花と嵐
大型の台風が列島を縦断すると予報が出ていた。数日前からテレビやラジオでよく注意喚起されていたけれど、いよいよこの街にも近づいてきたらしく、昼過ぎから少しずつ風が強まってきている。先週席替えしてから窓際の席になったので、授業が始まって教室が静かになると閉め切った窓が強い風にカタカタ震えているのがよくわかった。朝のうちに暴風警報でも一発出れば休校だったんだろうけど、結局注意報どまりだった。授業終了のチャイムが鳴り、放課後になっても風はおさまるどころか強まる一方で、教室に残っているクラスメイトの喧騒の合間を縫って風が窓を叩く音が響いている。時々、窓の近くにいる子が風の音に反射的に驚いては友達と「風ヤバいねー!」ときゃいきゃい言い合っている。その様子はなんとなく楽しそうで、台風にちょっとしたお祭り気分を感じていることがわかる。その気持ちはわからなくもない。
「洗濯物大丈夫かなあ。お母さん、まだ外に干してたけど……」
斜め前の席の藍が、私越しに外を眺めながら心配そうに言った。つられて外を見ると、十何年か前の卒業生が記念植樹したという欅の枝がちぎれんばかりに風に吹かれている。
「うちの家族、そのとき雨が降ってなかったら干すんだから。のんきだよね」
「ニュースだと降りだすのは夜からって言ってた」
「予報通りだといいなあ」
「うちに帰るまでは降ってほしくない……」
「本当だね~」
藍はやれやれという顔をした。そういう表情も藍がすると可愛らしい雰囲気になる。そういえば今日の部活はどうするんだろう。美術部の活動場所は屋内だから天候には左右されないものの、帰りが遅くなると台風の真っ只中を帰ることになるかもしれない。そう思う私の心を読んだかのようなタイミングで、出入口の近くで携帯電話をいじっていた女子が「ねー、さっき暴風警報出たらしいよ!」と大きな声で言った。教室内は「えーやっと?」「今更遅いしー」とざわめく。それを聞いていた藍が「じゃあどこも部活は休みだね」と言った。幽霊部員だらけのあの部にあって、藍はまじめに通っている方だ。残念そうにしている。
「……帰る?」
「うん、あ、でもこんな日に限って日直なの。日誌ササッと出してまっすぐ帰る。七限目が現国でよかったよ、星野先生は自分で黒板消してくれるもんね。仕事一個減った」
「じゃあ、待とうか」
「ほんと? ありがとう。ハツも今日はゲーセン寄っちゃ駄目だよ」
「寄らない……」
「あはは、冗談冗談」
笑った藍は机に向き直って日誌を書き始めた。帰り支度は終わっているし、ゲーム機を取り出すほど待ち時間があるわけでもなく、頬杖をついて外を眺めていた。風邪に飛ばされてきた葉っぱが時折ペチャリと窓にはりついてはまた飛んでいく。
まもなく『警報が出たので校内に残っている生徒は速やかに下校しましょう』という旨を伝える校内放送が流れた。教室に残っていたクラスメイトも一人また一人と減っていき、いるのは私と藍の二人になった。
藍は几帳面に日誌を書いてきちんと欄を埋める。後ろ姿に目をやると、忙しなくペンが動いているのがわかる。今何を書いているんだろう。そんなに書くことあったかな。今日の出来事を思い出そうとしても、台風のこと以外はいつもと代わり映えのしない木曜日だったとしか思えない。この調子なので、私は自分が日直のときはいつも何を書いていいかわからず、数行で終わってしまうことがざらだった。担任ですらそんなにまじめに日誌を読んでいるわけではなさそうで、私が日直のときも藍が日直のときも内容の質に比例しない当たり障りのない短いコメントが添えられていた。
ほどなくして藍が日誌を閉じて立ち上がった。きちんと椅子を整えてから私を見る。
