなんですか? 壊し屋は金属だってボッコボコに壊すんですよ。猛牛、ショベルカー、殺戮ロボット、そんな相手かもしれない。説得なり実力行使なり、止めるすべがあるんですか?」
 天野はフム、と顎を親指でさすった。いちいち芝居がかったしぐさをする癖がある男なのだ。
「どうやって止めるか、か……それは考えていなかったなあ」
「えっ?」
「だけど解決はする。壊し屋事件は近いうちに終わるだろう」
「え……え? なんでですか?」
「それは」
 呆気にとられて素の声で戸惑うハツを、天野は立ち止まって見つめた。ハツは自然と見下ろされる形になる。ハットの鍔が落とす影の中で天野は不敵に笑った。
「オレが名探偵だからさ」
「そんなの……」
 絶句した。理屈になってない、冗談じゃない、バカにするな、誤魔化すな。ハツはそう言おうと思った。名探偵だから事件が解決できるなんて、そんな子ども騙しのロジック。っていうか、子どもですら納得しないだろう。事件が解決できる探偵が名探偵なんであって、名探偵だから事件が解決できるってのは、暴論というか、拡大解釈というか、とにかくそんな幼稚な言い分は……。けれど、天野と目が合うと、そんな言葉は出てこなくなってしまった。  その瞳の中にあるのはただの確信だった。天野は本当に『自分が名探偵だから、事件は解決する』と思っているのだ。天命のように、天啓のように、そのいつかの未来の果てを見てきたかのように。嗚呼、嗚呼。ハツは思う。黄色先輩が感じてきたものも、こういうものだったんだろうか、と。だったらたしかに、同情する。これは、結構、クるものがある。だってたぶん私だけだ。この街で、このひとの望むことを知っているのは、たったひとり私だけかもしれないのだ。それを引き当てるのがどのぐらいの確率かなんて考えたくない。黄色先輩が言っていたことは考えすぎや嘘の類じゃなかったんだ。
 あのとき天野晴々の運命に絡めとられたのは黄色だけではない。ハツがガンツーにいたことすら、彼の星に引き寄せられた事象だったということなんだろう。ハツは唾を飲み込んだ。喉が鳴った。このひとが本当に名探偵ならば。運命を蹴飛ばし、従え、数多の偶然の束を引き寄せて、最良の結末を持ってくることができるというならば、私は……。
 黄色は怒るだろう。せっかく忠告してくれたのに、ハツは過去の彼と同じことをしようとしている。
 だけどハツはいつもと違うこの夏がどうしても気に入らなかった。壊し屋が現れてから、不穏な空気の漂うこの街も、少しだけ様子のおかしい兄も。それがただ元に戻ってほしいだけだ。それぐらい願ったって、他力本願が許されたっていいじゃないか。思いどおりになるのが癪だの、人生イージーモードが許せないだの、黄色のように大げさに考えなくたって、目的が同じならば協力を悩まなくてもいいはずだ。
「……私は利用されてもいい」
「ン?」
 ハツはもう選択した。ハツの言葉が聞き取れず、器用に片方だけ眉をあげて見せた探偵に、はっきりと告げてやる。
「私、『壊し屋』を、見たことがあります」
「なんだって?! そりゃあ本当かい」
「足を……ケガしてたんですけど。それもそのときのものです」
「そんな、痛ましい……君の足も……壊し屋の破壊の対象になったのか? 負傷者を出したなんてのは初耳だが」
「いえ、そんなつもりはなかったと思いますよ。どっちかというとびっくりした私が転んで勝手にケガしたようなもんです。情けない話なので人には言っていないですが」
「そうなのか。あれだけの技能……いや異能と言うべきかな、とにかく力を持つ者が人体すらも破壊対象にするのならとんでもないことだからな……。だけれども、今までに例がないからと言って、これからもそうならないとは限らない。壊される物によっては、君のように巻き込まれる人がもっとたくさん出てもおかしくはない。やっぱり迅速に解決するべきだな……」
 天野は表情のよく変わる男だ。名探偵だと言い切った自信満々の笑み、目撃証言に目を見開いた驚愕の表情、ハツの傷を気遣う心配そうな目線、少し俯き凛々しい眉を寄せて真剣に考える顏、そして、顔を上げた途端の、この、輝かんばかりの笑顔。
「それにしても、目撃者がいないと言われていた事件の目撃者とたまたま知り合っていたとは、オレはなんて幸運なんだろう!」