「お待たせ。帰ろっか」
うなずいてカバンを持つ。教室の電気を消すと、夏の夕方なのに思いのほか暗かった。きっと雲が分厚いのだろう。
職員室から藍が出てきたのとほぼ同時に雷が鳴り始めた。藍は大きい音が得意ではないので、近くに落ちたときは露骨に体をビクつかせていた。げんなりした表情で廊下の窓から外を見ている。
「わ~もう絶対雨降るね……」
昇降口の手前まで来たとき、藍は「……ごめん、お手洗い寄っていい?」とばつの悪そうな顔で聞いてきた。断る理由があるわけもなく、黙ってうなずくと、藍は「ありがとー、カバン置いとくから見てて」と言ってカバンから薄桃色の花柄のポーチを取り出した。それを見た私が(ああ、あの日か)と察したのがわかったのだろう、藍は少し恥ずかしそうにしながら女子トイレまで小走りで向かっていった。私としては別に女同士で気を遣うこともないと思っているので気にしないでほしいけれど、藍は”そういうの”を恥ずかしがる傾向がある。
(……あ~)
ついに雨が降りだしてしまった。降り始めから、土砂降りと呼べる勢いになるまでが異様に早かった。夕立のような勢いだ。校舎のあちこちからワーだのキャーだの声が聞こえてくる。昇降口からは「傘パクられてるんだけど! サイアク~!」という縁起でもない声も聞こえた。私の傘は大丈夫だろうか。どこにでも売っている何の特徴もないビニール傘だから盗まれやすそうだ(そう言って兄さんが貼ってくれた、丸っこいゴシック体で私の名前が印字された黄色いテプラはその日のうちに剥がした。剥がされたことに気づいた兄さんは何か言いたそうな顔をしていたけれど無視した)。
そのとき、男子トイレの方からヌッと誰かが出てきた。
(……あっ)
よりにもよって青野先輩だった。そういえばここは二年生の教室棟に近いのだった。なんとなく、これはまずいなと思った。藍はおそらく、顔見知りでしかも異性の先輩にはなおのこと自分の状態を察されたくないはずだ。鉢合わせないことに越したことはない。先輩は背中を丸めてポケットを漁っていたけれど、どうやらハンカチが見つからなかったらしく舌打ちをした。先輩ハンカチとか持ち歩いてるんだ、と幾分失礼なことを考えてしまった。そのまま去っていくかと思ったが、先輩は不意にこちらを見た。しまった。早く行ってくれと思うあまりに見つめすぎたかもしれない。
「あ、ハツ……」
まだ残ってたのか、とかなんとかそんなようなことを言った。ここで会話に応じれば先輩は場に留まってしまい、そのぶん藍と先輩の遭遇率が高くなってしまう。どうするのが正解なのか固まっている私を気にするでもなく「この天気だし早く帰った方がいいんじゃねーの」と先輩っぽいことを言って先輩は背を向けた。それと同時に藍が女子トイレから出てきて「ハツありがとう」と言った。その声を聞いた先輩は何をそんなに驚いたのか軽くつまずきかけ、濡れた床に上履きが擦れる音が甲高く響いた。藍は怪訝な顔で音の出どころへ振り向いていく。私はたぶん「アッ」という顔をしてしまったと思う。
そして藍と先輩は互いの存在に気づいてしまった。
「ぅわっ」
なぜか藍より先輩の方がオーバーなリアクションをした。のけぞるように一歩下がる。そして、先輩の目線が、藍の手元のポーチにいった(いってしまった)のが私にもわかった。私たちの間には無言の時間が流れる。
「…………」
私の角度からだと藍のことは後ろ姿しか見えず、表情が窺えないが、明るく礼儀正しい藍が先輩に遭遇して挨拶もなしに黙っているなんて珍しい。つまり、あまり余裕がないのだと判断して、私は「藍!」と思わず声を出していた。二人ともこちらを見た。先輩は何を考えているのかよくわからないボサッとした顔をしていたので妙に腹が立ったが、藍の方は可哀想なくらい真っ赤になっていた。
「帰ろ!」
耳まで上気した藍の顔を見た途端、普段出さないような大きさの声が出て自分でも驚いた。藍も驚いたようだったけれど、気を取り直したようにこくこく頷いてこちらへ寄ってきた。先輩は気の抜けたような顔で藍の背中を見、「お、お疲れ?」と呟いて再び廊下の奥の方へ歩いていった。キュ、キュ、という足音が遠ざかっていく。……先輩は別にポーチの意味になんか気づいていないんじゃないだろうか? なんとなくだけどそういうことに鈍そうな気がする。
「…………」
「……か、帰ろうか」
先輩の足音が聞こえなくなっても、藍は固まっていたし頬はまだ赤かった。それでも私の言葉になんとか動き出すと、緩慢な動作で屈みこんでポーチをカバンにしまった。ハアー……と大きく息をついた藍の肩がゆっくり上下した。こちらを見上げてきた藍の瞳はいつもより水分を多く含んで頼りなくきらめいている。どことなく無防備にも思えるその目の光は、瞳に宇宙を持つあの風変わりな探偵を思い出させた。
――あぁ。
その目を見てふと思った。
藍は、青野先輩のことが好きなのかもしれない。
だから、見られたくないところを見られて、あんなにもらしくなく狼狽えたんじゃないだろうか。……私の友達が、恋をしている。なんだか、それは、世界を揺るがす世紀の大発見のような気もすれば、なんで今までその可能性に思い当たらなかったのかが不思議なような気もした。とにもかくにもそれがスルリと腑に落ちた瞬間、窓の外にビカリと稲光が走り、一段と近くに落雷して轟音とともに廊下がビリビリ揺れた。その爆音にはさすがに私も驚いたが、騒音が苦手なはずの藍はなぜだか今の雷にはあまり反応を見せず、スカートを抑えてスッと立ち上がる。私の顔を見てにこりと笑った藍は、もういつもの藍だった。
「うん……ありがとう、ハツ」
「……気にしないで」
いろんな意味でさ。と心の中で付け加える。互いに無言のまま昇降口へ向かう。
人を好きになるって、どういうものなんだろう? 高校生にもなれば、彼氏彼女だ惚れた腫れただの浮いた話はそう珍しくもない。私の知らないところでみんな色々な経験をしているに違いなかった。藍はそういう話をあまりしないし恋人もいないけれど、モテるのはわかる。告白とか、たまにされていると思う。そういえば私はいわゆる恋バナをまともにしたことがない。恋をしていない私が話す側になれないのはもちろんのこと、経験も愛想もない私に上手な相槌や返しが期待できるはずもないので、そういった話をする相手としては不適切もいいところだろう。周りの子にもそういう雰囲気を気取られているのだと思う。実際そういう話題にほとんど興味がないし、聞いていられる気もあまりしない。探偵のときは、相手が勝手に語り続けるので勝手に耳に入ってしまったけれども。
脱いだ上履きが湿気で心なしか湿っている気がする。明日には下駄箱が臭くなってそうだなと嫌なことを思いながらスニーカーと入れ替えた。このスニーカーも家につく頃にはぐっしょり濡れているだろうなあと思うとうんざりする。足を突っ込んで、コンクリートのたたきにつま先をトントンしながら履く。
「ハツまたそうやって履いてる~。かかと踏んじゃダメだよ」
苦笑いした藍が兄さんのようなことを言う。藍はかがみこんで紐を整え、足を差し込んだ靴のかかと部分をひっぱるようにして履く。所作がいちいち丁寧な子だ。心優しくて、綺麗な、私の友達。
私は、藍の恋の話を聞いてみたかった。
……ねえ藍。私ね、恋をしていると勘違いされたことがあるんだよ。
「藍――」