 黄色が聞いたら脳の血管の一本や二本切れそうな台詞を吐いて天野は笑う。ハツは自分の感情が昂ぶり始めたのを感じて、珍しいなと他人事のように思った。そしてその日ハツは生まれて初めて無断で学校を休んだ。


「……ハツが学校に来とらんみたいなんよ……」
 なんだか撫で肩が死にそうな顔してるなぁと思っていたら、どうやらそういうことみたいだ。快晴の今日、教室はうだるような暑さで、たまに風が吹き抜けてもぬるい空気がかき混ぜられるだけで全然涼しくなかった。校舎の壁にとまっている蝉がいるのか、やけに鳴き声が近く感じられる。けだるい昼休みだ。
 弁当を食べていた俺とマッシロのところに「昨日か今日ハツ見とらん?」と撫で肩が話しかけてきたのがさっき。撫で肩は運動部のにぎやかなグループと昼を共にしていることが多いのだけれど、今日は弁当もそこそこにいろんな相手にそうやって話しかけているようだった。事情を聞いたら冒頭の返し。「見た」と答えようとしたところ、何か楽し気な気配を察知したのか黄色も近寄ってきた。
「ハツって、アレかァ、撫で肩の妹だよね。昨日ガンツーで会ったあの子」
「え? おまえらハツと会ったんか。ガンツーで?」
「ああ、会った会った。昨日は別にいつもどおりだったけど。あのあと体調でも崩したんかな。来てないって、学校休んでるってことだろ? それを知らなかったってことか?」
 俺の問いかけに撫で肩は力強く首を横に振った。ブンブンと音が聴こえそうな勢いだ。
「それが、朝は普段どおり家出てるんよ。制服着て鞄持って、いってきますって。俺も見たし。けど学校には来てないんやって。昼前にハツの担任の先生に聞かれたんや、おまえんとこの妹今日来てないけどどうしたんだなんか聞いてるかって。聞いてへんよ俺も驚いたわ。理由なんか俺が教えてほしいわ!」
「落ち着けよ」
「ハツは無断欠席なんかしたことないし、学校休みたいなら最初から仮病使うと思う。登校途中で面倒くさくなって行くのやめるようなタイプちゃうんよ。携帯電話持っとらんから連絡もつけようがないし、なんかあったんやないかって心配なんや……」
「別に今まで休んだことないからって、ハツちゃんだってフラッと休みたいときぐらいあんじゃないのォ? 複雑なお年頃だし、いろいろあんでしょ。心配しすぎじゃないの。妹ったってもう高校生なんだし、年端もいかないガキンチョじゃないんだからさァ、ほっときゃいいんじゃない」
 うちわ代わりの下敷きに乱雑に貼られているキャラクターシールのふちを爪でカリカリしながら黄色がそう言うと、撫で肩はへにょりと眉を下げて口をへの字にした。嘘だろ、ちょっと泣きそうじゃん。黄色の指がピクリと一瞬止まった。あ、今ちょっと動揺したな。黄色は意図して人を傷つけることは好きで平気でも、思ってもみないタイミングで相手がヘコむと焦るみたいだ。
「……黄色もそう思うん?」
「え? え何が?」
「『もう子どもじゃないんだから』って。最近ハツにもよく言われるんや。メーワクそうな顔で。俺からしたら高校生になっても妹は妹で家族やからやっぱりいろいろ気になるんやけど、鬱陶しいんかな、俺……」
「うーん、鬱陶しいんじゃない? こうやって行方を聞きまわってたのが後でバレたら絶対もっとウザがられるよ」
「ウッソちょっとはフォローしてくれてもええんちゃうの」
 慰めを期待する相手を完全に間違えている。一刀両断されたせいか、心なしか撫で肩がさらに撫で肩になった気がする。それ以上なでたら肩がなくなるぞ。シュン……という効果音を添えたいぐらい落胆している。前から思っていたけど、こいつ、結構過保護だよな。それとも俺が一人っ子だからわかんないだけで、下のいる兄貴なんてこんなもんなんだろうか。撫で肩の世話焼きな気質は生来のものというよりは妹持ちゆえに育まれたものなのかもしれない。ハツもなかなかクセのあるやつだし、心配になるのは無理もなさそうだ。なんとかしないとと感じたのか、マッシロが食べ終えた弁当のプラスチックの箸をしまいながら昨日のことを話し始めた。
「んと、ガンツーで会った後はすぐ帰ったよね。特におかしな様子もなかったと思うけどな……あぁ黄色が最後に話したんじゃないっけ? ほら、黄色がメダルコーナーに行ったあと、ハツちゃんもそっちから帰ったし」