湿気のせいかいつもよりもペタッとしている藍のつむじのあたりを見下ろしながら、生まれて初めて感じる種類の衝動が私の喉を震わせる。
探偵は言った。地獄への道連れを想像する私は誰かを思い浮かべていたのだと。藍はどんな表情で先輩を語るだろう。愛せども手に入らない人との心中をたくらむあの歌を聴いて、何か重ねるものはあるのだろうか。『殺してでも手に入れたいと感じるほどの、魂を焦がすような愛を感じたことは』? 脳裏をよぎるその声に、あの探偵の声は何か不思議な力を持つものなんだと気づいた。外の豪雨のように膨大に言葉を浴びせられていたにも関わらず、その言葉はなぜかその声ごとこうして心に残ってしまっていて、今でも耳元で言われているかのように再生できる。
靴を履き終えた藍は私の呼びかけに反応してこちらを見上げてきた。私が恋バナなんて振ったらきっと藍は驚くだろうな。もしかしたら顔を赤くして慌てたりするかもしれない。微笑ましい想像に口角が上がる。「あのさ」と声を出して――けれど私は結局その続きを口に出せなかった。とろくさくて間の悪い私はこんなふうに自分から何かを動かそうとしてもそれはいつだって少しだけ遅くて、大事なことに間に合わないのだ。
「やあやあ! 藍ちゃんにハツちゃん。可愛い後輩たち~、元気ィ?」
私の問いかけを遮ったその声は、降りしきる雨音の中でもよくとおった。……黄色先輩の声だった。朗らかな挨拶をした彼は、ビニール傘を携えて玄関口に立ち、顔の横で小さく手を振っている。いつの間にそこにいたんだろう。傘二、三本分ぐらいの距離をあけた場所に立つ先輩のことに、声をかけられるまで特に気づかなかった。神出鬼没というか、気づけばどこにでも湧いてくるような感じのする人だ。そんなに得意な相手ではないので、遭遇しても別に嬉しくはないというのが残念なところ。しかし今回は私のものだけではない緊張感があった。
先輩は気さくな調子で話しかけてはきたが、私の記憶が正しければ藍はこの先輩に何かしらの敵意を抱いているはずなのだ。たちが悪い、魂が腐っている。やさしい藍がそんな不名誉な烙印を押した、唯一かもしれない相手。二人の間にどんなやりとりがあってそうなったのか、未だに私は知らないままでいた。だからこういう場合、藍の方に当然味方するにしてもどういう態度でいればいいのかよくわからなくて困ってしまう。
「……はあ」
とりあえずは肯定とも否定ともとれないような間の抜けた返事をしておいた。ため息に聞こえたかもしれない。気分としてはそれでも間違ってないので、別にそう思われてもよかった。えーと、ここからどうすればいいんだろう。ちらりと藍を見ると、黄色先輩に存外しっかりと目線をあわせていた。嫌いな相手にもそうできるのはえらいなあと思う。私なら上手にあしらえないから、逃げ回ることだけ考えてしまうだろう。
「こんにちは、先輩。元気ですよ」
藍から折り目正しい挨拶をうけた黄色先輩が猫みたいに目を細めて笑う。どうやら先輩は帰ろうとしていた私たちと違って外から戻ってきたところらしく、持っているビニール傘が外の風の強さにあまり意味をなさなかったのか、肩のあたりは濡れていた。制服のズボンの裾も水を吸って色が濃くなっている。
「そりゃよかった。この前は元気なかったみたいだからサァ。俺のアドバイスが役に立ってるってことかなァ?」
「なんのことです?」
「ありゃ? 親切な俺がせっかく教えてあげたのに。忘れちゃったのかなァ、君、思ってたよりうっかりさんなんだねェ。心優しい先輩の助言はきちんと心にとどめておくべきだよ……そう思わない、ハツちゃんも?」
「へっ」