「そうなんか黄色?」
「あぁー、まぁ。妹ちゃんの帰り際ちょろっと話したけど。でもそんだけだよォ」
「何話したんや?」
 身を乗り出しそうな勢いで問う撫で肩に、黄色は口元をひくつかせた。珍しく黄色がヒいている。
「えぇ……その情報いる? おまえちょっと怖いよォ」
「ご、ごめん。尋問みたいになってしもたな。ヘンな意味やないんよ、ハツはその、口悪いくせに内弁慶というか、人見知りやから、初対面のおまえと話をしたってのが意外やったんや。知らん人の前ではだんまりなことが多いからなぁ」
「あぁ、たしかに楽しいお喋りってほどのトークじゃなかったけどねェ。他愛もないことだよ。思いつめた感じでもなかったし、だぁいじょうぶだって、フラッと帰ってくるって」
「なら……、ええんやけどなあ」
 撫で肩はなんともいえない表情になった。安心したようには見えないが、少なくともあちらこちらに聞きまわるのはやめたらしい。しかし妹相手に内弁慶呼ばわりって、無条件に庇護対象なのかと思いきや意外と客観的にハツのことを見ているんだな。その話はなんとなくそこで終わり、話題はもうすぐ始まる夏休みの過ごし方に移っていった。話しているうちに蝉はどこかへ飛んでいったのか、騒がしかった鳴き声がいつの間にか遠くなっていた。


 なんでもない顔で「遅刻しました」なんて出てくるオチかと期待したけれど、放課後になってもハツは学校に来なかった。授業を終えて美術室に向かう俺に「もしハツが美術部の方に顔出してきたら教えてくれん? 俺もうバイト行かんといけんくて」と、眉の下がりきった撫で肩が声をかけてきた。そんな可能性はないだろうなと思いつつも頷いて、「よろしく頼むわ」と後ろ髪ひかれまくりな顔でバイトに向かう撫で肩を見送った。もしかしたらと思いながら美術室のドアを開けたが、案の定ハツはいなかった。ハツは、というか誰もいなかった。俺が一番乗りだ。
 ハツが学校に来ていないことは藍も心配していた。部活に出てくるなり「先輩はハツのお兄さんと同じクラスですよね、何か聞いていないですか?」と問われて「いや、兄貴の方も知らねえんだって」と返すと「そうですか……」と目に見えて落胆した。
「ハツが休むなんて珍しいですし、家族の方も理由を知らないなんてどうしたんでしょう」
「そだな。ま、明日には来るんじゃねえの」
「何かあったんじゃないですよね?」
「俺に聞かれてもな」
 俺の返事は存外素っ気なく響き、藍は少し不満そうにした。先輩は心配じゃないんですか? と言いたそうな顔だ。俺だってまったく気にならないわけじゃないけれど、俺の中のハツはいつも超然としていて、俺なんかの心配を軽く拒んでくる。アンタなんかに心配されるなんて心外ですとでも言いそうだ。それに、俺とハツはただ美術室でたまに顔を合わせるだけの関係だし、兄弟である撫で肩や友人である藍ほどには気にかけられないのも事実だ。藍はそれを冷たいととらえるかもしれないが、温度差があるのは仕方ないと思う。
「大丈夫だろ」
 居心地悪さをごまかすために、何の根拠もなくそう言うと、意外にも藍は納得したようだった。
「そうですね。きっと大丈夫ですよね」
 こちらの方が拍子抜けするぐらいあっさりとその話は終わった。藍は鞄を置き、静物画のモチーフがセッティングされたままになっている机の前、いつもどおりのポジションに移動する。本当はおまえも別に心配してないんじゃないだろうな? と思わず勘ぐってしまう。まあ俺としてはその話が終わって安心した。それについて話し合ったって、何もわからないし変わらないし、すべてはハツ次第だからな。気を取り直して絵の具のチューブの蓋を開け、ペーパーパレットに絞り出した。プライマリー・ブルー。俺がよく使うせいでほとんど残っていなかった。最近はこの色の気分だ。