唐突に話を振られて間抜けな声が出た。そういう話に巻き込まれるのは若干後ろめたい。藍がうけた助言がどんなものかは知らないが、私も黄色先輩からの忠告めいた助言を無視した身であったからだ。私がこの人の言うことを聞く義理などまったくないとはいえ、少なくともあのときの黄色先輩は親切心で言ってくれていたのだ。にも関わらず黄色先輩の言いつけを破って探偵と接触したことを今も暗に咎められているのか、それとも改めて釘を刺されているだけなのか……とぐずぐずと考えてみたものの、わかるはずもなかった。
目が合って気まずい顔をしているだろう私に黄色先輩が何か言おうと口を開いた――が、それより先に藍が口をはさんできた。
「先輩、ハツにも何か言ったんですか?」
「うん?」
藍には珍しく、警戒心丸出しの刺すような口調だった。これは牽制だ。それがおそらく私のことを思いやるがゆえに出てきたものだと思うとこそばゆい。意味ありげに私に話題が振られたのを目ざとく察知したのだろう。たぶん私とこの先輩が関わることがよろしくないと思ってくれている。そしてこの言い草からして、藍が受けた助言とやらはろくなものではなかったんだろうなということが推し量れた。
黄色先輩は怯むことなく、人差し指を口の前にピンと立ててみせる。「しーっ」のポーズだ。
「ナイショ! そ、れ、は、二人だけの秘密だよねェ、ハツちゃん」
そんなことを言いながら、ニタニタ笑いではなく蜂蜜がとろりとあふれるような甘やかな笑顔を私に向けてくる。――これは私にだってわかる。まるで恋人に向けるようなそれも、わざとらしい幼い仕草も、すべては藍の先制パンチへのささくれた仕返しのためだけのものだと。うっすらと頬すら染めてみせて、大した表情筋だ。役者役者。……いやいや、待って、巻き込まないでほしい。
「いや、気持ち悪い言い方やめてくれません? 関わらない方がいい人がいる……みたいなこと、教えてもらっただけでしょうに。勘弁してくださいよ……」
あっさりと暴露した私に、黄色先輩はガーン! と音の聞こえてきそうな落胆の表情をしてキャンキャン騒ぎ始めた。怒りに任せてビニール傘の石突をガツガツと玄関の地面に叩きつけている。濡れそぼっているビニール傘は打ちつけられるたびに水滴が散った。
「なんでバラしちゃうのォ、ひどい! そんなに口が軽い子だなんて思わなかった!」
「だから、藍、えーとその、この先輩に何かされたりとか、嫌な思いとか別にしてないから……」
「何かされたりって何さ! するわけないだろォ! 君って結構自意識過剰だよねェ!?」
「ちょ……うるさい、黙ってください」
眉をひそめていたはずの藍は、目をまるくすると口元に片手を当ててくすくす笑った。黄色先輩はおもしろくなさそうにム、と口をとがらせる。
「あはは、なぁんだ。仲良しなんですね。ねえハツ、うるさいでしょうこの人。先輩がどのツラさげてそんなこと言ったのかわかんないけど、関わらない方がいい人ってむしろ先輩のことだから」
ふざけたような軽い口調でさらっと先輩をくたしながら藍は笑った。
「君もひどい! 可愛い顔してなんてこと言うのさ。俺だって傷つくんだよォ?」
「ですからご心配なく。『――』先輩のありがたいご指導ご鞭撻などなくても私たちは大丈夫ですから」
だから、関わるな。と。そう言いたげな調子だった。平素は穏やかな友人がつむいだはっきりとした拒絶に、それを向けられていない私の方がかえって怯んでしまう。藍が口にした聞きなれない名前に、誰のことを言っているのかと一瞬考えたけれど、状況的に黄色先輩のことだとすぐわかった。そういえば黄色というのはこの人が自分で名乗ったただのあだ名だった。藍が呼んだそっちが本当の名前なんだろう。客観的に見れば友人なのかと錯覚しそうなほど気安く声をかけてくるこの先輩とは、その実そんなことすら知らない間柄にすぎないのだ。
黄色先輩は「も~、皆して先輩に対する態度がなってないねェ」なんてひとりごちて、人差し指でビニール傘の柄をひっかけて器用にクルリと一回転させる。その勢いで飛んできた水滴がピチャリと鼻先に飛んできて思わず目をつぶる。顔に唾を吐きかけられたような不快感があってムカついた。傘を振り回すのは危ないからやめてほしい。
「藍ちゃんはひどいや。そんな他人行儀な呼び方はサミシーよォ。君と俺との仲じゃんか、親しみをこめて黄色先輩って呼んでほしいって言ったろ? それとも本当に物覚えが悪いのかナァ?」
不機嫌なような、傷ついたようなその顔がどこまで演技で誇張されたものなのかわからない。私にも藍にもあだ名を強要してくるということは、黄色先輩は本当の名前で呼ばれるのがそんなに好きじゃないのか。もしかしたら藍はそれをわかっていてあえて本名で呼んだのかもしれないし、どちらにしろ私たちには黄色先輩の事情なんて知ったことじゃあない。人の嫌がることを平気で言える人間が、自分の嫌がることはしてほしくないなんてずるいと思わないのか。親しみをこめて呼んでほしいと恥ずかしげもなく言うのならば、親しくしたいと思えるような態度をとるべきだろう、アンタも。
黄色先輩は何度かクルクルと振り回したビニール傘の柄を持ち直すと、指を差すように石突を藍と私に向けてみせた。銃でも突き付けているようなポーズだ。だから振り回したり人に向けたりすんなっつうの、危ないから。小学生かアンタ。兄さんがこの場にいれば確実に怒られる。
「仕方ないねェ、忘れっぽい藍ちゃんのためにもう一度教えてあげよっか……」
身振り手振りも言うこともすべてがいちいち喧しく煩わしくて、自ら人様の癪にさわりにきているとしか思えない黄色先輩だけれど、そのときふと変化した表情にはなんだか慈愛のようなものが浮かんでいるように感じた。
「猫背はねェ、年上趣味なンだよ」
言い聞かせるようなその物言いは、まるで本当に忘れっぽい子に重ねて言い含めているようであくまでもやさしかった。常の黄色先輩の姦しさからすれば有り得ないようなおとなしい声量のそれは囁きにも近くて、あと一歩か二歩でも先輩から離れていれば雨音にかき消されていてもおかしくはなかったかもしれない。あまりにもやさしかったから……それが本当のやさしさから出た言葉なのだと勘違いしたくなるくらいには。
けれど、わかっていた。私にも、もちろん藍にも。
これはただの毒だ。なんでもないようにぽつりと一滴落とされた染みは、そこからじわりじわりとすべてを冒し蝕んで殺そうとするためのものだった。あのさぁ黄色先輩。まさかそれが藍への助言だったというんなら、藍、ああ、藍はやっぱり……。先輩、黄色先輩、アンタってさぁ。
「……あなた、本当にうるさい」
藍がそう呟くと、黄色先輩はこちらに突きつけていたビニール傘をそのまま開いた。バンッと目の前で傘が勢いよく開いたせいで、付着していた雨粒が私と藍に向かっていくらか飛び散ってきた。またか。汚いし、鬱陶しい……。子どもじみた嫌がらせの手札の多い人だ。どうしてそういうふうに生きているんだろう。あのねぇ先輩、私はね、友達の恋の話を聞きたかっただけなんですよ。アンタの大嫌いな探偵と話して、思うところがありまして。似合わないかもしれないけど、フツーの女子高生みたいに、そういう話題で盛り上がったって、たまにはさぁいいじゃないですか。せっかくそんなふうに思えたのに。珍しく勇気を出そうとしたのに。アンタひどい人だよ。傘のビニール一枚を間に挟んで向かい合う黄色先輩を見つめる。私たちを隔てる傘の表面を伝う水滴が、ビニールに透けて見えている先輩の輪郭を少し歪ませていた。