 蒸し暑い日が続いている。美術室にはクーラーがない。二階の西向きにある美術室は、日中かなりの日光が注ぐ。日陰にイーゼルを置いているとはいえ、じっと絵を描いているだけでも汗をかく気温だ。藍と二人きりの時間が長いので、ヘンな汗をかきそうでもある。ちらりと視線をやると、藍はデッサン用の鉛筆をカッターで削っているところだった。藍は鉛筆を削るのがうまい。丁寧に、無駄なくきちんと尖らせる。俺がこいつを好ましく思う数少ないポイント。……何を言われるでもされるでもないのに、こいつといるとどうしてこんなにプレッシャーを感じるんだろう。先輩たちは進路の面談だかなんだかで今日は来るのが遅くなると言っていた。誰でもいいから来てくれないだろうか。クソ。幽霊部員だらけのこの部が恨めしい。
「先輩の絵は素敵ですね」
 そんなことを考えていると、急に声をかけられた。振り向くと、さっきまで鉛筆を削っていたはずの藍がすぐ後ろにいた。怖! 俺はおまえの距離の詰め方がすごく苦手なんだよ。なんでいつも気配がないんだ。
「お、おう、ありがとな」
 平静を装って礼を言うと藍は軽く目を伏せて嬉しそうに笑った。単なるお世辞ではなかったようだ。さらさらのポニーテールが窓から入る風に揺れる。礼を言われただけの藍の方が百倍嬉しそうなのもおかしな話だ。戸惑ってないで、嬉しそうにするべきは褒められた俺の方なんだろう。よく見ると藍はまだ刃の出たカッターを持ったままだった。怖いからしまってほしい。
「私なんて、見たものを見たように描くことぐらいしかできなくって、だから、先輩の絵ってすごいなあって、思うんです……」
 嫌味かテメー。眉間に皺が寄る。俺は、そういうふうに描きたいからそう描いてるわけじゃない、見たものを見たように描くことができないんだよ、と心の中で毒づく。有り体に言うと、ごく普通に、絵が下手なのだ。単純に画力がないだけの話。こいつはわかってないのか? おまえみたいに、見えているものをきちんと写し取る力だって、俺が求めるもののひとつだ。
 藍は地に足をつけてしっかりと歩を進めるように、着実に上達している。絵を始めた頃の藍の絵は、俺の目から見ても光源がおかしかったりパースが狂っているのがわかったりするようなものだったけれど、最近は破綻がほとんどなくなってきている。どうしても空や水は青・草は緑で塗ろうとしたり、対象の線をきっちりと黒で縁取ろうとするような、どこか生真面目というか神経質な描き方のクセこそあるものの、量を描いていけばいずれは型から抜け出せるだろう。まだまだカタさの残る絵とはいえ模写やクロッキーの画力においては俺をとっくに凌いでいるはずだ。
 俺に憧れたと、そう言ってくれた藍が、俺の絵に何を見ているのか、肝心の俺にはまったくわからない。俺がたまたま抽象画みたいなものを描いていて、藍がたまたま写実寄りの絵しか描けない(と本人が思っている)だけなのだ。そもそものジャンルが違うから、藍は上手に比べることができずにいるんだろう。
 だいいち俺の美術部活動は言うなれば雪かきみたいなもんだ。ほっとくと何かが胸の内に積もってしまって心が潰れそうになるから、仕方なくかきだしているだけで、あふれ出るイマジネーションをかたちにしているような高尚なもんじゃない。藍本人の力量が伸びていけば、そのことはそのうち藍にもわかるだろう。そして、自分の憧れが安っぽいハリボテにすぎなかったことに失望するはずだ。藍の成長速度なら、俺ぐらいのレベルはおそらく通過点にしかならない。
 そう、俺にも才能はある。買いかぶられる才能だ。
「藍の方がうまいじゃんか。最近の絵だっていい感じだと思う」
 藍は微笑みを浮かべた。さっきの嬉しそうな笑い方とは違う。俺がそう言うことをわかっていたような顔だ。
「ううん、先輩、違うんです。そういうことじゃあないんです。私が描いているものはどこまでいっても偽物にしかなれないんですよ。練習すればきっと今より精巧に描けるようにはなる。でもそれって、本物っぽいけどそれに似ている何かでしかないでしょう。魂が宿ってないとでもいうのかな」
 俺のそばを離れ、描いていた絵の方に戻っていく。
「この絵もそう。牛骨が描いてある。ただそれだけですよ。よく似てるか、そうじゃないか、ぐらいしか言うことはない。あったってなくたって構いやしない」
 藍の指先が牛骨の影を描いた部分に触れてそのまま画面をなぞる。やわらかそうな人差し指に2Bの鉛筆の粉が付着して、まだ白い紙の部分に黒い筋が跡を引いた。
「先輩の絵は違う。線も形もなくて何が描いてあるか一見わからないような画面でも、何を描いてあるか、私にはわかる……。物の本質、隠された真実、先輩が見ている現実がそこにはある」
 藍は画面から指を離し、汚れた指先に今気づいたかのようにじっと指を見つめた。落ち着きなく人差し指と親指をこすりあわせる。そんなことすると広がるぜ。
「私は先輩のように描こうと思っても、何も浮かばないんです。白いキャンバスの前で途方に暮れてしまう」
 俺は笑いだしたくなった。本当、何を言っているんだコイツは。だって俺は、これを何のつもりでも描いていないんだぞ。本質も真実もそこにはない。からっぽな絵だ。空虚を描いているようなものだ。俺が見ている現実がこれって、おまえちょっと俺のことバカにしてんのか? いっそ色見本ってタイトルでもつけてやろうか。この絵の具とこの絵の具を混ぜるとこんな色になるんですよって。色そのものには他意も嘘もないから、それぐらいの参考にはなるかもしれない。俺は作品にキャプションを付けるのが得意じゃないが、今回ばかりは懇切丁寧に色の解説をしてやろう。
 俺の絵の何がこの夢見がちな後輩の琴線に触れたんだろう。頭ではわかっている、自分の絵を好いてもらえたことに対して喜んだり感謝すべきなんだろうとわかっている。それでも、俺の絵にわけのわからない拡大解釈をしている藍に対してどうしてもそういう気持ちになれなかった。現代アートに自分勝手に意味を見出して通ぶろうとしている人間を見ているような嫌悪感。バカなやつ。あまりにバカバカしい妄想に、意地悪のひとつでも言ってやろうかと思って俺は問いかけた。
「じゃあおまえには何に見えてんの?」
「え?」
「俺のこの絵だよ。何が描いてあるかわかってんだろ?」
 どんなとんちんかんな答えが返ってくるかと耳をすませた。もしくは答えに詰まるか。どっちかな。どのみち答えられるわけがない。だって、これは何でもないんだ。この世に存在する、何でも……。けれど俺の予想に反して、藍はよどみなく答えた。なんでそんなことを問うのかと、不思議そうな顔すら、した。

「自画像でしょう?」

「……はっ?」
「なんでそんなこと聞くんです、画面いっぱいに、先輩の顔が描いてあるじゃあありませんか」
「……なんだって?」
 俺はまだからかわれているのか? なんでそんなこと聞くんですかって、こいつ結局言葉にもしやがった。自画像? 自画像だって? ここに俺が描いてあるって、そう言いたいのか? グチャグチャに塗り潰された画面。調和もとれず混ざりあえずに居心地悪そうな色たちが塗りこめられたこのキャンバスに、俺がいるって?
「なんでそう思うんだよ」
 俺がそう聞くと藍の表情が困惑を深めた。お互い戸惑っててどうすんだよ。血色の良い唇がとがらせられた。藍の口調が、大人びたいつものそれではなく、少しふてくされたような、拗ねたようなものになった。
「なんでって、さっきからどうしてそんな意地悪を言うんです、だって描いてあるんですもの、先輩だって私のこの絵を見たら牛の骨が描いてあるなあ牛の骨の絵だなあって、思うでしょう、同じですよ。自明の理ってやつですよ」
 俺は耳まで血が上ってくるのを感じた。だって他に何と言われるよりもきっとその答えが一番近い。俺の心の膿みをなすりつけているだけの、モチーフなんてありもしないはずの、この絵の正体に最も近い。相容れないと思っている後輩に存外しっかり俺を見透かされていたことが恥ずかしくて仕方がない。そんなに自分の底が浅いだなんて。腹を開かれて臓物を覗かれているようなむずがゆさがある。暴かないでくれ、見ないでくれ。俺の、やわらかいところに、触らないでくれ。……なんてこった。
 世界が滅ぶなら今すぐがいいとすら思うぐらい、俺は今、恥ずかしい。
「……全ッ然ちげーし」
「えっ?」
「バカ、おまえバカ、こんなの自画像でもなんでもない、これはアレだ……そう……ゲロっ、ゲロの絵だ!」
「ゲッ……、えっええーっ?! でも、」
「でもも何もないッ、描いてる俺がそういうんだからそうなの! 全部おまえの勘違い! わかったか?!」
「えーっ……」
 おそらくは腑に落ちないという顔をしているんだろうが藍の顔を正面から見ることができそうにもなく、「もうこの話は終わり! 俺は今日は帰るからな!」と片付けもそこそこに美術室を飛び出した。あーヤバい。マジで吐きそう。